1 出艇申告

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1 出艇申告

 平成某年4月鹿児島市、海を臨む高校にて。  少女は、フウとため息をついて真新しい革の学生カバンを靴箱の、すのこにおろした。靴を履き替えるため腰をかがめた時、短いおさげ髪が、両頬をなぜた。  気だるげに体を起こし少女は『柴田千恵(しばたちえ)』と書かれたラベルを貼ったスチール製の靴箱を開けた。キイと軋む音が薄暗い昇降口に響いた。キーンコーンカーンコーンとその日最後のチャイムが鳴った。  校舎の入口に顔を向けると野球部の練習する声がかすかに聞こえている。靴を置いて襟のリボンを少しだけ緩めた。靴箱にもたれかかって上履きを靴箱に入れたときだった。 「チイちゃんも帰るところですか?」  背後から声がした。  うつむき加減に頭だけ回して、振り向くと長い髪を三つ編みにして、これまたおさげにした少女が手提げの学生カバンの持ち手を両手で持って微笑んでいた。  いつ見ても清楚に服装を整えている子だ。千恵には薄っすらとそこだけ光ってさえ見えた。 「ショウちゃん……。ショウちゃんも今、帰り?」  千絵は、気怠げに言った。 「そう、部活をいろいろ見学してきましたの」と言いつつ、『中山翔子(なかやましょうこ)』と書かれた靴箱を開けながら 「入学して二週間たったところで、高校生活にも慣れてきたから部活に入ろうかなって思って。チイちゃんは今まで何をしていたのですか?」 「私も、部活を見て回ってた……。色々見たけど疲れちゃって。ショウちゃんはブラスバンド部か合唱部が希望だったよね?ブラバンは、中学でやってたし。また、サックスやるの?」  翔子は、靴箱から黒いエナメルの靴を取り出しながら言った。 「ブラスバンド部の練習も見せていただいたけど、今一つ緊張感が足りなくて……。合唱部はやってもいいかなって思いました。チイちゃんは?」 千恵は、よいしょとカバンを持ち上げて 「私の海好きにあう部活はなかった。生物部は魚とか、いるかなと思って行ってみたけど」 「どうでした?」 「自分のやりたいことができる感じじゃなかった。まともな顕微鏡もなくて。プランクトンネット一つなかったし。なんか、観葉植物の栽培なんかしてたし」 「そう、私にはよくわかりませんが……。じゃあ部活は、どうするんですか?帰宅部にしちゃいますか?」  いたずらっぽく微笑みながらながら翔子が言った。 「帰宅部かあ……。いやいや、希望して入った海に近い高校だし、3年間、何か今までやったことのないことをやってみたいからなあ」 「そうでしたわ。チイちゃんの志望動機は、海が見える学校に行きたいでしたよね」  市内で海の見える高校は、公立の南薩摩(みなみさつま)高校と私立の錦江院(きんこういん)学園の2校だけだった。柴田千恵は、南薩摩高校を選んだ。より海に近いというのが理由だった。 「じゃあ、一緒に合唱部に入りましょうよ。海の歌を一緒に歌いましょう!何でしたっけチイちゃんの好きな歌……。そう、あれあれ『海 その愛』歌っているのは誰だったかしら?」 「加山雄三様……。海の歌を歌う高校生活……か、それもいいかな……」  二人はゆっくりと話しながら玄関を出た。ちょうど右手に陽が沈むところだった。校門に10メートルほど近づいたところで何気なく右手の方に沈む夕日を見ていた千恵が言った。 「あれ……何?」 「え?」 「あれ」  千恵が、指をさした。グラウンドから部活棟に向かって、のそのそと車のようなものが動いていた。額に手をかざして目を細めてみていた翔子が言った。 「船……かな?誰かが、船を引っ張っているみたいに見えますけど」 車のように見えた白い物体は、千恵にも確かにその形状から船に見えた。しかもその船首近くには長いマストが立っていた。  船の長さは4mぐらいだろうか、タイヤのついたアルミ製の船台に乗せて誰かが引っ張っていた。 「いってみる」 千恵が、船に向かって走り出した。 「あ、チイちゃん待ってください!」  船まで50m位離れていただろうか、千恵は、すたすたと頭の高さを変えずに、手のひらを開いて走った。急に走り出したので息があがってきた。  近づいてみると、船を引っ張っているのは女子の生徒だった。走ってくる二人に気付いたのかそちらを見て歩みを止めた。中肉中背だが適度に引き締まった体の明らかに先輩らしい女子生徒だった。  制服のシャツをまくった腕は小麦色で、幾分茶色がかった長い髪を後頭部で黒いゴムバンドで束ねていた。  女子生徒は、驚きとともに不安げに二人を見た。千恵が、船にたどり着き中をのぞき込んで言った。 「これ、ヨットですよね?」 「そ、そうよ、よくわかったね。ヨットです。こういう小型のヨットをディンギーっていいます。で、これはFJ級(えふじぇいきゅう)、フライング・ジュニアて言う種類のヨット。あのーー、ひょっとして新入生ですか?」 先輩らしい少女が、にこりとしつつもおそるおそる言った。 「はい、先輩は何故船を引っ張っているのですか?」 「ああ、これ。これは、ヨット部の勧誘用のディスプレイで校門の所に飾っていたの。校門を通る新入生を勧誘するんだけど、何故かヨットから離れるように避けられて……。誰も興味を持ってくれないんで、今日はもうやめて部室の近くに運んでいたところなの。アハ、アハ、アハ」  先輩は、力なく自嘲的に笑った。 「ええ! この学校にヨット部ってあったんですか? 」  千恵は、驚き後から彼女を追いかけて走ってきた翔子の方を向いて、 「ショウちゃん、体育館で部活紹介があった時、ヨット部って紹介あった?」  といきなり聞いた。翔子は、うーーんと考えて答えた。 「ヨット部ですか?ちょっと、聞き逃したかもしれません。覚えていませんわ」 「あのーー。ヨット部の紹介はあったんですけど。やっぱり私の紹介の仕方が地味で印象なかったのね。部員のみんなに言われたのよね」  そう言って、先輩は、はあーとため息をついて肩を落とした。 「でも、ヨット部ってあるんですよね」  千恵が、先輩の顔を覗き込んでいった。 「あるよ、しかもうちの学校、全国大会に出るほど結構強いんですけど……ねえ。」  先輩は、ヨットを手でなぜながら言った。 「強いって?ヨットで何をするのですか?」  今度は、翔子が千恵の後ろから顔を出して聞いた。 「レースよ。競争。ヨットレース。速さを競い合うの。  あ……、私、ヨット部3年生の南條冴子(なんじょうさえこ)です。ひよっとしてヨットに興味があるの?」  そう言って、冴子は、ヨット内に入れていた勧誘用のチラシを取り出した。そして、千恵と翔子に一枚ずつ渡した。 「船を使ったレースなんで、場所は当然海上で、独特の競争になるの」 「独特の?」  チラシを見ていた翔子が顔を上げた。 「陸上競技や水泳、自動車レースなど勝つためには大変な技術と能力と判断力そして体力も必要になりますよね。ヨットの場合は海の上という陸上とは全く違う環境で行うので、風を読み、波を読み、天候を読み、潮の流れを読み、ヨットのチューニングをして、それに二人乗りのヨットに乗って……うーんまあいろいろあって……、ああー、わ、私って何を言っているのかしら?これだから勧誘うまくいかないのよね」  冴子の声は小さくなり、疲れ切ったのか、しゃがみ込んでしまった。そして、両手を顔に当てていやいやをした。  千恵は、チラシを食い入るように読んでいる。  そこには、『ヨットレースは、風をエネルギーとするマシンに乗って、エキサイティングで、繊細で、ナーバスで、他の艇とのタクティクスを重視して、少しでも相手の前に出ようとするギリギリのセーリングをし、スリリングで頭脳を使い、体力を使い、チャンスをつかみ、風をつかみ、判断力を必要とし自然を感じ取り、ヨットと一体になって自分を忘れ、ただ走らせることのみ集中する真剣勝負である』と、書かれてあった。 「文章の意味がわからない……。けど、何かすごいというのだけは伝わってくる」  千恵は、ぼそりとつぶやいた。  チラシには、さらに太字で『来たれヨット部』と書かれ、おそらくヨットと思われる稚拙な絵が描かれていた。理系女子の千恵には、『風をエネルギーとするマシン』というワードに、ときめきを覚えた。 「なんか難しくて、何を書いているのかよくわかりませんが、つまりヨットに乗って、海という環境の中で速く走らせてレースをするということなんですね」  千恵が言った。 「あのー、これがそのレース用のヨットなんですか?」  千恵がチラシをしっかり持って矢継ぎ早にうずくまっている先輩に問いただした。  顔を伏せて暗かった冴子もようやく顔を上げた。表情が少しほぐれていた。 「そ、そーよ、しかも、ヨットは船だから陸上を走るのではなく海の上のレースなの、ってこれはさっき言ったわね。つまり、道路やトラックみたいな決まったコースはなく自由にコースを自分できめて走るの。そのチラシに書いてあるようにいろいろな要素が加わって頭も使うアカデミックなスポーツなの。私たちが今乗っているヨットではないけど、違う型のヨットはオリンピックの種目にもあるし、高校の部活じゃないとなかなかできないと思うよ」  先輩はまくしたてた。 「でも、何か本当に難しそうですわ」  チラシと冴子を見ながら、翔子が言った。 「あーー、そのチラシに書いていることは気にしないで。私もわけわからないから。セーリング、つまりヨットを走らせること自体はそんなに難しいものではないわ。  二人乗りの船で、セール……ヨットの帆のことね。そのセールを二人で協力して操作して走るの。風上に向かっても走れるのよ」 「ああ、ヨットの走る原理については大体わかります」  理科系女子で海大好きっ娘の千恵が語り始めた。 「ヨットのセールが飛行機の羽のようなふくらみを持っているのでセールに風を流して、生じた揚力を利用し、センターボードで横に流れる力を打ち消して、前進する力のみ利用して、風上に向かってほぼ45度の角度で、進むんですよね。」  淡々と千恵が語った。 「うん……えーと、まあ、そういうことかな……。難しいことは置いといて、あの、あの、もしよければ試乗だけでもしてみない。明日、そう明日はどう?艇庫は近いからすぐにヨットに乗れるしね……乗ってみるだけでもどうかしら?」  冴子は、汗をかきながら千恵と翔子の顔を交互に見ながら言った。 「どうしょうかな……。今の所二人で、合唱部に入ろうかなって話していたんですけど」  千恵は言った。しかし、視線はヨットにくぎ付けだった。 「が、合唱部……そうなんだ、そ、それもいいよね。じゃあ試乗会はだめか……な?」  弱気な先輩である。なかなか勧誘が成功しないわけだ。と後で見ていた翔子は思った。 「でも、本当は、海に関わる部活がしたくて。今のお話を聞いて、ヨットに興味が出てきました。私、海が大好きなんです」  千恵が、ヨットと海を見て言った。 「え! そうなの? うん、うん、ヨットは、楽しいよ。面白いよ。そうそう海だよ海! 体も使うし頭も使うアカデミックなスポーツだよ」  やたらアカデミックを強調する冴子だった。汗がヨットの上にぼたぼた落ちた。 「ただ……」  千恵の勢いが落ちた。 「ただ、何?」 「海に出るんですよね?……私泳げないんです」  海は好きと叫びつつ、実は泳げない千恵だった。それも、はっきりと言い切った。 「何だそんなこと、いやあ、大丈夫、大丈夫! ライフジャケットっていう救命胴衣を着用するから泳げなくても溺れるってことは絶対ない。というか、泳ぐ必要なし。水泳部じゃありませーん」 「…………泳げなくても大丈夫……ですか? 」  千恵の心はもうすでに海にいた。顔つきもだんだんにやけてきた。  そんな千恵には気づかず冴子は、また断られるんじゃないかとごくりとつばを飲み込み半泣き顔になって、 「グスン、おねがい!見に来るだけでもいいから来て!お頼み申します」  と言ってグズッと鼻をすすった。  千恵が、「もちろん行きます」と言おうとした時だった。それを制して先に答えたのは翔子だった。 「わかりました。試乗会ですね。すぐに入部しなくてもよろしいということならば、明日試乗会におじゃましますわ」 「え! ショウちゃん?」  翔子が即答したので、千恵は面食らった。 「そ、そ、そう! き、来てくれるの。ありがとう!グスッ」  冴子は、千恵と翔子の手を取って、とうとう泣き出してしまった。 「う、うれしい。グスッ。本当にありがとう」  千恵は、翔子は文科系の部活をすると確信していたので 「ショウちゃんいいの? 合唱部は? 」  と聞き直した。翔子は、何も言わず微笑んでいるだけだった。 「じゃあ、グスン、明日の放課後、あそこの部室棟のこちらから3番目の部屋にヨット部の部室があるの。そこに来てね。グスン」  先輩もすこし顔が明るくなってきた。 「わかりました。何か準備をするものはありますか? 」  翔子は冷静に聞いた。 「そうね、濡れてもいい体操服と靴。それに着替えとタオルがあればいいわ……うん、それだけ」 「はい、じゃあ明日おじゃまさせていただきます。」 「ありがとう。ありがとうね。よろぴくね。あ、私、南條、南條冴子っていうのってもう言ったよね。3年生」  冴子は、ニコニコとほほ笑んだ。 「私は、柴田千恵です。1年2組です」 「私は、中山翔子です。1年5組です」 「柴田さんに中山さんね。うんうん、じゃあ明日待っているからね。よろぴくね」 「はい、じゃあこれで失礼いたします」  翔子は挨拶をしてすたすたと校門を出た。千恵がそれに続いてしばらく歩いたところで翔子に声を掛けた。 「ショウちゃんヨットやりたかったの?」 「いえ、別に。ヨットのヨの字もわかりませんが、あの先輩の必死な様子が少しかわいそうで…何か理由がありそうな感じでしたわ」 「そうだったの、ショウちゃんの人間観察はするどいからね。わたしは、全然そんなことはわからなかった。でも、ヨットは面白そうな気がした。大自然の風を利用して海の上で速さを競い合ってレースをするなんて…どんなレースなんだろうって少し興味がわいてきたの。私ヨット部に入部する」 「そう、チイちゃんは海が大好きですからね。ヨットか……。楽しそうだったら私も付き合いますわ」 「うん、じゃあ、明日一緒に部室に行ってみようね」  翌日、放課後、柴田千恵と中山翔子は誘い合わせて、ヨット部の部室に向かった。『野球部』『テニス部』など部室の前にかかっている看板を確認しながら二人は、ゆっくりと歩みを進めた。ふと、数メートル先の部屋から女性らしい声が聞こえてきた。『ヨット部』と書かかれた看板がある部屋から聞こえてきている。  声は不穏な感じで、千恵と翔子は、部屋に入るのをためらった。ドアの前に立ち尽くし、そして聞き耳を立てた。 「大迫(おおさこ)キャプテン! 南條お(さえ)と乗るのは、ぜーーったい!嫌ですからね」  余りにも大きな声に千恵と翔子はドアの前で動けず、緊張で顔を見合わせた。小声で翔子が言った。 「南條お冴さんって…昨日の先輩ですよね」 「うん、南條冴子先輩のことだよ」  続いて男子生徒の声が聞こえてきた。 「どうしてですか? 何が嫌なんですか? 南條さんは、去年石原(いしはら)先輩とインターハイ全国大会で準優勝まで行ったクルーですよ。今年は優勝を狙えるじゃないですか」  千恵と翔子はまた顔を見合わせた。お互いに目を見開いていた。 「インターハイ準優勝って全国大会2位ってことですよね。南條先輩って何か弱々しかったけど本当は、すごい人だったんですね」  翔子が言った。  不穏な女子の声が引き続き聞こえた。 「あれは、石原先輩とお冴だったからです。お冴のクルーワークのスピードについていけるのは石原先輩かキャプテンだけです。わたしは、とてもついていけない!」 「じゃあ練習すればいいじゃないですか。おたがい息を合わすように」 「ぜーーったい無理です。お冴のことは嫌いじゃないけどそれは、陸の上のことで、ことヨットに乗ると、お冴は自分のペースで動くから。3年生が引退した後の新人合宿でお冴と乗ったけど、スキッパーの私のペースを無視して、自分のペースで、クルーワークをして。何度チンしたことか」  今度は、千恵がつぶやいた。 「は?チンってなに?」  まくしたてる声の大きさは、さらに増した。 「こちらがそれについていけないと怒るし。わたしは、お冴と乗るくらいなら部をやめるからね!」 「ええ!本気ですか?南條さん、有園(ありぞの)さんがあんなことを言い出したんですけど。」  大迫キャプテンが言った。南條冴子も部室にいるようである。即座に冴子が答えた。 「わたしは、やめるのは嫌です。ぜえーったい嫌です。嫌です嫌です。嫌です。でもありぞんがやめるのもだめです!」  『ありぞん』とは、大声を出している有園のことのようだ。 「なんか緊迫した雰囲気ですね! 」  ドアの前の翔子が千恵の右手を握りしめて言った。 「部室に入りづらいね……」  千恵が、言った。  部室内では、大迫が何とか事を収めようとしている。 「うーん。有園さん、あなたが辞めると女子は南條さん一人だけになって、出場すらできなくなってしまいます。後は、新入生か二年生を勧誘してメンバーをそろえるしかないし。  そういえば勧誘の方は、はどうなってるんですか?有園さん、南條さん」 「いや……まだ新入生は一人も入ってねえよ」  有薗が言った。 「まだですか……。去年は女子が一人も入りませんでしたからね。こりゃやばいですよ。ヨット部女子の存続にもかかわってきますね。  OBやOGに何て言われるか……。やばいですよ。まあ、男子もまだ新入生が一人しか入っていませんけど。で、南條さんのほうはどうですか」  待ってましたとばかりに冴子が答えた。 「昨日二人勧誘したの。手応えバッチリ。今日ここに来るように言ってるので、とりあえず試乗会に連れてって乗せてしまえばこっちのもんよ」  それを聞いた千恵と翔子は、また、顔を見合わせて 「こっちのもん ?……南條先輩、もうその気だ。私たちがヨット部に入ると思ってる」  二人は同時に言った。 「もうそろそろ、来る頃だと思うけど。ちょっと見てくる」  冴子が、部室から出ようとドアを開けた。正にそこに身を固くした千恵と翔子が立っていた。 「あらー! 来てくれたのね。信じてたわ! ありがとう。ありがとう。みんなに紹介するね」  嬉しさか、感激からだろうか半泣きになる冴子に手を取られて、千恵と翔子は、逃げるわけにはいかず、緊張しながら部室に入ってきた。  そこには、男子生徒が8人、コの字形に並べた長机の席についていた。一人立って腕組みをしてる女子がいた。この女子生徒が有園だろう。ボブヘアで少し目じりが上がっている。それが彼女を性格がきついイメージに見せている。身長は、冴子より少し高めでスリムな体形だった。周りの部員がこちらを見て、千恵たちは裁判のようなものを受けている感じがした。  冴子が、千恵と翔子を並べてその肩に手を置き言った。 「こちらが、柴田千恵さん、確か1年2組だったよね。で、こちら、中山翔子さん、1年5組ね」  (南條先輩、名前とクラスを覚えていてくれたんだ)千恵は、胸に温かいものを感じて、冴子を見上げた。 「ほら、自己紹介して…」  二人の耳元で冴子が言った。 「はい、1年2組の柴田千恵です。海が大好きで、船も大好きで、でもヨットはあまりよくわりません。南條先輩に試乗会に誘われて来ました」 「へえ、海が好き…。いいじゃないですか。で、もう一人は?」  大迫が、口元を緩めていった。千恵は、キャプテンで3年生だが丁寧な言葉遣いをするので、どのような容姿をしているかと思ったが、特に特徴のないやさしそうな顔をした男子生徒だった。  翔子が背筋を伸ばして毅然としゃべり始めた。 「はい、1年5組の中山翔子です。友人の千恵の付き添いで試乗会だけという約束で来ました。今のところは合唱部に入るつもりです」 「え、ショウちゃん、ヨット部は、部活の希望リストに入ってないの? 」  千恵が小声で翔子に言った。翔子は、前を向いて口をつぐんでいる。 「そうか、試乗会に参加してくれてありがとう。合唱部もいいですが、ヨットも乗ってみるとなかなか面白いもんですよ」  大迫は、もうニコニコ顔になっていた。 「そうそう、きっと気に入ると思うわ」  冴子もニコニコ顔になっていた。なんとなくへりくだった感じで二人に言った。 「さて」  ここで、大迫の声のトーンが少し変わった。 「そこでですね」  明らかに上から物を言う先輩口調だった。 「いま、このヨット部は、見た通り部員が3年が男子4人、女子2人で、2年が男子が3人、女子はいない。それと新入生の男子が1人の10人なんです。ヨットは2人一組で乗る船なんです。で、何が言いたいかというとですね、できるだけ部員が2人1組で全体的には偶数のほうが都合がいいんですよ」 「奇数だと一人乗れないことになるからですね」  千恵が言った。 「そう、そういうことです。今、君たちは2人。これは、ヒジョーに都合がいいと思いませんか。基本的には、先輩と後輩がペアになってヨットに乗るのが理想的なんです」  大迫がだんだん説得口調になってきた。 「ヨットの技術を後輩に伝えていくという意味でも、先輩が後輩を鍛えるという意味でもということですね」  翔子が物怖じせず言った。 「そういうことです。察しがいい。えーと中川さんでしたよね?」 「中山です。」 「え、……これは失礼しました。えーーと、でもって、ここで、2人がヨット部に入ってくれると、2年生2人と1年生2人でそれぞれ先輩後輩でペアが2組できるわけです。これも何かの縁です、二人とも是非ヨット部に入ってもらいたい。と言うか入りなさい! 」  大迫が、先輩風を吹かせて少し上から目線で言った。有園も期待を込めたまなざしで、両手の指を組んで祈るように2人を見ている。(2人が入れば、冴子と乗らないですむ)という目論見がありありと顔に現れていた。  千恵は、部室で9人の先輩と1人の1年男子に囲まれて圧迫感をうけて何も言えなかった。翔子が、入部については、ことわりを言おうとして口を開けた時だった。 「ちょっと! 待ってよ! 」  冴子が、千恵と翔子の前に立って言った。 「この子たちは試乗会に来たのよ、いくら勧誘でも今のは少し威圧的じゃない? 」  普段、おっとりしている冴子が、鋭く言ったので、大迫はどぎまぎした。 「あ、いや、威圧的なんて……そういうふうに聞こえましたか」 「うん、ヨット部に一人でも多く入ってもらいたいのは私も同じ。でも、上級生にかこまれて強く言われると断りきれないよ。それって脅しじゃないですか? 相手は新入生よ、怖くて自分の本当の気持ちが言えない状況になると思う。そんなのヨットマンシップじゃないよ! 」  冴子は周りを見渡しきっぱりと言った。 「ヨットマンシップ……石原先輩じこみですね。そうか、柴田さん、中山さん僕の言葉が威圧的に聞こえて怖がらせたなら、すみませんでした。ただ、決して脅しているわけでも、強制的に入部させようとしてるわけではないんです。本当の所、入ってほしいんです。そこのところは、ぼくの気持ちとしてはっきり言わして下さい。でも、決めるのは君たちですから、どんな答えでもかまいません。まずは、気を取り直して、試乗会を楽しんでください」  大迫は、頭をかきながらだが頭を下げて言った。本来優しい人らしい。  翔子は、ほっとした。ヨットがどういうものかわからないのに、いきなり入部はできないから、少し恐ろしかったが、はっきりとそのことを言おうとしたからだ。  翔子は、ふと横にいる千恵を見た。千恵は、そんな翔子とは違い、もう半分以上はヨットをやる気満々でいた。  千恵は、冴子が言ったヨットマンシップという言葉を独り言でつぶやいた。(ヨットマンシップ……かあ……) 「わかってくれてありがとうキャプテン」 冴子が、大迫の両手をとってにっこり笑った。 「南條さんのヨットマンシップ、いや、ヨットウーマンシップかな、これは石原先輩ゆずりだからね。そうですよね、我が南薩摩高校ヨット部は常にヨットマンシップを大切にしないと」  大迫がそういうとその部室の雰囲気が、二人の新入生を見守る暖かい物に変わった。 「じゃあ、さっそく試乗会をしたいと思います。みなさん、お手伝いをお願いします。試乗艇は私とありぞんが乗ります」  冴子が、有園のほうを見ていった。 「えーー! 私と! 」  躊躇する有園を見て、大迫が言った。 「わかった。有園さん、南條さんとは、僕が乗るよ」  有園は、汗をかきながら顔の前で両手を合わせて、上目遣いに大迫を見てお辞儀をした。 「じゃあ、柴田さん、中山さん、いざ海へ!」  冴子が言った。冴子の『海へ』という言葉を聞いて、千恵は、胸に熱いものがこみ上げてきた。 (海だ、海だ。海でする部活が高校にあった!なんてすてきなの)。千恵は、舞い上がった。部室をでて、ヨット部の面々は校門を出て道路を渡り、防風林の中にある細い道を、ヨットを格納してある艇庫に向けて歩きはじめた。足元が草地から海の砂地になってきた林を歩きながら、翔子が冴子に話しかけた。 「あの……南條先輩は、すごいです。男性を相手に一歩も引かずに言いたいことが言えるなんて、心がお強いんですね。あれがヨットマンシップですか? 」 「あははは、何言っているのよ……私だってか弱い女子よ。怖くないわけないじゃない。本当は、こわかったよぉ……」  今頃になって冴子は、半分泣き出した。ずいぶんと感情の起伏がある人だと翔子は思った。 「本当はね……心はもう、半分くらいはヨット部をやめるつもりだったの」 「え? ええ! 」 「グスン……でもね……ちょうどあなた達が部室に来てくれたから……あなた達の顔を見たら勇気がでたの。絶対あなた達とヨットがやりたいって」 「南條先輩、そこまで言って下さるのはうれしいんですけれど、私たちはまだ入部するかどうかも決めていないのに。期待にこたえられるかどうかわかりませんわ」 「大丈夫。期待なんてしていないから。ああ、当てにしてないという意味じゃなくて、さっきも言った通りヨット部に入るか入らないかはあなた達の自由ってこと」 「はい、お気持ちはわかっています。ところで昨年は、全国インターハイで準優勝をされているんですよね」 「え?何でそれを知っているの?」 「さっき部室でみなさんが、大声で話し合っているのが、外にいる私達にも聞こえていました」 「ああ、そうか、あのやりとり聞こえてたのね。もう少しで1位だったのに、最終レース……いいところまでいったんだけどね」 「最終レースで負けたのですか?」 「……まあ、そんなところかな」 「じゃあ今年は、優勝を狙っているのですね」 「そうね、優勝したいというよりは、絶対負けたくない人がいるの……今給黎(いまきれ)だけには絶対に」 「いまきれ?……さん?」 「そう、錦江院学園2年今給黎篤子(いまきれあつこ)。あの人には」 「今給黎という人が優勝したのですか?」 「……そうよ」  そういいつつ冴子は、海をにらみこぶしを握り締めた。翔子は、ヨット部が船に乗って優雅に遊ぶ、お気楽クラブと想像していたが、どうも違うようだと、認識を改めると同時に、緊張もしてきた。冴子が、ふと表情を緩め言った。 「ところで、柴田さんておもしろい子ね。海がとっても好きみたい。ヨットを見る目がランランと輝いていたわよ」 「小さい時からそうなのです。私達小学校のころからのお友達なのですけど、柴田さん普段は、冷静な理系女子なのですが海オタクっていうか。海のこととなるとあんなに楽しそうにして。海の話を始めたら2~3時間は語るのですよ。先輩も気をつけて下さいね」 「へえーどんな話しをしてくれるんだろう? 海の何が好きなんだ? 」 「それで、南條先輩はヨットオタクなのですか?」 翔子が軽い口調で聞いた。 「そうねえ、私は、オタクとはちょっと違うかも。分かんないこともいっぱいあるし。私がいつも意識しているのは、さっき言ったヨットマンシップみたいな、いや、ヨット魂かなぁ、ヨット道みたいなもんかな。要は、海や自然や人に向かう心構みたいなものなのよね。単に精神論や根性論じゃなく、刻々と変わる環境に対して、柔軟に行動していくこと。これも、ヨットマンシップなの。ただヨットに乗って早く走って勝てばいいんじゃないの。楽しくセーリングするのが私にとってヨットマンシップになるかな」 と冴子が遠くを見て言ったが、突然翔子の方を向いて、 「そういう中山さんは、なんかこだわるものがあるの?」 「え? 」  翔子は、斜め上を見上げた。(そういえば、わたしってなにかこだわるものがあったかしら?)  その時、いち早く林を抜けた千恵のうれしそうな叫び声が聞こえた。 「おーー海だ!」  思わず冴子と翔子は微笑んで顔を見合わせた。 翔子も林の出口に向かって走り出した。林を抜けたところは、砂浜と思いきや灰色コンクリートの堤防だった。景色を塞ぐ壁のようにそびえ立っていた。千恵は、堤防にあった階段を登り切ったところで、手を額に当てて遠くを眺めていた。 「ショウちゃんおいでよ!海だよ」  大きく手まねきをする千恵。  翔子も階段をとんとんと駆け上がった。上りきると視界が開けて錦江湾が一望できた。下を見るとテトラポット(消波ブロック)に、波が打ち付けていた。前方に、海を隔てて桜島が見えた。今日は噴火をしていない。青空にはっきりとその輪郭が見えた。 「これよ! これ! 私が求めていた風景。海に近い学校での高校生活! 」  千恵は、両手を広げて叫んだ。 「めちゃ嬉しそうだね、柴田さん。じゃあ艇庫へ行きましょう」  冴子が千恵の肩をぽんとたたいた。 「はい! 」  堤防の上を歩いて3人は艇庫に向かった。千恵は、子供の様に左右に手を開いてバランスをとるように歩いた。数m行ったところにヨットを格納している艇庫があった。スレート壁で倉庫のような建物だった。艇庫のシャッターは開かれ、ヨット部員が船台を引いて、試乗用のヨットを外に運んでいた。艇庫の前はアスファルトで舗装されかなり広い空間だった。 「ここは、川平(かわひら)ヨットハーバーって言うの。で、この建物が我が南薩摩高校ヨット部の艇庫で、今外に出してきたのが、FJ級っていうヨットよ、昨日私が運んでいた奴。あと、スナイプ級っていう違うタイプのヨットがあるんだけど、今日はFJに乗ります」  冴子がFJを指さして、言った。 「ヨットハーバー……、かっこいい響きですよね」  千恵は目を輝かせている。翔子は、周りを観察していた。  小さな湾内には、5~10トン位の漁船が数十隻係留されていた。ヨットハーバーという響きは確かにいいが、 「よく見ると大きなスロープのある小さな漁港という感じですわね」 翔子は言った。 「まあ、漁師さんはここを川平漁港と言うわね。とにかく練習場はこの沖。まずヨットを艇庫から出してここでマストを立てたりセールを張ったりして海に出す準備をするの」  その時、自転車に乗った男が3人の所にやってきた。 「やあ、遅くなってすまん。今日は試乗会をするんやったな。お、その子たちかい、試乗するのは?」  男は言った。ワイシャツに首もとをゆるめたネクタイをしている。明らかに先生だった。 「おいは、ヨット部の顧問の西郷(さいごう)だ」  名前は、西郷だが小柄な30台の男だった。 「私は、1年2組の柴田千恵です」 「1年5組の中山翔子です」 「おう、よろしく。おいは2年3組の担任をしている。担当教科は生物。今日は来てくれてありがとな。まあ、楽しゅう乗ってみたもんせ」 「はい、よろしくお願いします」  千恵と翔子はぺこりと頭を下げた。 「優しそうな先生だね」  翔子の耳元で千恵が言った。 「そうですね。優しい西郷どんですね」  翔子が、答えた時だった。冴子が、ヨットのほうを見て言った。 「じゃあ、FJの艤装(ぎそう)を見に行きましょう」 「ぎ、艤装ってなんですか?」  好奇心旺盛な千恵が聞いた。 「ヨットを動かせるようにマストやセールを組み立てて装備することよ」  三人がヨットの近くに寄ると有園と大迫が手早くセールを上げたり、ロープを滑車に通したりしていた。 「まず、艇体のことをハルって言うの。で、中をコックピットと言うの。コックピットの真ん中を前後に走っているこの四角い箱状の部分にセンターボードが収められているの。センターボードケースって言うのよ」  冴子は、センターボードケースを触りながら言った。 「で、ここに入ってるセンターボードを下すロープを引けば水中にボードが下りるの」 「センターボードっていうのは、ヨットの下に出ているサメのひれみたいなやつですよね」  千恵が言った。「ああ」と翔子が何かを思い出して、 「確か昨日チイちゃんが、ヨットが風上に走る時に横流れを防ぐと言っていた……」 「すごい、ショウちゃん覚えていたんだ」  千恵はそう言って、改めて尊敬のまなざしで翔子を見た。 冴子は、説明を続けた。 「それから、ヨットと言えばこれよね。マスト。アルミでできているんだけどこれをまず艇体に立てて、船首と左右サイドの三か所をワイヤーで固定。 このワイヤーをステーっていうの。で、帆のことをセールって言うんだけど、このセールの先端にある穴にハリヤードっていうワイヤーを取り付けて、マストの下から引いてセールを上まであげるの。 この大きな三角の帆がメインセール。メインセールの底辺の部分に、ブームというアルミの管を取り付けて、グースネックという器具でマストにつなげる。あと船首のほうにある小さいセールがジブセールっていうの」  セールを触りながら千恵が言った。 「セールは化繊なんですね。ヨットは基本的にこの二枚のセールで走るんですね」 「そう、基本的にはね。ヨットは、二人で乗るって言ったでしょ。  一人はクルーって言って乗員のこと。小さい方のジブセールにロープを付けて……基本的にヨットではこんなロープをシートっていうんだけど、つまりジブシートを引いて操作するの。  もう一人はスキッパーって言うの。艇長のことで大きなメインセールをメインシートで操作して、ラダーっていう舵を、ティラーとそれにつながっているティラーエクステンションという棒で操作して走らせるの。でもFJ級にはもう一枚セールがあるの。ちょっとそこを見て」  冴子は、マストのすぐ横に取り付けられている袋を指さした。覗き込む千恵。 「ああ、なんか白いセールのようなものが丸めて入れてあります」 「それが、もう一枚のセールでスピンネーカーっていうの普段は単にスピンって言うけど。風上(かざかみ)以外、大体風を横から受ける状態から風下に向かって走る時に、上げるのよ。風上に向かって走る時は上げないので、普段はそこ、スピンバッグに入れてあるの」  翔子が突然言った。 「パラシュートみたいな感じで、ヨットの前で丸くなって付いているセールですよね。何かのポスターで見たことがありますわ」                                                                               「うん、それそれ」と言いつつ冴子は、コックピットの中心あたりの船底にある細いロープをつかんだ。ロープの先には、はし()めの玉がつけられていた。 「このロープを、スピンハリヤードって言うんだけど、これを引くとねっ」  冴子が鋭くスピンハリヤードを引いた。するとスピンネーカーがスピンバッグから飛び出してマストの上部に上がった。 「ね、スピンもマストの上の所にハリヤードがつながっていて、これを引くとスピンが、マストの前に展開するの」  千恵と翔子はスピンを見上げた。千恵は、もう一本マストからデッキに伸びているワイヤーを見つけた。ワイヤーにはデッキ近くにT型のグリップと20cmほどの細長いリングが取り付けらていた。ワイヤーの先端はショックコード(ゴムのコード)が取り付けられており、サイドデッキに方に伸びていた。千恵は、そのワイヤーを指さして言った。 「これは、何ですか?」 「それはね、トラピーズワイヤーって言って、ヨットが風を受けて傾いたとき、ヨットを起こすのにクルーが使うものなの。そこにリングがあるでしょ」  千恵は、金属の楕円のリングをさわった。 「それそれ、その輪っかに私が今付けているハーネスのフックをかけるの」  そういって、冴子は、身体につけている赤いハーネスを見せた。それは、腰から背中の部分を包み、下腹部の前部にかぎ状の金属のフックが付いていた。両肩のショルダーストラップがフックの部分まで伸びていた。さらに、トラピーズワイヤーのグリップを持って、言った。 「このグリップをつかんで、下腹部のフックにリングをかけてデッキの端に足を掛けて、トラピーズワイヤーにぶら下がって、船の傾きを起こすの。これをハイクアウトというのよ」 「そういえば、ヨットの写真で、クルーが、ヨットに足を掛けて体を伸ばしている所を見たことがありますわ」  翔子が言った。 「そうそう、それそれ」  冴子が頷きながら言った。  その時、大迫が腕を腰に当てて三人に声を掛けた。 「よーし、準備ができました。夕暮れも近いからすぐに出しましょう。風もいい感じだし」  千恵は、ふと周りを見渡した。 「風? いま吹いていますか? 」 「うん、初心者が乗るには、ちょうどいい強さですよ、風速毎秒4mってとこかな。気持ちがいいセーリングができますよ。今日は、暖かいし」  大迫がニコニコと言った。 「ショウちゃん、今風が吹いているのがわかる?」  千恵は、納得いかないように翔子を見ていった。 「ええ、頬に当たる風を感じますわ。それにこのヨットについているセールもひらひらしているし」  ジブセールを指さして翔子が言った。 「まあ、海に出ればよくわかるわ。二人とも着替えて。濡れてもいい服と靴でね。女子更衣室はあっちの管理棟の中にあるからね。私は、もう着替えているからここでまってるね」  冴子は、上下長袖のジャージ姿だった。 「ちょどいい風とはいえ、ちょーっとだけ、水しぶきで濡れるかなあ……」  しばらくすると、千恵と翔子が着替えを済ませて、管理棟から走ってやってきた。 「よーし、二人とも着替えたわね。柴田さんは、普通にジャージ姿ね。そのスニーカーも濡れるけどいいかな?」 「はい、いいです。海に行くときはいつもこの靴を履いていきます。」 「へえ、柴田さんはよく海へ行くの?」 「磯遊びが好きで、時々潮だまりのような所に行ったりします。子どもみたいですけど」 「いや、いいと思うよ。海が大好き少女だもんね。で、中山さんは、ぐっとマリンチックなファッションね。ブルーと白のウェットスーツね。いい色ね」  翔子は、半そででワンピースのウエットスーツに長袖で化繊のTシャツを着て、靴はマリンブーツだった。 「冬休みにグァム島に家族で行ったときにダイビングをしたんです。その時に買ってもらったものです」 「え、グァム島旅行?・・・翔子ちゃんてひょっとしてセレブリチイ?」 「こんなことをセレブリティというのかどうかは分りませんが、海外旅行は、毎年冬休みに家族で行きますの」 「え、ああそう。毎年……いくのね。うん、いいね。濡れてもいい格好だから全然いい」  冴子はなぜかどぎまぎした。 「いいよね、そのウエットスーツ。かっこいいなあ」 目をきらきらさせて千恵が翔子を見て言った。 「まあ、わたしも、ウエットスーツは持ってるけど。ヨットをやるつもりなら持っていた方がいいかもね」  そう言って冴子は、FJのコックピットから救命胴衣のような物を取り出した。 「さて、今から海に出るわけど、ぜえーーったいにこれだけは忘れないでね。ヨットに乗るときも、ほかの船やモーターボートに乗るときもこのライフジャケットを着るのを忘れないでね。というか、着ないで乗ってはだめ。レースでは失格になるのはもちろん、命に関わることだからね。二人ともけっこう小柄だからこのサイズでいいと思うけど……」 二人は、冴子からライフジャケットを受け取って着用した。ベストに浮力のあるポリエチレンフォームが入っている。 「着用もちゃんとしてね。チャックはちゃんと閉めて紐もちゃんと結んでね」  着方がわからないのか紐の締め方に戸惑っていた、千恵に冴子が手を貸した。 「うん、これでいいね。ライフジャケットのことをライジャケっていうんだけど、海にでている間は絶対ぬいじゃだめ。わかった?」  千恵には、冴子の言い方が、きっぱりとしてなんとなく怖く感じた。ほんわかした感じの冴子がヨットに乗る時が近づくにつれてだんだんと凛とした態度になってきた。 「はい」  二人は、同時に答えた。 「さて、じゃあいきましょうか!練習の時はここで準備体操をするんだけど軽く屈伸やアキレス腱のばしをしといてね。それと、これも大事なことだけどヨットを、陸上で置くときは、常に船首を風上に向けて置いてね。ヨットでは船首のことをバウって言うの。風に対して横に向けたり、バウを風下に向けたりしているとセールに風をはらんでひっくり返ってしまったりするの。まあ、今日はお客さんだからあんまりごちゃごちゃいわないほうがいいわね。大迫君! 」 「はい、そうですね」 大迫が答えた。もう船台を持っている。ヨットをスロープに向かって移動し始めた。緩やかに海面に向かって傾いている地面をゆっくりと進んだ。 海面近くでは、顧問の西郷が手を挙げていた。 「おーーい、本部船のウミザクラはいっでも出発できっでな」 「はーーい!ありがとうございます!」 冴子と大迫が同時に答えた。冴子は、千恵と翔子のほうに向いて言った。 「海上で練習する場合、ヨットを海に出すときには、必ずエンジンで走る船をだすの。海上で練習の指示を出す本部船の役目ともしもの時のレスキュー艇の役目をするの。だから、顧問の先生と本部船がでないで、生徒たちだけでヨットを海に出しちゃいけないの。安全には十分配慮してるの」  そう言ううちにヨットが海面につかりプカリと浮き上がった。浮いたヨットを冴子がサイドステー(マストを固定するワイヤー)を持って支えているうちに、大迫が船台を船底から引き抜いた。 「ヨットを浮かして持っているときも必ずバウを風上に向けること。 海の場合は、風をはらんだらそのまま走っていっちゃうからね」  そう言ってヨットを海中で支えている冴子は腰まで濡れていた。 「もう、濡れちゃっているんですね」  翔子が言った。濡れることが気になるようだった。 「そうね、慣れれば濡れないで乗る方法は、いろいろあるけどね。 さあ、柴田さん、中山さんどちらから乗る?」 「え?ひとりずつのるんですか?」  千恵がいった。 「ヨットは、基本二人乗りなの。さっきも言ったけど、クルーとスキッパーね。クルーは小さな方のジブセールを操作したり、風の状態をみたり、『ヒール』といって船が風を受けて傾くのを起こしたり。スピンセールを操作したりするの。スキッパーはメインセールを操作したり、舵取りをしてコースを判断して艇長としての役目を果たすの。このクルーとスキッパーが協力してヨットを、いろいろな方向へ動かすの。で今から、そこに試乗してもらうわけ。さらに二人も余分に乗ったら狭くなってクルーもスキッパーも動きがとれなくなるから一人ずつね」 「わかりました。ショウちゃん私、先に乗っていい?」  千恵は海のことに関しては、すごく積極的なのだ。それをよく知っている翔子は、にこりとして言った。 「いいですよ。どうぞ、お先に」 「じゃあ、中山さんは、まず先生と有園さんと一緒に本部船のウミザクラに乗ってもらおうかな。で、ひととおり柴田さんが試乗したところで海上で交代しよう」  大迫が言った。 「わかりました」  翔子が、本部船の係留してあるところへ向かった。本部船のウミザクラからは、ブルルンと黒い煙がでていた。 「じゃあ、柴田さんヨットに乗って」 「は、はい・・・あの、でも、どこから乗ったらいいんですか?」 「横から乗って」 「はい、でもスロープで深くなっていくので服が濡れちゃってヨットの中を濡らしちゃいますが・・・」  千恵は、サイドデッキに移動しながら言った。 「いいって、いいって、ヨットって最初から濡れるようにできてるし、ちゃんと排水できるようになってるから。とにかく乗っちゃって」 「はい!柴田いきまーーす」 「おお、元気いいじゃないですか! いいですよ! 」  バウを持っている大迫が、言った。千恵は、気合いはよかったが、艇体がすべるのと、濡れた服の重さで身体が持ち上がらず、ヨットからずり落ちるだけだった。 冴子が、千恵の後ろから腰を持ち上げて艇内に滑り込ませた。 「ひや!」千恵が艇の底で転がった。 「じゃ、わたしも乗っちゃうからね」というや否や冴子は 「お願いします!」と叫んでヨットに滑り込んだ。  そして、船尾のスターンにラダー(舵)をとりつけた。 「オッケー、準備完了!大迫キャプテンいつでもどうぞ」  冴子が言うと、大迫は、 「よーーし!お願いしまーーす!」  と言って、バウを押すと同時に艇内に滑り込んだ。冴子からエクステンションを受け取りスターン側に移動した。冴子は、前方に移動した。 「私が、クルーで、大迫キャプテンがスキッパーなの」  湾内は、地形の関係で風が弱くヨットは、緩やかに港外に向かって移動した。  大迫は、風上側のデッキに腰を下ろした。いまは、右側のデッキが風上側になっていた。冴子はコックピットの真ん中にあるセンターケースを跨いだ体制でいた。その後ろに千恵が腰を下ろしていた。  漁港の湾を出た所で大迫が、 「さあ、行くぞ、南條さん、ジブイン!」  と言った。冴子が左手に持っていたジブシートを引き込んだ。ジブセールがきれいなカーブを描いて、固定された。大迫は、メインシートを右手で引き込んだ。ラチェットの音がカリカリと鳴りメインセールが、引き込まれると同時にヨットがふわっと風下側に傾いた。 「ひゃっ」  千恵は、不意を突かれた急な傾きにバランスを失いコックピットの風下側に転がった。 「大丈夫?今からヒールを起こすからね。ヨットが傾くことをヒールするっていうの」  冴子は、トラピーズリングをハーネスの腰についているフックに掛けて艇のサイドデッキからお尻を出して上半身を海面側にグイっと反らした。それと同時に艇が風上側に傾き水平になっていった。 「すごい!ヨットってすごく傾くんですね」  千恵が起き上がりながら言った。 「こんなもんじゃないよ。今のは20%ぐらいかな」  冴子が、デッキの外に体を出すハイクアウトでヒールも安定して、千恵も周りを見る余裕が出てきた。サバサバと波を切る音を立てていた。(今、ヨットが走っている。いや、水の上を滑っている)千恵が今まで乗ったことのある船とは全く違う感覚だった。 「ヨットって早いですね!海の上を滑っているみたい」 「まだまだ、ゆるい方よ。もうすぐブローに入るからもっとヒールして早くなるわよ」  冴子がニコニコしながら言った。 「ブロー? ってなんですか? わたしは、どうすればいいですか?」 「そうね、そのセンターケースにつかまってて」  そういうと冴子は、デッキの縁のガンネルに両足を掛けた。トラピーズワイヤーにぶら下がってガンネルに足を掛けてしゃがんでいるような格好になった。 「ブロー!」  冴子が、言うと顔を前に向けたと同時に、曲げていた両足を伸ばしデッキから上半身を遠ざけた。ヨットの側面に両足を掛けて真横に立っている体勢になった。体は海面とほぼ平行だった。  風がメインセールに当たり、千恵はドンと衝撃を感じた。 大迫は、メインシートを引き込んだ。ラチェットがまた、カリカリと鳴った。幾分強くなった風が千恵の前髪をふわりと持ち上げた。  冴子は、足を屈伸させて常に艇が水平になるようにバランスを取っている。 「どう、早くなったでしょう! ブローって言って風が強く吹いている所に入ったからなの。より強い風を受けて大きくヒールするから、その前にハイクアウトして艇を水平に保つの。そうするとスピードが乗ってくれるの」  冴子はトラピーズワイヤーにぶら下がってバランスを取りながら言った。 「クルーは、このバランスを取って艇を水平に保つのが仕事よ。ヒールさせたままだとどんどん横流れをして風上に向かえないの」 「クルーは、トラピーズワイヤーのリングにハーネスのフックをかけてぶら下がった形だけど」  千恵は、大迫の方に振り向いて言った。 「スキッパーは?」  大迫は艇の真ん中に取り付けてある5cmほどの幅のフットベルトに両足の甲を引っかけて尻をデッキの外側に出して座っていた。上半身も、艇から外側に出して、ヒールのバランスを取っていた。 「スキッパーは」大迫が言った。 「フットベルトというベルトに足を引っかけて上半身を艇の外側に出してヒールを起こすんだ。結構腹筋を使うんだよ」  と言いつつ、ハイクアウトして上半身をそらして見せた。ヨットがグイグイとヒールを起こした。 「ブローから出るよ」  冴子はそう言って、伸ばしていた両膝を曲げて体を艇に近づけた。確かに風が少し弱くなり艇速も落ちてきた。 「本当だ!……よく前もってわかるんですね」  千恵が聞いた。 「慣れれば分かるようになるわ。体が自然に反応するようになるよ」 風が更に弱まって艇速も落ちてきた。 「風、落ちたね」  冴子はそう言って、両足をコックピットに戻し風上側のデッキに座った。  その時、「うわー!」千恵が立ち上がらんとばかりに体を伸ばして言った。 「海ですねー!全部海ですねー!ヨットはこのどこへでも自由に行けるんですよね」 「そう、海に道路はないからね。でも速く走るための道路はあるかもね」  冴子が言った。 「今、僕たちは、風上に向かって進んでるんだけど、この走り方をクローズホールド、普通は略してクローズって言うんだ」 「風上に向かって走ることをクローズ……」 「そう、風上からだいたい45度の角度で走ってる。柴田さんは、理科系って聞いたからこの原理はわかるよね」  大迫が言った。 「はい、でも実際体験するのとは違います。なんか……すごいです。風上に向かっているなんて」 「うん、よく走ってるだろう。じゃあこれ以上に、もっと風上にバウを向けるとどうなると思う?」 「……と、止まりますよね」 「正解」と言って、大迫はティラーを風下側に押してバウ(船首)をゆっくり風上側に向けた。  艇がゆっくりと風上に方向を変えるにつれて風をはらんできれいな曲線を描いていたセールにしわが入り、徐々にひらひらとはためきだした。やがて、激しくバタバタとはためいた。 「今、ちょうどバウが風上、つまり風の吹い来ている方向の方を向いているんだ。ちょうど南東の風ってとこかな」  ヨットは止まり不安定に揺れた。 「このままにしておくと、逆に風に押されてバックしてまう。と言うことで」  大迫は、さらにティラーを押し込んだ。艇が今まで進んでいた方(タック)とは逆に風上から45度に向きだした。冴子がジブシートを引いてジブセールを反対側に引き込んだ。するとバタバタとはためいていたセールが風をはらみ、きれいな弧を描いた。と同時に波音を立てて走り出した。 「向きが変わりました。今度は、右側に向かってます」 「そう、左に向かって進んでいたのを風上に向かって45度と45度、つまり90度方向を変えてこんどは右に向かって進めたんだ。風上に向かって進むときは、こうやってジグザグに進んで、風上に向かっていくんだ」 「でも、先輩ヨットが、大きく傾いていますよ」 「そう、僕がこんどは風下側に座っているからなんだ。このままじゃ操艇できないから」 と言うと、大迫は立ち上がり風上側のデッキに移動した。その時に左手のティラーと右手のメインシートを持ち換えた。 「よいしょっと」  大迫が風上側のデッキに座ってフットベルトに足を掛けると船の傾きが水平になった。そして、メインシートを引き込んだ。ふと冴子を見ると、すでに左サイドから右サイドの風上側に移動していた。素早くリングをフックにかけた。 「今のを素早くやってジグザグに風上に向かっていくの。これをタッキング、普通はタックって言うの」 「これは、クルーとスキッパーがタイミングを合わせて移動すると同時に、セールも同じように反対側に移動させるんだ。これをうまくやらないとコースがずれたり艇速がおちたり、場合によっては止まったりする。さらにクルーは、すぐにヒールを起こす……艇の傾きを戻して水平にすることなんだけど、そのためにハイクアウトするんだ」 「……難しそうです」 「それがヨットの練習です」 「大迫キャプテン、ブローが来るよ」  冴子が言いつつガンネルに左足を掛けてハイクアウトの準備をした。千恵が見ても確かに海面上が風によってしわが寄って黒くなっていた。 「ブロー! 」  千恵が言った。一瞬セールが風が吹きつける衝撃を受け艇がグンと反応した。と、同時に冴子が両足を伸ばしガンネルから水平に伸びフルハイクした。ヨットが一気に走り出した。 「よーし、タックします」大迫が言った。 「OK! 」  冴子が答えた。と同時に脚を曲げて、体をサイドデッキに近づけ、グリップに手をかけリングを外した。 「タック!」  大迫の声と同時にヨットが風上に向かってスルリと方向を変えた。さっきと違い、強い風の中でのタッキングなので艇が向きを変えるスピードが速かった。大迫と冴子が同時にメインセールのブームの下をくぐって反対側のサイド(タック)に移った。    冴子は、ジブセールをシートを引いて移動させた。トラピーズリングに飛びつきワイヤーのリングをフックにかけハイクアウトした。ジブシートはすでにクリートに固定されていた。艇は向きを変えて滑るように進んでいる。 「今のが、タックですね」  千恵がセンターボードケースにつかまって言った。 「そうよ。レース中はもっと移動が速いけどね」 「え?そんなに早くあんな動きをするんですか?」 「そう。でなきゃ艇速が落ちてしまうの」 「ただ、南條さんの場合は」  大迫が言った。 「スキッパーを無視して速すぎることがあるんですよね」 「スキッパーが遅いんです!」  と冴子。 「石原先輩は、全然これ以上のスピードで問題ありませんでした」 「うん……まあ、石原先輩は……天才だからなあ」 「あの……石原さんて、冴子先輩と乗っていた人ですか?」  千恵が聞いた。 「そうよ。私の最も尊敬する人。それだけにインターハイの最終レースで今給黎に負けたのが悔しい! 」 「今給黎……さんて?」  千恵が上目遣いで聞いた。 「今給黎篤子。今、錦江院学園ヨット部2年のスキッパーよ」  冴子が息を荒げて答えた。 「ええ!じゃあ、その人1年生でインターハイに出て優勝したんですか? すごいですね」 「確かに……ね。すごいよ。今給黎は、石原さんが天才なら今給黎は鬼ね。レースの鬼」 「鬼? どういうことですか?」  その問いには、大迫が答えた。 「レースにかける執念が鬼のようだってとこかな。今給黎は、レースに勝つことだけしか考えていないようだよ。どのような状況でも。強風が吹こうが、弱い風になろうがどんな手を使ってでも勝つ。ある意味すごいと思うところもある。確かに今給黎さんは鬼のようだ」  千恵は、ヨットに乗っている鬼を思い浮かべた(どんな人だ?? )。 「その、どんな手を使ってでも勝とうとするのが私は許せないの! 反則ギリギリのことをしてでも勝とうとすることが」  と言いつつ冴子の顔は、見る見るうちに険しくなり、そして鋭く言い放った。 「もうすぐブローがくるよ!」  千恵がブローを確かめようと顔を上げて海面を見ようとした時だった。 「よし、タック!!」  大迫ではなく冴子が、鋭く言って、ハイクアウトの状態からコックピットに滑り込み、ブームをくぐって反対側のデッキに移動した。 「ちょ、ちょっと早すぎです!」  と叫んだ大迫だが、そこはさすがキャプテンである、素早く反応して艇の向きを変え、冴子を追って反対側のデッキに移動した。  何が起こったか状況がつかめない千恵は、取り残され、風下側に大きくヒールした時にバランスを崩して、背中から海中にボチャンと落水してしまった。 「がはっ!…… ゲホゲホッ! 」  千恵は、手足を海面でバタバタさせてゲホゲホ言ってパニック状態だった。  しまったという感じで、冴子と大迫は顔を見合わせた。 「やばい! 落ちた」  大迫が、メインシートを緩めてセールから風を逃がし艇を止めた。冴子も同時にジブセールを緩めた。 「そういえばあの子泳げないっていってたわ!」 「ライジャケを着ているから、溺れることはないとは思うけど」 そう言って、千恵の方をみた。 「柴田さんは、ライジャケを着て海に入るのは初めてだよね……試乗会で落水させるなんて、まずいよなー。ヨットのイメージが悪くなるよ」  大迫は、ティラーを操作してゆっくりと千恵が落水した所にヨットを移動させた。 「大丈夫!!」  冴子が叫んだ。落ちた時はバタバタとしぶきを上げて慌てていたように見えた千恵だったが今は、静かに漂っていた。 「先輩! これ着ていたら私、浮いています。気持ちいいです」  千恵は、海面から冴子たちを見上げて言った。ふわふわと浮かぶ感じを楽しんでいるようでもあった。それどころか薄っすらと笑みを浮かべてペロリと舌を出して口の周りを舐めた。 「海水って……こんなに辛かったかなあ。海水の味、忘れてたなあ」  ライフジャケットを着て浮いていると、やや仰向け状態になる。千恵は、空を見上げた。 「青い……空。広い海。思っていたより海の中って暖かいなあ」 「おーーい、柴田さん大丈夫かい?」  大迫がゆっくりとヨットを近づけた。  冴子が千恵のライフジャケットの裾をもって艇内に引き上げた。もちろん全身ずぶぬれだ。 「大迫先輩!ライジャケってこんなに浮くんですね。落ちたときはびっくりしたけど、浮き心地が……気持ちが良かったです」 「ハハハ、そ、そうですか。それはよかった」  大迫と冴子もほっとしつつ千恵の天真爛漫な様子に笑みがこぼれた。 「柴田さん、ごめん。何か急にカッとなっちゃっていきなりタックして」  冴子が、穏やかな顔つきに戻って言った。 「そうですよ、南條さんは、今給黎さんのこととなると、周りが見えなくなりますからね」 「ごめんなさい。でも、今の柴田さんの幸せそうな顔を見て、石原先輩を思い出したの。石原先輩もどんな時も楽天的で明るい顔をしていたわ。レースを楽しんでいた。……負けた時も凛として、微笑んでいた」 「いいえ、わたしこそ、もたもたしてすみませんでした。ヨットってちょっとしたタイミングで落水したりするんですね」  額の髪の先から海水のしずくをポタポタと落としながら千恵が微笑んでいった。 「じゃあ、そろそろベアして、本部船に帰りましょうか」大迫が言うと 「ベア?」 「ああ、ヨットを風下に向けることをベアリング、単にベア言うんです」  大迫は、ティラーを切ってヨットを風下側に向けた。  船首を風下に向けると同時にメインシートを緩め、引き込んでいたメインセールを、風下側に出した。メインセールと艇体がほぼ直角の関係になった。  セールは真後ろから風を受けるようになった。ヨットの揺れはローリング(横揺れ)になった。冴子と大迫が、バランスを取りながら立ち上がった。濡れネズミの千恵は、すわったまま彼らを見上げていた。  クローズホールドでは、風下に傾かないように、小まめにヒールを起こしてバランスをとりながら、艇をほぼ水平にして進んでいたが、風下に向かっている艇は、左右に揺れふわふわと、不安定な感じを受けた。 「スピンを張るよ! 」  大迫が立ったまま言った。 「OK!」  と冴子が言い、艇の側面に這わしてあったスピンシートを右手でつかみ、左手は足元の1.5m程のアルミ製のスピンポールをつかんだ。 「ポールセット!」  冴子は、メインマストに取り付けらえている、U字型の金具であるアイにポールの片側を取り付けた。  その間大迫は、センターボードケースに取り付けている玉のついたクレモナのロープを引いた。マスト横のスピンバッグ入っていたスピンネーカーがマストの先から出ているクレモナのロープに引っ張られてシュルっと上がっていった。  三辺が曲線のほぼ三角形をしたスピンネーカーが、ジブセールの前に展開された。スピンの三つの角はそれぞれシートがついている。頂点はマスト上部、底辺の二か所の角は、それぞれスピンシートがつけられ右角のシートは艇の右に、左角のシートはデッキの後方に付いているブロック(滑車)を通っていた。  クルーの冴子は、スピンの右角から伸びているスピンシートを取り、左のスピンシートはスキッパーから手渡され受け取った。その後、その左右のスピンシートを持って、風上側のデッキに座りスピンネーカーが、きれいに風をはらむように左右のシート出し入れしながら調節した。スピンネーカーは、風をはらみふわりと丸く膨らんでいる。 「クルーはね! 」  スピンシートを常に細かく動かしながら冴子が 「スピンシートを操作してスピンが一番いい形になって風を効率よくはらむようにするのよ」  と言った。 千恵は、スピンが大きなパラシュートのように見えた。どんどん上に上がっていくような錯覚を受けた。  風上側のデッキに冴子が座り大迫は、風下側のデッキでメインセールのブームを前に押さえながら、ティラーを操作していた。  波に乗って艇がローリングした。やはりクローズホールドに比べると不安定な感じがする。 「なんか、揺れますね」 「そうね、こわい?」 「っていうか、ふわふわと不安定な感じがします」 「いま、後から風を受けて風下に向かって走っているけどこの状態をランニングっていうの。ちょうど帆掛け船のような状態ね。ヨットは、風上に向かうクローズホールドとその他の方向に向かうフリーの2つの走り方でレースるの。フリーにも状態によって名前が付いているの。風をほぼ真後ろから受けているこの状態をランニングって言うの」 「はあ」 「で、サーフィンのように波に乗ったりしたり、ローリングしたりしてラダーにいろんな方向の力がかかるのそれが、それを調節するためにティラーを小まめに動かすので不安定な状態でもあるのよ。急に風が変わったり、ちょっとティラーを切りすぎると艇が大きく傾いてチンすることもよくあるの」 「チン? チンするって……部室でもチンって言ってましたよね?」 「ああ、チンていうのはヨットが転覆することをそういうの。真横にひっくり返るのを半チン。180度全部ひっくり返って舟艇だけが海上にでるのを全チンというの」 「は、半チン……全チン……」 「まあ、ヨットはひっくり返るもんだからすぐに起こすことはできるし、ライジャケを着ているから、さっきのように海に浸かっても大丈夫よ。でも、レース中にチンすると他の艇に抜かれて大きく差をつけられることになるのよ。石原先輩は、レース中は一度もチンをしたことがなかったわ」 「はあ……、ヨットって結構ひっくり返るんですね…」 「本船が見えてきた。スピンを下します!」  大迫は、立ち上がって言った。冴子は、スピンポールを外し、スピンネーカーを素早く束ねて引き込み、スピンバッグに押し込んだ。その間ほんの3秒の事だった。 「さて、本部船に着けますよ。柴田さん、どうだった。ヨットの乗り心地は?落水はオプションでしたけどね」 「ハイ、乗っているだけで、楽しかったです」 「そう、よかった。いい印象を持ってくれたみたいね」  冴子が、言った。 「おかえりなさい!、チイちゃん!!」  本船に乗っていた翔子が手を振っている。大迫は、用心深く艇速を落として、本部船である漁船に横付けした。 「お疲れ様」  有園がヨットのサイドステーをつかんで本船に近づけた。 「いげんやったね。おお! びしょびしょじやなかか。楽しかったろ」  西郷がニコニコとしていった。 「本当、チイちゃんどうしたの?」 「落水しました。でも気持ち良かったです」 「え? 落水! ……濡れるのですか? ……私、どうしようかしら」  翔子が、心配そうに冴子を見た。 「わたしが、とろとろしてたのが悪かったの。ショウちゃんは、運動神経いいから絶対大丈夫だって。楽しいから。絶対乗ったらいいって」 「そう、大丈夫よ。さあ、交代して」  冴子が、翔子に手を差し伸べた。千恵が、本部船に這いあがり、翔子が、冴子に手を引かれヨットに滑り込んだ。 「ほんじゃ、いいてらっしゃーい」  有園がサイドステーを放した。ヨットは、翔子、大迫、冴子を乗せて再び遠ざかった。 「わっぜぬれたな。しか今日は天気も良かけん気持ち良かったろう」  西郷が言った。 「ハイ、自分が思っていたより海水が冷たくなかったんです。やはり太平洋の海水だからでしょうか?」  真顔で千恵が言った。 「じゃっど。黒潮やっで真冬でもぬくかよ」 「へえー。今度は、真冬に浸かってみたいです」  あくまで千恵は真面目な顔だ。 「おお、そうか……。海はいろいろと面白かこつが多いけんな。海はよかぞ。そんな海で、ヨットは風に合わせて動かにゃいかんし、セールの形を調節したりせにゃいかん。それも刻々と変わる状況が変わる海上で、レース中にな。それから、シートを引きすぎても緩めすぎもいかんし。風がない時などは、あえてヒールさせて走ることもある。なんかこう全てが生きているかこつ感じがせんか?」 「はい、海はいいです!私、海大好きです」  その時、有園が遠くを指さして叫んだ。 「あ、柴田さん、あれ見なよ!」  そこには、海面を飛び跳ねるイルカの群れが見えた。 「イルカ! ですよね! すごい。野生のイルカは初めて見ました。すごい」 「あいつらも、見ているかな? 」  西郷が、翔子たちの乗ったヨットを見た。  陽が幾分傾きかけてきたので、試乗会は終了となった。翔子を乗せたヨットは、ヨットハーバーに向かった。それを追って千恵が乗った本部船が続いた。大迫と冴子は、ハーバーのスロープからヨットを引き上げ艤装を解き始めた。  冴子は、千恵と翔子に向かって言った。 「どうだった、試乗会」 「まだ、足元が船に乗っているみたいに揺れてる感じがします」  千恵が、両脚をトントンと叩きながら言った。 「そう、私たちは、これからヨットの艤装を解いて片づけるから、あなたたちは帰りが遅くなるといけないから着替えて来て。さっきの管理棟にお湯が出るシャワー室があるから温まってね。特に柴田さんはね。風邪を引かれたら困るし」 「はい」 「それと、もう陸上に上がったからライジャケは取っていいよ」  千恵と翔子は、ライフジャケットを脱いでFJの艇内に置いた。そして、管理棟に入って行った。それを見送って艇体にホースで水をかけて洗いながら大迫が言った。 「南條さん、どうだろう、あの二人。入部するかな?」  冴子は、連れだって歩く二人の後姿を見ながら 「柴田さんは、たぶん入るよ。でも、ヨットより海そのものに興味があるみたいだけど。動きの方はいまいちね」 「うん、そんな感じでしたね。でも、びしょびしょになっても嫌な顔一つしなかった。根性があるっていうんじゃないけど、何とかついてくるんじゃないかな。中山さんは、自然に体が動いていたよね。ヒールに対してバランスをとっていたよ。それから、南條さんの動きをじっと観察していましたね。中山さんのほうが、選手としては早く物になりそうですね」 「うん……。中山さんは、運動神経はあるわね。タックにしてもジャイブにしても私たちの邪魔にならない位置にちゃんとポジションをとっていたわ。即戦力になりそうね。二人とも入部してくれたらいいのになあ」  有園が、シートを束ねながら言った。 「本船でも、柴田さんは、楽しそうだったけど、中山さんはどうかな。静かにヨットを見てたよ。顔色が少し悪いような感じがしたな。ありゃ船酔いかも」  そのころ千恵と翔子は、シャワーを浴びながら入部をするかどうかの会議をしていた。 「チイちゃんどうします? 」翔子が言った。 「ヨットに乗って、楽しそうでしたよね。入部するの?」 「する。わたし、ヨット部に入るわ。だって、こんなにも海に触れ合えるんだもの。   こんな部活他にある? ショウちゃんは? どうする? いっしょにやろうよ」 「……。どうしょうかしら……。本船やヨットが揺れるのが……ちょっと気持ち悪かったですけど」 「え? 船酔い? 」 「そこまでは、いかないですけどふわふわした感じがあまり気持ちのいいもんじゃなかったです」 「そう、ショウちゃんと一緒にヨットできたら嬉しいけど、でもショウちゃんは、ショウちゃんで、自分自身が楽しいと思う部活を選んだらいいと思う」 「そうですね。ありがとう」  翔子は、シャワーを止めタオルを被った。  二人は、制服に着替えると、管理棟を出て艇庫の前に戻ってきた。ヨットは、もう艇庫の中に片づけられていた。他の部員もすでに帰宅していた。冴子と大迫と有園が何か話していたが、二人に気づき近づいてきた。 「お疲れ、今日は試乗会に来てくれてありがとうね」  冴子が言った。 「先輩方もお疲れ様です、とっても楽しかったです。今日はありがとうございました」  千恵が答えた。 「うん、うん」有園が今度は前に出てきた。 「で、どう、楽しいヨット部に入らない? 」 「はい、やらせてもらいます。よろしくお願いします」  千恵が、即答した。 「よし!一人ゲット!」有園は、右手をグイと握り締めた。  今度は大迫が、翔子に向かって聞いた。 「中山さん、君はどうだった」 「貴重な体験でした。おそらく今日のようなことは、高校のヨット部じゃないとできない体験だったと思います。ありがとうございました」  翔子は、真顔で答えた。 「あ、ああ。そ、そうですか。それはよかった。ご丁寧にどうも」 「で、あなたはどうするのよ?」  有園が、聞いた。それには、冴子が答えた。 「ちょっとまって、中山さんは、合唱部に入りたいって聞いているわ。今日は、ゲストで来てくれたの」  冴子は、あくまでも翔子との筋を通そうとそう言った。千恵が翔子の方を向くと、しばらく下を向いて何かを考えているように見えた。やがて、ふと顔を上げて三人の先輩の方を向いて言った。 「あの……、もし、よろしければ、私もヨット部に入部したいと思います」 「えええ! 」  冴子が叫びとも喜びとも取れる声を上げた。 「な、中山さん。慌てなくてもいいのよ。ヨットに乗ったからと言って、入部しなきゃならないなんてことはないからね。よく考えてから答えてね」 「はい、実は昨日から考えていましたの。どうしようかと。チイちゃんもやることだし、私も一緒にやってみたいと思います」  翔子は、千恵の方を向いて言った。そして、ウインクをした。 「ショウちゃん!いいの。合唱部じゃなくていいの。一緒にヨットをやってくれるの?」 「うん、チイちゃん一人だと心配だし。私も一緒に頑張ります!」 「やったーー!」  飛び上がって声を上げたのは、大迫だった。 「いやあ、これでなんとか、最低の部員は確保できました。よかった。よかった。これで一応OBに顔向けができます」 「キャプテンというものは、色々大変みたいね」  冴子は、有園と顔を見合わせてつぶやいた。  大迫は、千恵と翔子に向かってさっそく今後の練習のことを話し始めた。 「さっそくで悪いけど、明日から部室に来て下さい。海に出ての練習は、土曜日の午後の放課後と日曜日の午前8時からです。このハーバーに集合して行います。で、火、木は、海には行かず、放課後に学校で体力づくりのトレーニングをします。    いわゆる陸トレです。服装は、平日は体操服、海に出るときは、今日のような服装を準備して下さい。  明日は、木曜日だから陸トレをします。でも,今日はヨットに初めて乗ったから疲れていると思います。無理はしないように。これからも一緒に頑張りましょう!」 「はい!」  二人は、同時に返事をした。そして、千恵は翔子に抱き着いた。 「うれしい!ショウちゃんと一緒にヨットがやれるなんて!」 「ちょっと、ちょっとおおげさですわ。わたしこそチイちゃんとできるのはうれしいです。がんばりましょう」  冴子が二人の肩をつかんで言った。 「よかった。わたしも勇気を出して二人を勧誘してよかったと思う。ほんとうに、ありがとうね。でも……」 「でも、何ですか?」 「海は、いつも今日みたいに穏やかとは限らないからね。海は、色々な顔を持っているから、安全第一の為にも私たちの指示はよく聞いてね」  翔子は、冴子の顔が一瞬厳しくなったのを見逃さなかった。冴子は、すぐに笑顔になって言った。 「なーんてね、はじめは、慣れないことで大変だと思うけど、きっとヨットをやっていてよかったと思うから頑張りましょうね。じゃあ、もう帰っていいわ。気をつけて帰ってね」」 「はい!」  千恵は、天真爛漫にただニコニコしている。千恵と翔子は、お互いのヨットの感想を話しながら帰っていった。  それを見送る三人のもとに本部船の片づけを終えた西郷が現れた。 「おお、帰ったとか。で、どうだった」 「二人とも入部です」  大迫が答えた。 「ほおっ、そりゃよか。試乗会は、成功じゃったな。まあ、今日の海は、初心者にとっては、最高のコンディションだったよな。天気はよかで、暑くもなく寒くもなく。   風はちょうど楽勝の風だし。波も高すぎず低すぎず、いい塩梅(あんばい)やったでな。しぶきで濡れる事もなく。まあ、柴田の落水は予想外じゃったけどなあ、本人は楽しそうにしとったじゃなかか。こんなによかヨット日和は、なかなかなかぞ。   今日の試乗会は、成功じゃった」  西郷が嬉しそうに言った。 「そうですね。こんなヨット日和は、練習日で何回あるか……」  大迫がぼそりといった。 「大丈夫! あの子たちはぜったいついてくるって! 」  冴子が、両手をこぶしを握り締めて言った。 「がんばれよーー! 柴田さん! 中山さん! 」  生徒三人と西郷は、楽しそうに語り合いながら帰る千恵と翔子の後姿を見ながらそう願うのだった。 ※ 第1章 出艇申告おわり 第2章 スタートラインにつづく
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