流星とカノープス

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流星とカノープス

 あまりの衝撃に砕け散った。恋の破片は宙を舞って、星のようにきらめいて、やがて色を失い地に落ちた。  失恋した。失意のどん底にいた。  半年間付き合った彼氏に「ごめん、重い」の一言でフラれたのが二限の空きコマ。いつも二人で過ごしていた水曜二限の時間も、もう一生訪れることはないのだと認識すると、目の前が真っ暗になった。  とりあえず、食堂で何かを腹に収めて、三限のゼミに向けて資料を印刷しないと。頭ではやらなくてはいけないことがきっちりリスト化されているのに、体が動かない。今日からは一人でご飯を食べなくてはいけないのだと思うと食堂に行くのも怖かった。こんな時に心の支えになるのが友達、とよく聞くが、当事者になって思う。友達は支えにはなれど、いなくなった彼氏の代わりにはなってくれない。  十二月のキャンパスには北風が吹き抜ける。クリスマス、一緒に過ごすと思っていたのに。寒いのと寂しいのとがぐちゃぐちゃに混ざって、急に涙が溢れ出した。すれ違う人は、子ども顔負けに泣く私をギョッとして見ている。止めたくても止まらないのだ。そして、こういう時に限って知り合いに会ったりするものなのだ。  袖で目元を拭いながら食堂の扉を押し開けようとしたところで、それは空を切った。自動ドア、ではなく反対側から誰かが扉を引いたのだ。 「…………遠影くん」  同じ学部。同じ専攻。同じゼミ。ただし、一度も話したことはない人。いつも一人で行動していて、変人だともっぱら噂の遠影くんが、いつもと変わらぬ陰気な姿で、私の進路を阻んでいた。  心の中と同じくらい顔面もぐちゃぐちゃの私を一瞥した遠影くんは、真顔のまま頷いて、 「そう、僕、トオカゲクン」  と、言った。そんなことは知っている。やっぱりこの人、ちょっと変だ。  変なやつ、と見下す気持ちがあったからだろう。どうせこの人になら、どう思われても構わないと思った。だから、井戸に向かって「ロバの耳」と叫ぶような気分で、呟いた。 「もう死にたい」  眼鏡の向こうと目があった。意外と目力のある双眸に不躾なほどじっと見られ、落ち着かなくなる。 「すいません、退いてくれませんか」  背後から声をかけられてはっとする。私たちは食堂の扉を塞いでいたのだ。まごつく私の手が、不意に掴まれた。遠影くんは私をさっと脇に引き寄せて、入口から避けた。声をかけてきた男女は私たちに不審げな横目を投げかけつつ、食堂へ吸い込まれていった。 「じゃあ、長生きの光を見に行こう」  こちらに向き直った遠影くんは、手を掴んだまま表情の読めない顔でそう提案した。  何それ。どんな慰め方よ。死にたいって言ったから? やっぱりこの人、変だ。  そう思うのとは裏腹に、私の首はこくりと縦に振られていた。  そこからの遠影くんの行動は早かった。  私も遠影くんも三限にゼミを控えていたはずなのに、学校を抜け出して各駅停車に飛び乗った。授業をサボるタイプだとは思っていなかったので意外だった。  ボックス席に向かい合って座り、車窓を眺める。私は何をしているんだろうかと、今さら現状に気まずさを感じ始めていた。しかし、ちらりと盗み見た遠影君はどこ吹く風で、私のことなんか気にしていない様子だった。 「ねえ」  不機嫌な声を出そうとしたら、掠れて音にならなかった。先程まで泣いていたせいだ。小さく咳払いをする。 「ねえ、どこ行くの」 「長生きの光を見に行くんだよ」  さっきも言ったじゃないか、と遠影くんの声音が語っていた。そんなことを聞きたいんじゃない。もっと具体的に言ってほしい。 「長寿の星、カノープスを見に行くんだ」 「星? 天体観測?」 「そう」  そういえば、遠影くんがでかでかとした棒状の何かを教室に持ってきて、注目を集めていたことがあった。「あれ絶対に楽器だよ、根暗なバンドマンだ」と友達が偏見に満ちたことを耳打ちしてきたが、あれはもしかしたら天体望遠鏡だったのかもしれない。  それにしても、失恋した女を天体観測に連れて行くなんて。まさかこの人、平然とした顔をしながら私のことが好きなんじゃなかろうか。 「カノープスは中国の伝説で、見た者を長寿にするって言われてるんだ。だから寿星とか、老人星って呼ばれてる。まあ、古代ギリシアだと、名前の由来のカノープスっていう船の舵手は、難破先で蛇に噛まれて死ぬんだけどね。縁起がいいのか悪いのかは、星を見つめる者の心持ち次第だよ。今日の僕たちは中国人っていう設定でいこう」  ――なんていう自惚れは、すぐに霧散した。この人はたぶん、ただのオタクなのだ。一瞬でも勘違いした自分が恥ずかしい。そして、失恋したばかりなのにそんなことを妄想している自分に自己嫌悪が渦巻いた。こういう浅ましさのせいで見限られたのかもしれない。  遠影くんはなぜ、こんな私を連れ出そうと思ったのだろうか。 「ねえ」  なおもうんちくを並べる遠影くんの息継ぎの間を縫って、話を遮った。 「なんで私を連れてってくれるの」 「松原さん、暇そうだったから」  彼の優しさに抱きかけていた感謝の念が、きれいに吹き飛んだ。 「いつもは彼氏さんと一緒に食堂に入ってくるのに今日は一人だから。しかも泣いてるし。喧嘩したか別れたのかと思って」  デリカシーのかけらもない物言いに、怒りが湧き上がる。 「それで死にたいって言うから。ちょうどカノープスの時期だし、暇ならせっかくだし一緒に行こうと思って」  反論したいのに、上手い言葉が見つからない。図星を突かれたからだ。口をぱくぱくさせるだけの私はさぞ滑稽に映っていることだろう。相変わらず遠影くんはにこりともしない真顔だけれど。 「あ、あのねえ……!」 「誰かと一緒に観ると、星の色は変わるよ」  やっと喉に詰まった言葉を絞り出しかけたところで、私を真っ直ぐに見ている遠影くんの目の静かさに気がついた。電車に乗ってこの方、私は車窓か足元しか見ていなかったようだった。 「ひとりで観るのも、ふたりで観るのも、どっちも違った良さがある。あ」 「へ?」 「乗り換えだ。いこう」  すたすたと歩いていく背中に置いていかれないように、慌てて後を追った。  孤独を好む性分なのだと、勝手に思っていた。だから学校で誰ともつるんでいないのだと。だが、意外と人と時間を共有することも、好きなのかもしれない。それに、遠影くんのことを「無口な変人」としか思っていなかった私よりよっぽど、周りのことをよく見ている。彼氏より一回りほど小さく細い遠影くんの背中を追いながらそんなことを思った。  カノープスは夜空の中でシリウスの次に明るく輝く星だった。南の空を、地平線すれすれのところで低空飛行する、私たちから一番近く見える星。他の星より黄色がかった、あたたかい光をまとって浮かんでいた。  寿命が伸びたかは定かではないし、傷は癒えない。しかし、あのよくある「海を見て自分の悩みのちっぽけさに気づく」の、夜空バージョンにはなった。私の恋は、流星のように落下して砕け散って宇宙の藻屑になったのだ。残るものはないけれど、一瞬の輝きを見て、誰かが「きれい」の一言くらいの感想は抱いてくれたかもしれない。遠影くんが、私と彼が食堂で昼食を摂っている姿を密かに見ていていたように。 「星を見にいこうってさぁ」  科学館から出ると、すっかり夕方になっていた。隣を歩く遠影くんを睨む。 「プラネタリウムだったのは想定外だったんだけど」  遠影くんは私の皮肉をさらりと受け流し、肩を竦めた。 「松原さん、まさか本当の天体観測だと思ったの。まず第一に、東京でカノープスを観るのは難しいんだ。あれだけ低い位置だと、ビルに遮られてしまう。そして第二に、今日は望遠鏡は持っていない。そして大前提に、昼間に星は見えないよ」 「はいはい、そうですね! わかってますよ!」  延々と続きそうなので無理矢理切り上げて、足を早めた。駅が近づいてくる。 「でも、楽しかったでしょ」  今まで聞いたことがないような、自信満々な遠影くんの声だった。振り返ると、相変わらずの真顔が、少し穏やかに見えた。 「……次は、本物を見に連れてってね」  ぼそりと言うと、いたずらが成功した少年のように破顔した。
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