2 スタートライン

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2 スタートライン

試乗会翌日の朝  翔子が、登校する生徒に交じって姿勢よく、すたすたと歩き、校門を入ろうとした時だった。 「シ、ショウちゃん……」  しわがれたような、どんよりとした声が背後から聞こえた。振り向くと肩を落とし、前傾で両足を引きずる千恵が、翔子を見上げていた。 「チイちゃん、どうしたんですか。沈みかけた船みたいにして」  翔子が言った。 「う、うん。昨日の試乗会の後遺症みたい。ヨットに乗ったのは、初めてだったし、普通の船と違って大きく傾いたりしたじゃない。おまけに落水もしたし。普段使っていない筋肉をフルに使ったみたいで……特に太ももが……」 「もしかして、筋肉痛ですか? 」 「みたい……。ショウちゃんは大丈夫? 」 「ま、まあ、少し疲れみたいなのはありますが。大丈夫ですけど」 「さすが、ショウちゃんはスポーツも万能だもんね……わたしは、運動神経は、いまいちだもんね」  と言って千恵は、はあ、とため息をついた。  そんな2人に、 「おっはよう。昨日は、お疲れ様。今日から陸トレを始めるからおくれないでね」  明るく声を掛けてきたのは、冴子だった。 「おはようございます。」  翔子は、幾分元気に、千恵は幾分疲れた声で答えた。 「柴田さん、なあんとなく疲れた顔をしているけど。始めは誰でもそんな感じよ。できる範囲で、徐々に体力をつけていこうよ。絶対楽になるから。でも無理はしないでね」  冴子は、千恵の肩をもみながら言った。 「んじゃ、また放課後ね」 「はあい。頑張ります」  すたすたと去ってゆく冴子を見送って千恵は言った。 「今日の南條先輩、一昨日に比べて明るくさわやかね」 「はつらつとしてますわ」  本格的なヨット部活動開始の第一目の朝の一コマだった。  そして、放課後……。  翔子が、千恵の教室に迎えにやってきた。千恵は、教科書をかばんに一冊一冊入れている所だった。 「チイちゃん、部活に行きましょう」 「うわ、ショウちゃん、何かはりきってるねえ。実はヨット部がやりたかったんじゃない?」 「そうですねえ……まだ、よくわかりませんが、今は、とにかく何でもやってみようと思いますの」 「うん、そうだね。まず、やってみようだね。まだ、ちびっとあちこちが痛いけどね、へへへ」  両足の太ももをさすりながら言った。  2人は、教室を出て部室棟に向かった。階段に向かう廊下を歩いている時だった。 「あのう……」  背後から、恐る恐るかけたであろう声が聞こえた。  2人は、立ち止まり振り向いた。一年生らしい男子生徒が、立っていた。  千恵も翔子も小柄だがこの男子も、2人より少し背が高いくらいだった。男子の平均身長からみると小柄の部類にはいるだろう。眼鏡をかけた穏やかな顔つきをしていた。    男子生徒は言った。 「昨日、ヨット部の試乗会に来た人ですよね? 」 「はい」  千恵は、即答した。と同時に、そういえばどこかで見たことがある人だと思った。 「ああ、昨日ヨット部にいらした、1年生の男子部員の方ですよね」  翔子の記憶力は抜群だった。 「うん。そう。1組の城山純平(しろやまじゅんぺい)です」  はにかみながら純平は言った。 「わたし、2組の柴田千恵です」 「わたしは、1年5組の中山翔子です。どうぞよろしくお願いします」 「あ、はい、こちらこそ、よろしくお願いします」  純平は、うつむきがちに言った。控えめな高校1年生のようである。 「城山さんも今から部活に行くところですの?」  翔子が、うつむき加減の純平の顔を、わざわざ下から覗き込んで言った。翔子は、時に大胆な行動に出ることがある。 「あ、はい」 「城山君は、いつヨット部に入ったの?」  千恵は、同級生だとわかるとフランクにしゃべりかけた。 「先週、部活紹介があった日。君たちは、ヨット部に入るの?」 「うん、わたしも、ショウちゃんも入ることにしたの。今日は、陸トレがあるのよね?いまからいくところ」  千恵が言った。 「そうか、入るんだ。いままで、1年生は僕しかいなかったから、少し心細かったんだ。他にも1年生が入ってくれて何かホッとしたよ。が、がんばろうな」 「はい、城山さんは、何でヨット部に入ろうと思ったんですか?」  翔子が、聞いた。3人は、歩きながら話し始めた。 「あの部活紹介で言っていた、ヨット部は、オリンピック種目もあって、高校から始めてもがんばれば、選手になれる可能性があるって聞いて」  そういえば、冴子と初めて会ったときそのようなことを言っていたことを千恵は思い出した。 「いままで、運動部なんてやったことなかったんだけど、何かヨットは、がんばればできそうかなって思って」 「すごいですわ!城山さんは、目標はオリンピックなのですね」  翔子は、人を持ち上げるのがうまい。 「いやあ、オ、オリンピックまでは、考えていないけど。ヨットを動かしてレースをするっていうのが、面白そうで……」 「そう、それよね。海の上で。風を読みながら。セーリングよね。加山雄三様の世界よね」  千恵は、もう自分の世界に入りかけている。 「で、今日の陸トレって、どのようなことをするんです?」  翔子が純平に聞いた。 「えっと、基礎体力をつけるため、ランニングとか腕立てとか腹筋とか、よくあるトレーニングだよ。僕は、まだ慣れてないからしんどいけどね」 「うえ、私は、走るの苦手だな。しかも筋肉痛……」 「できる限りで、がんばりましょう」 「そうね、できる限りで」  千恵が、言った。  あちらこちらで放課後の部活動が始まってた。3人は部室についた。 「こんにちは、失礼します」  純平が、ドアを開け中に入った。部屋の奥に椅子に座った大迫がいた。 「やあ、来てくれましたね。陸トレは、16時から始めます。各自、着替えて部室棟前に集合して下さい。女子の更衣室は、この部室棟の西端にあるんでそこでして下さい。持ち物は、部室で鍵をかけて管理するから着替えたら荷物はここに持ち帰って下さい。特に貴重品は、各々で管理お願いします」 「分かりました」  2人は答えた。更衣室へ行こうとした時、2年生が部室に入ってきた。南武(みなみたけし)清水洋治(しみずひろはる)多田野勝(ただのまさる)の3人だった。 「ちはっす!」  独特のあいさつで会釈して、大迫に挨拶した。不思議そうな顔をして、翔子が先輩3人を見た。 「こんにちは、ヨット部では、そのように挨拶をするのですか?」 「ああ、そうだな、ヨット部ではこの挨拶だよな。『こんにちはです』を略して『ちはっす』ってとこかな。1年生も覚えるように」  南が言った。 「おっ、南、さっそく先輩風を吹かせているな」  ちゃかして、清水が言った。 「あ、あたりまえだろ。先輩だ、可愛い1年生にはいろいろおしえてやらにゃあ」  幾分顔を赤らめて南が言った。 「そうだね、先輩方、頼みますよ。いろいろ教えてあげてください。」  大迫が、2年生3人に向かって笑顔で行った。 「よろしくお願いします」  1年生の3人も頭を下げた。 「おう、じゃあ、着替えに行くか」  南ら男子は、男子更衣室に向かった。 「私たちも、着替えに行きましょう」  翔子が千恵に声を掛けた。 「うん」  翔子は、千恵の声に少し力がないことが、気になったが、2人は、女子更衣室へ向かった。女子更衣室は、壁際にロッカーが並んだ部屋だった。ロッカーに鍵はついていなかった。大迫が、荷物は部室に持ち帰れと言ったのはこのことだった。2人は、体操服に着替え始めた。学校指定の長そでのジャージにトレパンだった。 「チイちゃん、どこか調子が悪いの?」  翔子が言った。 「いや、特に調子が悪いことはないの、ちょっと昨日の疲れかな。それと、城山君が言っていた。陸トレってランニングとか腕立てとかするんでしょ。私体力無いから」  千恵は、力なく答えた。 「気が重いのですか?大丈夫ですよ。城山さんも、まだ慣れていないって言ってたじゃないですか。私たちは、今日初めてなんだから。今出来るだけのことをしましょう。体力は徐々に付いてきますよ」 「うん」  千恵は、特に持久走が超苦手だった。  16時、ヨット部員12名全員が、ちょっとした広場になっている部室棟の前に集合した。部員は、円状に並んだ。千恵は、冴子を見た。ライトグレーのTシャツに赤いハーフパンツ姿だった。両手指を絡ませて手首を回していた。ふと、目が合った時、冴子はにっこりとした。千恵は、何となく恥ずかしさを覚えた。 「みんなそろいましたか?」  大迫が周りを見渡して言った。 「じゃあ、陸トレを始めます。陸トレが初めての新入部員がいるので、今日することを言っておきます。」 「はい」  千恵と翔子が答えた。 「まずここで、準備体操をします。ラジオ体操のあと、屈伸や伸脚をします。            この時、10まで、時計回りで順番にかけ声をかけてください。  その後、校門から出て学校の周りをランニングで、3周します。  校門からグランドの高鉄棒の所へ行き、腕立てや腹筋の筋トレをします。  で、ここに戻ってきて整理体操をして終わりです。  ランニングの時は、かけ声をかけて走るので、2年生がかけ声の仕方を2人に教えてあげてください」  大迫が、2年生のほうを見て言った。2年生3人は、顔を見合っていたが、南が、口火を切った。 「ランニングの時は、先頭にキャプテン、その後に1年生、2年生、3年生と並ぶんだ。  で、1年生の城山から『なんさーつ、ファイト』と走りながら声を出す。みんなに聞こえるようにしっかり声を出す。ああ、なんさつとは南薩摩の略だ。んで、『なんさーつ、ファイト』のあと、他の部員が『ファイト』とかけ声を返すんで、また、城山が『ファイト』と声を出す。  『ファイト』の『ト』が言いにくいので『ファイ』でいい。この掛け声で『なんさーつ、ファイ』『ファイ』、『ファイ』『ファイ』、『ファイ』『ファイ』、『ファイ』『ファイ』と4回繰り返したら、次の1年生、柴田か中山が、同じように繰り返す。1年が終わったら2年、3年とかけ声をかけていくんだ。始めは、大きな声が出るが、ランニングで疲れてくると、声が小さくなる。そこが踏ん張りどころだ。がんばって、大きな声をだすこと。わかったか」 「はい!」 「はい・・・・・・」  翔子は、元気よく返事をしたが、千恵は、幾分声が小さかった。ランニングに不安を感じているためだ。ついていけるだろうか・・・と。 「ようし、じゃあ、準備体操始め。いっち、にい、さん、しい」  と大迫が始めた。 「ごお、ろく、しち、はち」  他の部員が声を出す。千恵がふと、冴子を見るとはつらつと大きく体を動かしていた。千恵は、何事も初めてのことなので緊張して身体がこわばっていた。横にいる、翔子をみた。翔子は、自然に流れるように身体を動かしている。あまり緊張していないようである。 「いち、に、さん、し!」  翔子が鋭く掛け声をかけた。 「ごお、ろく、しち、はち」  体側を伸ばす運動。次は、千恵の掛け声だ。 「いいち、にいい、さん、しいい」  すこし間延びする掛け声だった。 「ごお、ろく、しち、はち」  皆、特に反応することなく体操に集中していた。やがて、準備体操も終わりランニングになった。 「集合!1年生、頑張って声を出して下さい!」  大迫が言った。二列縦隊に並び、先頭の大迫の横に純平。その後に千恵と翔子が並んだ。後ろを見ると二年生の男子。最後尾には、冴子と有園が並んでいた。冴子は両膝を曲げて、ぐるぐるとまわしていた。 「OK!みんなそろったよ」  冴子が言った。 「じゃいくよ!」  大迫が、走り出した。 「なんさーつ!ファイ」純平が声を上げた。 「ファイ!」全員が、声を出して呼応した。千恵は、どぎまぎしつつもやや小さい声で「ファイト」と言った。 「ファイ!」さらに純平。 「ファイ!」全員呼応する。 「ファイ!」純平。 「ファイ!」全員 「ファイ!」純平。 「ファイ!」全員 「………………」全員沈黙して走った。 「チイちゃん、あなたの番ですよ」  翔子が走りながら肘で千恵をつついて言った。 「あ、ハイ、すみません。えっと、なんさーつ、ファイ」 「ファイ」 全員が答えた。 「ファイ」 千恵。 「ファイ」 全員 「ファイ」 幾分速いペースで言った。 「ファイ」、「ファイ」、「ファイ」 早くなったり遅くなったりして、妙なペースだったが、何とか言い終えることができた。 「なんさーつ、ファイト」  翔子が、すかさず続けた。はっきりとした発音で掛け声を発した。こうして声を掛けながら、一団は、校門を出て学校の壁に沿って歩道を走った。  ランニングの一団が学校の敷地の周りを掛け声をかけて走っていく。3年生まで掛け声が一巡して再び城山純平の番が来た。少し高いが、力強く声を出した。順平も、少しテンポが早くなった。千恵の番だ。息が上がり脇腹に少し痛みをおぼえつつ、声を出した。 「なんさあああつ、ファイ」  声は、大きかったが集団から徐々に遅れて後方に下がってきた。(ああ、遅れていく。ちゃんと付いて行かなきゃ。でも、足が重い……ショウちゃんの背中、城山君の背中……みんな、だんだん離れて小さくなっていく) 次は翔子の番だった。 「なんさあーつ、ファイ」 自然な感じだった。呼吸も乱れずはっきりと掛け声がこだました。一団にもしっかり付いて行っている。  集団は、ペースを変えず走っていく。  千恵は、脇腹の痛さと付いて行けないもどかしさで涙をにじませた。(ダメだ、ダメだ、ダメだあ、付いて行けない。止まろうか…………)と思った時だった。ふと、走りながら横から声がした。 「柴田さん! きつい? あせるともっときつくなるよ。今は、自分のペースで行っていいよ。みんなから遅れてもいいから」  千恵は、涙でかすむ目で声の方を見た。すぐ横に冴子が伴走していた。 「ハア、ハア、ハア、先輩……」 「決して焦らなくていいからね。今の柴田さんは、今の柴田さんの走りで、だんだんと自分の走りを見つけなよ。どんなに遅れてもいい。でもね、これだけは覚えておいて。止まらないこと。どんなにゆっくりでも、どんなに遅れてもいいから、止まらず走って。足だけは止めないで」 「は、はい……ハア、ハア、ハア」  千恵は少しペースをダウンした。呼吸が少し楽になった。 「まあ、止まるなと言っても、無理して走って後で耐えられなくなって止まっちゃうこともあるけどね。とにかく今は、みんなに合わせようと焦らないで。わたしたちは、ここまで時間をかけて体力を作ってきたんだから。あなたはまだ始めたばかりでしょ。これからよ。今できることをする。一歩一歩足を前に出すことそれだけ」 「わかりましたあ」  千恵は、走りながら額の汗を拭った。徐々にしっかりした走り方になってきた。 「んじゃ、健闘を祈る! 」  と言い残して冴子は、ペースを上げ遥前方に走り去ってしまった。  部員の一団が遠くに見える。城山純平が少し集団から遅れてきているのが見えた。    翔子は、ぴたりと一団に付いて行っていた。 「ふうー、みんな、すごいよ」  千恵は、半ば足を引きずり気味ながら言った。  鈍足の千恵も、周回遅れはすることなく、三周走り切った。グラウンドの高鉄棒がある場所で、部員が思い思いに休憩していた。翔子も、手を後ろについて長座をしていた。純平は、まだ苦しそうに膝に手を当てて下を向いてハアハア言っていた。冴子は、両手を左右に開いて深呼吸をしている。千恵は、止まらずに、一団の所まで走って行った。 「やあ、来たね」  大迫が、笑顔で言った。 「ハア、ハア、ハア、……」  (はい)と答えようとした千恵だったが、息が切れて言葉にならなかった。 「あれから、止まらなかったのね。よくがんばった。付いてこられたじゃない。ありぞんなんて……」  冴子が続けようとすると、有園がさえぎって、 「まって、まって、入部してすぐの事じゃない。いまさら昔のことを言わないでよ」 「有園先輩、そのころは、どうだったのですか?」  いきなり翔子が、聞いてきた。息も乱さずに、静かに聞いてくるところが不気味だった。それには、冴子が答えた。 「確か、2周目でアウトだったよね」 「はいはい、そうでした、私が2周して、3周目を走る頃には、みんなもう3周終わってここにいたんですよね。いいじゃんか、昔の事なんだから。今では、みんなについて走れるようになったし。……まあ、それに比べれば、千恵はちょっとがんばっているかな」  有園が、千恵の小さい背中を見ながら言った。千恵は、疲れの中で、かろうじて有園の声が聞こえた。 (がんばってる?……。私が?明らかに遅れて走っているのに……) 「そう、えらいよ柴田さん。って、今日から『千恵』て呼んででいいかな?」  冴子が顔を近づけていった。 「は、はい……」  千恵は、呼吸が戻りやっと答えることが出来た。 「中山さんは『翔子』でいい?」  冴子は、翔子の方に向き直っていった。翔子は、 「どうぞ、そうお呼びになってください」  と嬉しそうに言った。 「冴子のことは、『お冴さん』でいいからな」  有薗が、笑いながら千恵と翔子に言った。 「そうね、それでいいわ。わたしのことは、『お冴さん』て呼んでね」  冴子が言った。 「いいんですか?先輩後輩のけじめが、つかなくなるってことはないでしょうね?」  真面目な大迫が言った。 「それは、今から行動でつけていくのよ。呼び方ぐらい気楽に行こうよ」 「わかりました。呼び方を変えるのも、石原先輩ゆずりですね」 「ハハハ、おほめにあずかってうれしいわ」  冴子は両手を腰に当てて笑った。翔子が、千恵の所に来て、耳打ちした。 「話に時々出てくる石原先輩ってどんな人なのでしょうね」  千恵は、ただ、ただ、しんどいだけで、何も考えていなかった。 「それじゃあ、そろそろ陸トレをします。円になって! 」  大迫が、言った。部員は、円状に並んだ。まず、ストレッチ運動をし、腕立て伏せ、腹筋、スクワット、かかとを上げて手を握ったり開いたりする握力、そして、隣の部員とペアになり馬飛びをした後、その股をくぐる運動をした。最後に高鉄棒を利用して懸垂をした。腕立てや腹筋などのトレーニングは、体重が軽い千恵は、楽にこなすことができた。馬飛び股くぐりも、小柄な千恵は、意外な敏捷性を見せた。 「じゃあ、今日は、新入生が初めてなので、このぐらいにしておきます」  大迫が、ニコニコしながら言った。(え?これぐらい?……ということは)千恵は思った。その時物怖じしない翔子が言った。 「これくらいということは、本来はもっとやるということでしょうか?」 (ショウちゃん、はっきりと聞いちゃったよ……)千恵は、翔子の顔を見た。額に汗して、きりっとした顔をしている。 「そうです、徐々に体力をつけながら数を増やしていくつもりです。徐々に増やしていくので、新入生は、付いてこれるように頑張ってください」 「ダイジョブよ、私が、できるようになったんだから」  お気楽に有園が言った。 「じゃあ最後に、円陣を組みます」  部員は円陣を組んだ。お互い肩を組んで下を向いた。 「じゃあ気合を掛けて終わります。僕が『なんさーつ、ファイ』と掛け声をかけるからそれについて、『ファイ』と言う、ランニングの時の掛け声と同じです。最後に『なんさーつ』と言うから、『ファイー』で締めてください。最後の掛け声です。次に繋がるように大きい声を出してください。じゃあ行きます」  ヨット部員の円陣を組む手に力が加わった。千恵の髪が汗の滴る頬にかかった。(体力を消耗しているうえに大声を出せなんて。これが、運動部なのね)  横で腕を組んでいた2年生の多田野が小声で話しかけてきた。 「これで、今日の陸トレは終わりだ。よく頑張ったな。しっかり声をだせよ」 「はい」  千恵は、答えた。多田野さんは、いい先輩らしい。    大迫の掛け声が響いた。 「なんさあああつ!ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「ファイ!」 「なんさあああつ!」 「ファイイイイ!」  円陣が解けた。 「今日の陸トレは、終了です。解散!」  大迫が宣言した。 「ふうーー」  と大きく息を吐いて、千恵がその場に座り込んでしまった。  先輩が、「がんばれよ」と次々と声を掛けてきた。  翔子と純平も近づいてきた。 「どうだった?初めてだからしんどいけど慣れたら頑張りが効くようになってくるから、僕も、まだまだついていけないけど、やめないでがんばろうよ」  純平が、優しく声を掛けてきた。 「チイちゃん大丈夫? 運動部ははじめてですものね。わたしは、中学校では、ブラスバンド部でしたけど、バスケットボールのスポーツクラブに入っていたから、そんなにきつくは感じなかったですけど、大丈夫ですか? 」  翔子も、しゃがんで千恵に声を掛けた。 「いやあ、たしかに運動部は初めてだから、こんなもんかな。でもヨットに乗るためだから、頑張る」  千恵は、言った。 「そう、陸トレは、ヨットに乗るための基礎体力作りだからね。無理をしちゃだめよ。徐々にね。メインはあくまでもヨット。いままで陸トレがきつくてやめちゃった人が結構いたからね。ヨットの楽しさがわかる前に……」  いつの間にか冴子が、3人のそばに来ていた。 「南條先輩……」  千恵が座ったまま、冴子を下から見あげた。 「おっと、お冴さんでいいからね」 「では、お、お冴さん。ありがとうございます」 「え、ああ、こちらこそ、ようこそヨット部へ。千恵、翔子。それから、城山君は純平だったっけ。」 「はい、純平と呼んでください」  ようやく、千恵が明るさを取り戻し立ち上がった。 「じゃあ、着替えて、帰りましょうか」  冴子が言った。まわりは、夕日でオレンジ色に染まっていた。  千恵は、翔子や純平と別れた後、『南薩摩高校前』停留所からバスに乗り、7つ目の『藍原(あいばる)』停留所で下車した。  バスを降りると辺りは、静かな住宅街だった。千恵は、緩やかな上り坂をふらふらと歩き家路についた。玄関には、灯りがついていた。ゆっくりと、ドアを開ける。チリンとドアベルが鳴った。それと同時にカレーのにおいが鼻を突いた。一瞬家に着いたという安堵感が、体を包んだ。着いた……。 「ただいま」  千恵の声に反応して、廊下の奥からドタドタと足音が近づいてきた。 「おかえりー。ねえちゃん!部活やってきたんか?」  弟の照男(てるお)がやたらニコニコして聞いてきた。今年、中学一年生になった。男の子も中学生になると、姉など面倒くさい存在に思うものだが、照男は、まだ姉に好意を寄せて話しかけてくる。 「うん、やってきたよ。ヨット部。今日は、陸上での体力作りだったけど。それが何か?」  千恵の方が素っ気ない。靴を脱ぐために玄関に座り込んだ。 「ふーん。体力づくりって……姉ちゃん運動したのかよ」  照男は、千恵が運動が苦手なことを知っていて聞いた。 「した。ランニングをした。5㎞位走ったかな」  千恵は、靴を脱ぎながら答えた。 「え! ねえちゃん走れんのかよ? 」 「だから、5㎞位走って筋トレをしたの。以上」  ふらふらと立ち上がりかばんをもって自分の部屋に向かった。部屋に行く道すがらリビングを通った。 「あら、おかえり」  母親が、台所から声を掛けた。 「ただいま」  千恵は、ここでも素っ気ない。 「もうすぐ、晩御飯だからね」 「はあい」  千恵は、階段を上り2階の自室のドアを開けた。通学カバンを、机の横に置き、ベットに、仰向けに飛び乗った。 「はあー。疲れたー」  千恵は、今まで我慢していた「疲れた」と言う言葉を吐いた。運動が苦手で、ランニングや筋トレなど体育の授業でしか、したことのない千恵にとって、今日の陸トレは、疲れる以外の何物でもなかった。しかし、千恵は、ヨットをやると覚悟を決めていた。そのために、決して人前では『疲れた』と言わないと自分自身に約束した。 「でも、今は、1人だもんね。言っちゃお。あー疲れたー」  疲れゆえの眠気で、薄れゆく意識の中で千恵は思った。 (続けていけるかな……。いや、いけるよね……。覚悟を決めたもんね。ショウちゃん、純平君……お冴さん。力を貸して下さいね……)いつしか、千恵は大いびきで眠ってしまった。 「ちえー、ごはんよー」  階下から母が呼んでいた。  一方、千恵と純平と別れた翔子は、バスの停留所から100m程離れた所に向かった。そこには、黒いリムジンが留まっていた。  翔子は、「はあ」とため息を一つついてリムジンに足を向けた。運転席から、黒いスーツを着て制帽を被った老人がするりと降りてきた。男は、ドアを開けながら言った。 「お帰りなさいませ。お嬢様」 「はい、ただいま」  翔子は、男に通学カバンを渡し、足元とスカートを気にしながら、車の後部座席に滑り込んだ。ドアを静かに閉めて男はすぐに運転席に戻り、車をゆっくりと発進させた。 「お迎えは、いりませんといいましたのに。私、バスで帰りたかった」 「お父様もお母様も、お嬢様が心配なのですよ」  運転手の男は言った。サングラスをしているのでどのような表情なのかはわからないが、声には優しさがこもっていた。 「それは、わかっていますわ。和辻(わつじ)さんもお父様お母様と私に挟まれて大変なのですよね。辛くないですか?」  和辻と呼ばれた男は、返事をした。 「いえ、私は皆さまにお仕えをするのが使命ですから」 「使命!?……単に、お仕事ではなく使命なのですか?」 「はい、使命とは天からいただいたお仕事の事なのです。そしてそれを選んだのは、わたくし自身なのです。ですので、大変なことなどありません。いただいたお仕事です。辛いことなどありません。すべてが喜びなのです」  和辻は、穏やかな声で、諭すように言った。 「使命……天からのお仕事……。そのようなこと、考えてもみなかったです。それも自分で選んでなんて……」 「お嬢様は、高校にご入学なさって、ご自分でお選びになったことがあるではないですか」 「え?」 「ヨット部です。ご家族からは、ブラスバンド部か合唱部に入部するように言われていたではないですか」 「そうですの。知っていたんですね。でも、最初はチイちゃんの付き添いで、様子を見るだけだったんですけど、試乗会に参加してみて、今までになかった新しい世界に触れたような気がして。  何か私の中で新しいものが広がる感じがして。自分でヨット部を選んだのです……そう、自分で……。和辻さん! これって私の使命でしょうか? 」  翔子は、少し興奮気味に言った。自分で自分の進む道を決めた。今までにないことだった。翔子は、そのことに高揚感を覚えた。 「そうかもしれませんね。でも、それが本当の使命かどうかはこれからわかることです。お嬢様がどのようなときも喜びとともに前に進んで行けるなら、この選択は、使命となるでしょう。ただ、お気を楽に持たれて、その時その時を楽しむことです。決して焦ることなく。お嬢様のペースで結構なのです。それが、自分で選んだということなのです」  和辻は、あくまでも穏やかだ。 「そう……そういえば、南條お冴先輩もそのようなことをおっしゃったってチイちゃんが言っていましたわ。でもヨット部でこれから私は何を目指していけばいいのかしら……」 「それも、ゆっくりとだんだんとわかっていくものです」  リムジンは、大きな屋敷の門を通り屋敷の前に止まった。ドアの所にジーパンにTシャツを着た二十歳ぐらいの女性が右手を腰に手を当てて立っていた。 「お帰り、翔子。ヨット部に入ったって?」  女性は、車を降りようとする翔子に行った。 「はい、頼子(よりこ)お姉さま」 「あんたが、自分で自分の意思をはっきりとさせるなんてはじめてじゃん。もう高校生だもんね。あたしも応援するよ、がんばってね」  普段から中山家では、自由気ままにふるまって煙たがられている大学生の頼子だが、翔子は励まされて素直にうれしかった。 「ありがとうございます。頼子お姉さま」  頼子と言う応援者を得て。まず、翔子が考えたのは、両親に、リムジンでの送り迎えをやめてもらえないかと言うことだった。  翌日、千恵は、目覚ましのベルで目を覚ましたが、余りの腕の痛さにベルのスイッチに手を伸ばすことが出来なかった。それどころか、寝返りをすることすらできなかった。腕と太ももと腹筋に重しを乗せられているような痛みで動けなかったのだ。 「ねえちゃん、遅れっぞ」  弟の照男が、ドアを勢い良く開けてベットに飛びのってきた。さらに、千恵の腕をとって引っ張ってきた。 「おい、やめろ。痛い!」 「なんだよ、ねえちゃん、筋肉痛かよ。なさけねえなあ」 「わかった、わかった、起きる起きる」  千恵は、ゆっくりと体を横に向けて、ベットから足を下した。体中の筋肉痛を気にしながら、ゆるりゆるりと服を着替えた。準備が整う頃には、一仕事終えたようにため息が出た。 「よし、この痛みは、新しい筋肉がついている証拠だ。いい感じだ。何事も前向きにとらえよう」  そう言って、部屋を出て、壁に両手を突っ張りながら階段を降り、ダイニング・ルームに顔を出した。 「おはよう。身体大丈夫? 」  母が、ニコニコしながら言った。 「おはよう。全身筋肉痛。でも、あたりまえといえばあたりまえ」 「そうね、これからが、始まりだものね。頑張って体力着けてね」  そういって、母は、朝食のみそ汁を千恵の前に置いた。新聞を開いていた父が、横から千恵を見て言った。 「おう、ヨット部に入ったんだってな。それって、試合かなんかあるのか? 」 「うん、レースをする」 「ほう、なんか、面白そうだな。その時は、見に行くから頑張れよ」 「うん」  そういって千恵は、みそ汁をすすった。お椀も重く感じた。 「行ってきます」  千恵は、家を出た。腕と腹筋と太ももに鈍痛がある。スタスタと歩くようにはいかなかった。(すがりつく杖がほしい)とまで思った。  緩やかな下り道が、足にひびく。『藍原』停留所にたどり着き、いつものように7つ目の『南薩摩高校前』停留所で下車した。  ゆるゆると前傾姿勢で歩く姿を他の生徒が、横目で見て通り過ぎていった。道路を挟んだ逆方向の『南薩摩高校前』のバス停で、ちょうど通学生徒が下りてきている所だった。千恵は、その中に翔子がいるのを見つけた。  翔子は、いつも車で送り迎えだったはずだ。千恵は、近づいて声を掛けた。 「ショウちゃん、今日は、バスで来たの?」 「ああ、チイちゃんおはよう。はい、私今日からバスで登下校することにしました。やっぱり、バス通学は、高校生って感じでいいですね」 「そう、よかったね、ショウちゃんバス通学したがってたもんね」 「はい、よかったです」  ニコニコしている翔子だったが、実は、昨夜バス通学に反対する両親とひと悶着あった。翔子は、姉の頼子の援護射撃もあり、何とか説得してバス通学を勝ち取ったのだ。    翔子は、千恵の足を引きずる妙な歩き方を見て 「チイちゃん、どうしたんですか?どこか悪いのですか?」 「うん、昨日の陸トレの効き目がでているみたい。少し筋肉痛。ショウちゃんは?」 「私は、大丈夫です」 「そう、私もそのうち慣れると思うからがんばろうね」  2人は、連れだって学校に向かった。  午後からの授業は、少し眠気が襲いそれが、何となく心地よく感じる千恵だった。   教室は3階にあり、ちょうど窓際の席で、千恵にとっては、桜島と錦江湾が見渡せる至福の場所だった。今日は、金曜日。陸トレは無く、明日はいよいよ海での練習が始まるのだ。 (ヨットの練習ってどんなことをするんだろう)千恵は、筋肉痛をしばし忘れわくわくと期待感に身を任せた。『海だ、ヨットだ、練習だ』千恵は、無意識にノートにそう書いていた。  そして土曜日。  南薩摩高校は、週休2日制の中土曜日も午前中授業を行っていた。放課後になりいよいよ今日から本格的なヨットの練習が始まる日だった。冴子からは、授業が終わり弁当を食べたら直接艇庫の方へ行くように言われていた。部活のある生徒がちらほらと教室内で、弁当やらパンやらを食べていた。  千恵が、ふと、教室の入り口を見ると、翔子がチラチラとこちらを見ていた。 「ショウちゃん。どうしたの?」  千恵が、小さく手を振って言った。翔子は、おずおずと教室に入ってきた。手に小さな弁当箱を持っていた。 「チイちゃんと一緒にお弁当を食べようと思ってきましたの」 「いいよいいよ。一緒に食べよう」  千恵は、すでに下校している生徒の机を、自分の机の前に置いて翔子を呼び込んだ。翔子は、千恵の前に弁当箱を置き、迎え合わせに座った。2人は、弁当を開いて、思わず微笑んだ。 「久しぶりだね、ショウちゃんとお弁当食べるなんて」  千恵は、言った。 「そうですね。いつもは、別々の教室ですものね」  翔子は、漆塗りの小さい弁当箱を開けて言った。おかずは、卵焼きと魚肉ハムにきゅうりとレタスを無造作に切って置いてあるという感じだった。千恵は、意外な顔をして、翔子の弁当を見た。 「今日は、以外に質素なお弁当ね?」 「お恥ずかしいですわ。実は、私がつくってきました」 「ええ、ショウちゃんが自分で作ったの。いつも豪華なおかずだから今日は、どうしたのかと思った」 「いつもは、家政婦さんが、作ってくれていましたが、これからは、私が、自分で作ろうかと思って」  もう一度千恵は、翔子の弁当を見た。ご飯には梅干しが一個乗っていた。 「余りじろじろ見ないでくださいね。私、料理などしたことがなかったから、お弁当なんてどうやって作っていいかわからなくて」 「へえ、大概の事は、何でもできるショウちゃんが?」 「お料理だけは、何故か苦手で……」 「まあ、だれでも苦手なものはあるもんね。そうか、ショウちゃんは、料理が苦手だったんだ。初めて知った。なんか以外。でも、自分で作るんだもの偉いよ。私なんか毎日母さんに作ってもらってるもんね」 「そうですか、じゃあ今度は自分で作ってきてみてはどうですか? 」 「そ、そうね……。ちょっと早起きしなきゃね……」  2人は、土曜日の放課後のひと時を楽しんだ。  弁当を食べ終えた千恵が言った。 「さあ、海へ行こうか!」  1時間後には、ヨット部全員着替えて艇庫に集合していた。早く来た2年部員はヨットの艤装を終えていた。城山純平も本部船に乗せる練習用のブイや旗などの準備をしていた。 「城山君、私たちも手伝う。何をしたらいいの?」  千恵が言った。 「じゃあこのブイを、マークって言うんだけど、本部船に持って行くのを手伝って}  マークは米俵ほどの発泡スチロールでできていた。ロープで縛りその先は、30mほど伸ばしダンフォオース型アンカー(錨)を着けていた。 「ヨットレースの時は、このマークを海に設置してコースを作るんだ」 「わかりました。私も持って行きますわ」  翔子が、ブイを担いだ。アンカーは、3.5㎏ほどだが、しっかり持ち上げ本部船に向かった。    大迫と冴子は、その様子を頼もしそうに見ていた。 「南條さん、今度入った新入生、なかなか動きがいいですね。期待が持てますよ」 「そうね、素直でいい感じの1年生だわ。練習についてきて上達できるかどうかは、素直さが重要だからね」 「そうですけど、南條さんや有園さんは1年生の時、素直でしたかね? 」 「失礼ね。私は石原先輩を尊敬して素直だったわよ」 「そうでした……。あの1年生は、いつまで今の素直さが続くでしょうね」  そう言って、大迫は、海の方を見た。明らかに風は強く白波が立っている。風が強くなるほど練習は、きつくなってくるのだ。 「よし、一旦集合しましょう。2年生、全員を艇庫前に集めて」 「はい! おーい! 南薩高生全員集合! 」  南武が手を振って南薩摩高校のヨット部の生徒に声を掛けた。川平ヨットハーバーには、他の高校のヨット部も練習に来ている。マークを本部船に積み込んだ一年生も走って艇庫に向かってきた。 「みんな、来ましたか? ちょっとしたミーティングをするから座って下さい」  集合した部員は、あるものは体育座りで、あるものはあぐらで、大迫の周りに腰を下ろした。 「今日からの、練習ですが、皆も知っての通り、部員が少ないです。特に2年生女子不在の中、総体に出場するためには、1年生が出場しないといけない状態です。ということで、本来なら1年生は、本部船での運営補助をするところですが、南薩高1年生は、高校総体出場を前提として、練習に参加してもらいます」 「どういうことでしょうか?」  千恵が、手をあげて言った。冴子が、前に出て、 「それには、私が答えるわ。  本来入部したての1年生は、ヨットについてどのようなものか、レースとはどのようにしてするのかなど基本的なことを本部船から見学して学んでもらうの。  で、秋に全国総体が終わって3年生がヨット部を引退すると、2年生とヨットに乗っての練習をはじめるの。  だけど、今のヨット部が総体に出るためには、1年生部員全員が選手として出てやっと出場できる状態なのよ」  大迫が続けた、 「そういうことです。ということで、1年生には、クルーとしてヨットに乗ってもらいます。城山は、すでに多田野と組んで乗ってもらっています。  そこで、柴田さんと中山さんだが、当分の間、FJ1艇を海に出して、交代してクルーの練習をしてもらいます。スキッパーも南條さんと有園さんが交代でしてもらいます」 「じゃあ、例えば、千恵とお冴がFJで練習するときは、私と翔子は本部船勤務ってこと?」  有園が、口を出した。 「そうそう、そういうことです。本当は、2艇出したいとこですが、本部船に乗っての見学も大事なので、1年生に、いろいろと教えてあげてください」 「ふーん。わかった。で、ペアはどうするの?2年と1年どう組むの?」 「そこは、まだ、決めていません。練習をして、お互いの技術や相性などをみてからになります。とりあえず今日は、前半は南條・柴田組、後半は有園・中山組でヨットに乗ってください」 「ほかのメンバーは、FJ級の僕と3年の有馬、3年の辻と2年清水、スナイプ級は3年丸内(まるうち)と2年南、2年多田野と1年城山というペアで行きます。1年生の指導は、ペアの先輩に任せます。以上」 「はーい、質問」  有園が手をあげた。 「どうぞ」  大迫が答える。 「1年生の指導は、艤装から教えればいいんですか?」  妙にまじめな質問をした。 「はい、高校総体に間に合うように、どんどん教えて下さい。海では、まずセーリング、タック、ジャイブの練習からお願いします。ある程度できるようになったら、スタート練習、レース練習をして下さい」 「面倒くさいけど、りょうかーい」 「とにかく、練習ね!」  冴子が、場を盛り上げるように言った。 「じゃあ掛け声をかけてから、行きます」  大迫がそう言うと、部員は円陣を組んで、いつものように掛け声を掛けた。  最後の掛け声で円陣を解き、部員は各々自分の乗るヨットに分かれた。 「前半は、お冴と千恵が乗るのよね。じゃあ、本部船に行くから、あとで交代ね。翔子行くよ」  有園は、翔子を伴って本部船に向かった。それを見送った冴子は、千恵の方を向いて言った。 「よーし、練習するぞ。千恵には、クルーワークを覚えてもらうから。まず、ハーネスを着けて」 「ハーネス?」 「そう、トラピーズワイヤーのリングにフックを掛けて、ヒールを起こすための物よ。試乗会の時に私が着けていたやつ」  千恵は、今から乗ろうとするヨットのコックピットを見た。下腹部に当たる部分にスチール製のフックのある赤いハーネスがあった。 「これですね」 「そう、まずそれを着てね。その時、しっかり装着しておいてね。ハイクアウトしているうちに緩んでることもあるからね」 「は、はい」  千恵は、リングの部分を固定する紐をグイグイ結んだ。 「何か、結びすぎたのか背中が突っ張ります」 「いい、いい、そのぐらいしっかり結んどいて。動いているうちにちょうどよくなるから。で、次は……」 「ライジャケですね」 「そう、よく覚えてたね」 「はい、ライフジャケットは、絶対つけて、陸上に戻ってくるまでは絶対に脱がないこと」 「オッケー、それが分かっていればヨットウーマンシップの80%は合格ね」  千恵は、前回より要領よくライフジャケットを装着した。 「で、艤装の方は、今日は私とありぞんが済ませておいたので今からヨットをだすからね」 「はい。あの、あと海に出たら私は何をしたらいいんですか?」 「クルーの基本的な仕事は、ジブセール、スピンセールの扱いとヒールを常にフラットに調節すること。あと、レースになったら、気づいたことや状況をスキッパーに報告すること。それから、スタートのカウントダウンに……まあ、その都度言うわ」 「あの、あのヨットの各部分の名前もまだ覚えていないんですけど……」 「うん、わかってる。ゆっくり教えるから。そのシートを外してとか、その球を引いてとか言うから。ただ、分からなかったらすぐに私に確認してね。覚えるまでは、何度同じことを聞いてもいいからね。それから」 「はい、何でしょう」 「しっかり覚えておいて。どんな時も絶対シートから手を離さないこと。まあ、スピンを貼る時とかは、離すことがあるけど、そんなとき以外は、何か必ずシート類を手に持って置くこと。それは、もし落水したときにシートを持ているとすぐヨットに戻せるでしょ」 「はい、わかりました。落水してもシートを離さないようにします」 「オッケー!じゃあヨットを出そうか!」 「はい!」  2人は船台を引いてスロープからFJを海水につけた。冴子は、浮き上がったFJの船底にある船台を陸上に向かって引き上げた。 「千恵、ちょっと風があるから流されないように、しっかりとヨットを支えておいてね」 「は、はい」  確かに、風を受けたヨットは、風下に流されようと力がかかる。千恵はサイドステーを持って、バウを風上に向けた。セールが風をはらまず楽にヨットを支えることが出来た。 「そうそう、そうやって、バウを常に風上に向けること。今日は南風ね。北風のときは、逆に向けることになるからね」  船台を陸上に置いてきた冴子が、ヨットに近づきながら千恵に行った。 「じゃあ、私がヨットを持っているから千恵は、先に乗って。そのときに、よろしくお願いしますって言ってね」 「はい、よろしくお願いねがいします!」  千恵は、小柄な体を艇体にへばりつけて転がり込むようにヨットに乗った。 「乗りました!」 千恵がセンターケースにつかまりながら言った。 「次は、何をしたらいいでしょうか?」 「じゃあ私が乗って合図したら、センターケースの所についているシートを引いて、センターボードを降ろしてね」  冴子は、半ば叫び気味に言った。風が先ほどより強くなってきた。  ジブセールのはためき方がバタバタと大きくなってきた。 「千恵!今セールがバタバタとなっているでしょう。これをシバーするっていうの。風が強くなるほどシバーが激しくなる。ほんとはセールはあまりシバーさせない方がいいの。はためいてセールを痛めたり、セールについているシートが振り回されてマストやステーに絡まったりするの。セールを痛めすぎると破れることもあるから気をつけて。だから、ヨットを走らせている間は、なるべくシバーさせないようにシートで常に調節しなければならないの。わかった? 」 「はい、でも今のような場合はどうすればいいんですか?ジブシートを引くんですか?」 「ちょっと待ってね、艇はちょうど風上を向いているから走らないの。今のうちにラダー(舵)を取り付けるからね」  ヨットは、バウを沖に向けていた。風は沖から吹いてきていた。常に艇を風上に向けつつ冴子は、スターン(船尾)でラダーを取り付けていた。 「よし、準備完了!じゃあ行くよ。まず、センターボードを入れるのよ」 「はい!」 「お願いします!」  掛け声をかけヨットを思いっきり押してスタンから冴子が、ヨットに飛び乗った。と、同時にラダーを調節して海中に下した。 「千恵!センターボード!」  千恵のほうに振り向き、冴子が言った。 「はい!」  千恵は、センターケースのシートを思いっきり引っ張った。思ったより重かったが、船底からセンターボードが完全に海中に下りるのを感じた。 「センターボード、下りました」 「よし、じゃあ、ジブシートを引いて風をはらませて」 「はい!」  千恵は、ジブシートも思いっきり引っ張った。セールに風を受ける形になりヨットのバウは、風下に向いた。と同時に、風下側にヒール(傾斜)した。千恵は、センターケースにしがみつきジブシートを固く握りしめた。  冴子は、落ち着いて、右手にメインシート、左手にティラーエクステンションを持って、ゆっくりと風上側のデッキに座った。ヒールがもどりヨットが水平になった。 「オッケー、大丈夫、大丈夫。艇は出艇したよ。で、ジブシートは引きすぎているから緩めて風に合わせて」 「はい、え、でもセールを風に合わせるには、どの程度シートを緩めればいいんですか?」 「ああ、そっか、セールの合わせ方をまだ言ってなかったね。今から言うから覚えておいて」 「はい」  千恵は、いまだにセンターケースにしがみついていた。 「ジブセールのラフ(セールの前の部分)の所を見て」  冴子は、指さして言った。 「見て、ジブセールの上から3ヶ所細い毛糸がついてるでしょ」  冴子はセールの前部を指さした。そこには、セールの表と裏に20cmほどの毛糸が丸いシールでつけられていた。上の方から30㎝ほどあけて3ヶ所付けられるていた。風が当たってどの毛糸もひらひらと揺れていた。 「あれは、テルテールって言うの。可愛い名前よね。あれを見てセールの出し具合の調節をするの。ちょっとジブシートを緩めてみて」  千恵は、言われるままに、引き切ったシートを少しづつ緩めた。それと同時にテルテールの動きが、変わってきた。 「うん、いい感じもっと出してみて」 「はい」  さらにシートを出すとひらひらと揺らめいていたテルテールと呼ばれた毛糸がセールに沿って直線的になびいた。3ヶ所ともセールに沿って直線的になった。 「そこ!今の位置が今の状態でセールが適切に出ている所よ」 「はい」 「クローズホールドで、ジブセールを固定して走らせる以外は、テルテールを見てシートを出し入れしてセールを操作するの。主に外側のテルテールが真っすぐになるようにシートを出したり引いたりするの。ちょっと練習してみようか」  そういうと冴子は、艇を緩やかに風上にむけた。すると直線になびいていたジブセールのテルテールは、ひらひらと揺れだした。千恵は、ジブシートをじわりと引いた。すると、揺れていたテルテールが直線的になびいた。 「お冴さん、テルテールがきれいになびきました。こうですか?」 「そう、そうよ。じゃあまた、艇を動かすからね」  今度は、艇を風下に向けた。なびいていたテルテールが、再び揺れだした。千恵は、シートを緩めセールを出した。再びテルテールがなびいた。 「わかりました。風上に行くときはシートを引いてセールを引き込んで、風下に行くときは、シートを出してセールを出すんですね。そのちょうどいい位置を、テルテールを見て調節するんですね」 「そのとおり。さすが千恵、飲み込みが早いよ。このことをよく覚えておいて。ジブを合わせてっていったら今の要領で調節するのよ。これは、スタートの時やクローズホールド以外で走る時に重要だからね」 「はい」 「じゃあ、次は、クローズホールドでしばらく走るから、ヒールを調節する練習ね」  冴子は、クローズホールドになる前に千恵に行った。 「クローズホールドは、試乗会の時にも言ったけど風上に対してほぼ45度で走るの。真っすぐ走るけど風の強さは常に変わるから、それに合わせてキープフラット(艇を水平にする)つまりヒール(傾斜)を一定に保つようにハイクアウト(体を艇外に出す)して調節してね。今日は、少し風が強いからトラピーズをはる必要があるからね。いい練習になると思う。頑張ってヨットを起こしてね」 「あの、トラピーズをはるってどういうことですか?」 「トラピーズリングをハーネスのフックに引っかけてぶら下がって艇の外側に体を出して起こすことよ。やればわかるわ」 「はい」 「じゃあ行くよ、フックをリングにかけてハイクアウトの用意」  千恵は、トラピーズワイヤーのグリップを握り、トラピーズリングを取り下腹部のフックに掛けた。冴子は、メインシートを引き込みつつ艇を徐々に風上に向けた。ヨットがふわりと風下側にヒールした。 「千恵、ジブシートも風に合わせて引き込んで! 」  千恵は、あわてて、ジブシートを引いた。テルテールが、常に直線的になびくよう調節しながら引き込んだ。 「そうよ、千恵いい! その要領でジブを合わせるの。次はハイクアウト」  千恵は、右足をガンネル(サイドデッキの端)に掛け、上半身をサイドデッキの外側に出した。ヒールは、少し復原したがまだまだ傾いている。 「お冴さん、ヒールが起きません」 「あわてない、あわてない。左足もガンネルに掛けて両脚でしゃがむ形になって」 「は、はい」  千恵は、左足をコックピットからガンネルにかけようとしたがあせっていることもあり、デッキですべってなかなか足を掛けることが出来なかった。 「上半身をもっと反らして、思い切って海の上に出る感じで足を引っ張りこむの」  冴子が言った。千恵には、まだ海の上に体を出す感じに恐ろしさを感じたが、思い切って、冴子の言われた通りやってみた。すると何とか両足をガンネルに乗せることができた。それと同時に少しヒールが起きた。 「そう、そう、できたじゃない。次はフルハイクの練習よ。強い風が来るから両足を延ばして、身体を一直線にしてヒールを起こすの。 いい、もうすぐブローがくるよ」  千恵は、前を見た。ブローとは確か、風が強くなって海面の色が黒くなっている所だということを思い出した。確かに黒くなった海面が近づいてきた。 「ほら、来たよ!ヒールを起こす!」  急激に艇がヒールした。千恵は、思い切って両足を伸ばした。サイドデッキから体が真横に伸びた。  ヒールが起こされ、ガンネルにトラピーズワイヤーにぶら下がって真横に立ちあがているような体勢になった。  まだまだ、幾分風下側にヒールしていた。小柄な千恵にはこれが限界だった。 「起きろ!起きろ!」  千恵は、思いっきり体を海面側に振った。振り向くと冴子もフットベルトに足を掛け尻をサイドデッキの外に出しハイクアウトしていた。 「いいぞ、頑張れ!起こすぞー」  さらに強いブローが来て、一旦起きかかっていた艇が、また、大きくヒールした。 「う~~」  千恵は、必死で起こそうと両手まで頭の上に伸ばしている。 「もうこれ以上は、起こすのがきついみたいね。そういう時は、一瞬少しだけメインセールを緩めて風を逃がしてやるの」  といいつつ、冴子はメインシートを緩めた。が、シートがラチェットから出てゆかず、メインセールが引き込まれたままだった。 「あれ?なんで?シートが出ていかないの?」  もはや必死で、艇を起こそうとしていた千恵が、ラチェットの部分を指さして言った。 「お冴さん!ラチェットのシートのクリートが外れてません!」 「ああ、ホントだ。クリートを外すのを忘れてた」  一旦シートを引き気味にして、少し上に持ち上げればクリートはすぐに外れるのだが、冴子は、ただシートを緩めただけだったのでクリートがシートを噛んだまま外れていなかったのだ。  気が付いたのはいいが、遅かった。急な強いブローに艇は、ほぼ90度真横に倒れてしまった。千恵は、ガンネル上に立ち上がったようになり、バランスを崩してリングが外れ前方に落ちてしまった。 「わあ~!」  千恵は、海水につかったメインセール上でもがいた。冴子は、素早く船底に出ているセンターボードの上に乗っていた。千恵の無事を確かめ叫んだ。 「千恵!大丈夫!そこからゆっくりと伝って、バウの方に向かって!常に何かをつかんでいて」 「はい、こっちは、大丈夫です」  千恵は、セールの上を這いながらジブセールを掴み、バウまで移動した。時々波が顔にかかる。泳げない千恵だったが、不思議と怖さはなかった。冴子が何とかしてくれると信じていた。千恵がバウにたどり着いたのを確認してから、センターボード上の冴子は、メインシートを引いて、体重を後ろにかけて艇を起こしにかかった。  ゆっくりとメインセールが海面から浮き上がり艇も徐々に起き上がってきた。(へえー、こうやってチンを起こすんだ)バウにつかまっていた千恵は興味深く様子を見守った。 「いま、起きるからね。しっかり持っていてね」 「はい!」  千恵は、ジブセールのラフの部分をしっかりとつかんでいた。千恵が、バウにいることで艇が風上に向いた状態になるのだ。冴子が、メインセールを最後にひと引きした時、ヨットが水しぶきを滴らせながら復原した。と同時に、冴子はサイドデッキから滑り込むようにコックピット内に戻った。素早くティラーエクステンション持ち、メインセールを噛んでいたクリートを外しシートを緩めた。 「ふう。千恵、風上側からガンネルを伝ってこちらまで来て」  千恵は、言われた通り風上側から冴子のいるところまで伝って行った  冴子は、千恵のライフジャケット裾をもって、コックピット内に引き上げた。濡れた猫のように海水を滴らせながら千恵が、コックピット内に転がり込んだ。 「千恵を引き上げたの2回目ね。ごめんね。クリートを外せなかったのは私のミス。また、濡れネズミにしちゃったけどごめんね」 「大丈夫です。チンを経験出来て良かったです。ヨットって倒れても起き上がれるんですね。すごいです」 「あ、うん、今のチンは、船が90度倒れた半チンっていうの、180度ひっくり返って転覆してしまったら全チンっていうのよ。もちろん全チンも起こすことが出来るけど、半チンでおさえられたのはよかったわ。すぐにおこすことができたし」 「はい、でも、ヒールした時、私では、起こすことができませんでした。すみません。もっと私が大きければ……小さい私にはあれが精一杯でした」」 「いや、千恵は、よく頑張ったよ。確かに今日のように強風の日は体重が重いほうが有利になるけどね。でも、それなりの起こし方や、走らせ方はあるの。私も気をつける」 「ところで、お冴さん、コックピット内に海水がたまって水たまりが出来てます。どうすればいいんですか?」 「ああ、この水の事ね。ヨット内には常に海水が入ってきたり、たまったりするのが前提として考えてられるの。だから、当然この海水を出す排水装置もちゃんとあるのよ」 「ええ?ポンプかなんかあるんですか?」 「そうね。ポンプじゃないけど、スピンバッグの中をちょっと見てみて」  千恵は、マスト横に取り付けられているスピンバッグを覗き込んだ。左側のバッグにはスピンネーカーが入っていた右側のバッグに20㎝角のスポンジが入っていた。 「このスポンジの事ですか?」 「そう、それで、少々の海水は、吸い取ってくみだすの。ヨットでは、コックピットの余計な海水の事をアカっていうの。でそのスポンジは、アカくみっていうのよ」 「はあ、でも、このスポンジでたくさんのアカを組みだすのは大変ですよ」 「そう、こんな浴槽みたいなコックピットのアカくみは大変よね。なので、ここを見て」 冴子はコックピットの真ん中あたりの船底にあるレバーのついたコックを指さした。 「これは、セルフベーラー、単にベーラーとも言うわね。ここを開けると」  冴子は、レバーを引き上げて押し込んだ。するとちょうどその部分に穴が開いたようになった。海水が逆流してコックピット内に入ってきた。 「お冴さん、水が入ってきています」 「うん、艇が止まっていたらね。どんどん入ってくるでも、ある程度の速さで走らせればここからアカが出ていくの。とにかく、走らせるね。千恵、準備して」 「はい」  千恵は、ジブシートを調節しなおし、フックにリングを引っかけた。 「じゃあ、走るよ」  冴子は、メインシートを引き込みクローズホールドで走り始めた。コックピットに水をためた艇は、滑り出すようには走り出さなかったが、じわじわとスピードを上げて行った。冴子は今度は、時々メインセールの風を逃がすことを忘れなかったので、急激なヒールをせずに走ることが出来た。千恵は、フルハイクでヒールを起こしたり屈伸をしたりしてヒールフラットを意識した。そのうち、艇は、スピードを増しだした。  千恵が、コックピット内を見ると、アカがほとんどなくなっていた。セルフベーラーからは、水を吸い込むズズズという音が聞こえてきた。 「ね、ここからアカが出ていく仕組みになっているの」 「なるほど。艇が走り出すと船底の水圧が低くなってその穴から水が吸い込まれていく仕組みですね」 「そ、そうね。さすが千恵。そういう原理はよくわかるのね。アカが大体抜けたからコックを閉めておくわね。今度はこれを忘れると艇速が落ちた時に、ぎゃくにこの穴からどっとアカが入ってくるからね。千恵も覚えておいて」 「はい」 「どう、バランスのとり方は慣れてきた?」 「はあ、始めはトラピーズにぶら下がるのが少し怖かったですけど大分慣れました。でも、濡れたんで体が重く感じます」 「そうね。なるべく水を吸わない化繊の服を着た方がいいわね。今は何を着ているの? 」 「綿製品です」 「そりゃあ、ヨットじゃきついよ。渇きの早い下着やウインドブレーカーなんかにしたほうがいいよ。それから、ウエットスーツはやっぱり持っていた方がいいよ。寒さはどんどん体力を奪うからね」 「わかりました」 「ようし、じゃあそろそろタックの練習をしてみようか。今は、クローズホールドで、左舷の方にセールがあるわね。つまり右舷側が、風上側になって走っているんだけど、この状態をスターボードタックっていうの、ちなみに逆に右舷側が、風上のときは、ポートタックっていうの。で、いまからタックをして風上に対してジグザグに進むことになるからタックをした後は、ポートタックになるの」 「じゃあ、クローズで風上に向かうときは、スターボードタック、ポートタックを繰り返していくわけですね。わかりました」 「じゃあ、『タックするよ』って声を掛けたら、まずジブシートをシートを挟み込んでいるカムクリートからはずして。さっき私が失敗したようなことが無いように確実にね」 「はい、まずジブシートのクリートをはずす」  千恵は、左手にトラピーズのグリップを持って体を支え、右手にジブシートを持っていた。 「その次に、『タック! 』っていうから、バウが風上に向かうにしたがって、コックピットの中に滑り込むと同時にトラピーズリングのフックを外してね」 「え? 中に入りながらリングを外すんですか」 「そう……いや、まず先に確実にフックを外してからコックピットに入るようにしよう」 「すごく素早くやるんですよね」 「ああ、初めての練習だから、ゆっくりやるから確実にやってみて。あわてないで」 「はい、やってみます」 「で、コックピットの中に入ったら艇はフラットの状態だからブームをくぐって反対側のジブシートを握ってポートサイトのデッキに座ってジブシートをクリートする。   風が強いから今度は素早くグリップを持ってリングにフックを掛ける。そして、トラピーズワイヤーのグリップを持ってヒールに合わせてハイクアウトする。  ハイクアウトしたところでジブシートを調節するの。後から少し引き込む感じね。だから、始めからジブシートは引きすぎないようにね」 「え……は、はい。なんかいっぱい言われて…。」 正直、千恵は何が何やらよくわからなかった。 「まあ、やってみよう!ゆっくりやるから、じゃあいくよ」  冴子がティラーを押そうとした時だった。 「お冴さん!ちょ、ちょっと待ってください! ……いえ、何でもありません。タックの順番を頭の中で確認していたんです」 「千恵、これは、練習だからね。いくら頭の中で考えても、やってみなきゃ。体で覚えてね。考えるな、感じろよ」 「は、はい。じゃあお願いします」 「うん、じゃあいっくよ。『タック用意! 』」 「お! お冴さん! 待ってください! 掛け声は『タックするよ』じゃなかったですか? 」  あわてて、またもや叫んだ。 「そうだったけ。『タックするよ』も『タック用意』もすることは同じよ。どっちでもいいじゃない」 「いや、決めてください。何をしていいのかわからなくなって混乱してしまいます」  どちらかというと冷静な千恵だが、明らかに動転していた。 「わかった。わかりました。じゃあ『タック用意! 』にする。うん、これに決定」 「わかりました。『タック用意! 』でジブシートのクリートを外すんですよね」 「そうよ。じゃあいくよ」 「あの、あの!すみません!ちょっと待ってください」 「今度は何よ? 」 「ジブシートを外して『タック! 』で船首が旋回し始めたら、リングを外してコックピット内に入ってきて、ブームをくぐりながら、逆のジブシートを引いて、反対側のガンネルに移ってジブシートをクリートして、グリップを持ってリングを付けて直ちにハイクアウトするんですよね。」 「そうよ。ただ、風の強さが変わっている場合もあるからハイクアウトは、ヒールに合わせてね。風が落ちて弱くなっていたら逆ヒールする恐れがあるからね。」 「わかりました。逆ヒールしたら、艇速が落ちてしまうんですよね」 「そう、気をつけてね」  しつこく質問してくる千恵に対して、冴子はイラつくことなく丁寧に答えた。そんな冴子に、千恵は、さらに、質問をした。 「あの、タックして反対側に移る時間ってどのくらいですか? 」 「え? 時間? 図ったことないからわかんないけど感覚的には、『タック用意』、はい、『タック』って感じで1、2秒くらいかな? 」 「い、1、2秒ぐらいですか?」 「う~んわかんない。そのなもの測ったことないから。もっとゆっくりかな? 風の強さによっても船の回る速さが変わるからね。当然風が強いほど早いタックが必要とされるし」 「で、2秒ぐらいって、どのくらいの強さの風の時ですか? 」 「う~んちょっと強い風かな」 (わ、すごい感覚的な答え)理科系女子の千恵には風速とか風力とかで答えてほしかったのだが。千恵のプチパニックにはお構いなく、冴子は言った。 「まあ、いいや、やってみよう! 今ぐらいの風よ」  千恵は、深呼吸をして覚悟を決めた。そうだ、考えてたっても始まらない。まずやってみること。これも理科系女子千恵の信念だった。 「じゃあ、『タック用意! 』」  冴子の声で、千恵は左手のジブシートを引き上げクリートをポンと外した。 「そのジブシートを緩めちゃだめよ。ラフするからね。コックピットに入ってきてよ。じゃあ、『タック! 』」  艇が風上に向かうにしたがって、千恵が、サイドデッキに座る形になってもヒールはフラットだった。千恵は、グリップを少し引いて下腹部を浮かしてトラピーズリングからフックを外した。この時点で艇は、風上を通り越し逆側にベア(風下に艇を向ける)始めていた。さらに右手で風下側になるジブシートを握り逆のデッキに移ろうとした時だった。  すでにブームが眼前に迫っていた。 「ひゃ! 」  反射的に、千恵は、頭を下げた。ブンとブームが頭上をかすめた。幸い当たることなく風上側に行くことが出来た。 「ジブシートをクリートする! 」  冴子の声を聴いて、千恵はシートをクリートした。艇は、回りきっており風下側に大きくヒールし始めていた。千恵は、風上側のトラピーズのグリップに飛びつき握り締めるとリングを引き付けフックにかけた。そして、ガンネルに両足を掛けてハイクアウトした。 「千恵、そこでジブセールのテルテールを見て」  冴子にそう言われて、千恵はテルテールを見た。ひらひらとはためいている。風がきれいに流れていないからだ。千恵は、ジブシートを少し引き込んだ。すると、はためいたテルテールが一直線になびいた。 「オッケー!タック成功だよ。よくやったね千恵」 「はあ、はあ、ありがとうございます」  千恵は、緊張で息が切れていた。 「お、お冴先輩、でも、思ったより船の回りが早くなかったですか?」 「そお?私としては結構遅くタックしたつもりだけどなあ。本当はもっと早いよ」 「え、今のより早く動くんですか?」 「うん。まあ、今は、初心者の練習だからゆっくり目でやるから」 「ゆっくり目? 」 (十分早いと思いますが)千恵は言葉を飲み込んだ。 「今、タックしたんで、今は、ポートタックになって走っているのよ。つまり、左側が風上側になったってわけね。だから、千恵も左舷のトラピーズにぶら下がっている。」 「はい」 「ってことで、もう一回タックするよ。練習、練習」  千恵は、ヨットを水平に保つ、フラットを心掛け、両膝を屈伸しながらヒールを調節しながら、シートが絡まっていないか確認した。いつでもタックできるように身の回りを整頓した。 「いいね!常に周りに気を配って、シートが変にからまったり、ひっかっかたりしないように気をつけて整理しておく。じゃあ『タック用意! 』」  冴子の声で、千恵は、ジブシートのクリートを外した。 「オッケーです! 」 「よし、『タック! 』」  冴子がティラーエクステンションを押した。艇が、右舷側に動く。千恵は、グリップを引き付けてフックをリングから外しコックピットに飛び込んだ。  下半身からスルリと体を滑り込ませるのがスムーズなやり方だが、千恵は、サイドデッキから子猿のように飛び込むようにブームをくぐった。と、同時にポート側のジブシートを掴み引き込んだ。ジブセールが、スターボード側からポート側にシートに引っ張られて移った。  千恵は、シートをクリートして、さらに新しい風上側になるトラピーズのグリップを掴んで右足をガンネルにかけた。ちょうど、片足をガンネルにかけ片足をサイドデッキ上に伸ばし上半身をハイクアウトしてヒールを起こす感じであった。 「いいよ! 千恵! 移動の仕方は、何か変だったけど、そのあとのヒールの起こす体勢が、今の風にちょうどいい形になって」 「え? どういうことですか? 」 「あれ、自分で考えてやったんじゃなかったの?さっきより風が落ちたから、余り身体を出しすぎると逆ヒールになるところだったからよ」 「はあ、何となく風が弱くなったのは感じました。あまり、起こしすぎちゃいけないなって感じたんです」 「そう、それだよ、感じること。あとは、体の動かし方をスムーズにしたり、周りの状況がより見えるようになることだね」 「はい、あの……」 「ん? なあに? 」 「あ、いやいいです」 「えー、言いかけたんでしょ。言ってよ。お互いに気になったことはどんどん言い合って楽しいセーリングにしましょう」 「……じゃあ、あの、お冴さんの『タック! 』の掛け声の後のティラーの動きが、早かったです。つまり、艇が回るのが早いんです。出来たらもっとゆっくりしてほしいですけど」 「ああ!ごめんごめん練習だもんね。つい、私のペースで艇を動かしちゃったわ。始めはゆっくり確実にしないとね。早くするのはその後よね。千恵いいよ。そういうことはどんどん行ってね。」 「すみません。生意気なことを言って」 「何言ってんの。生意気じゃないわ。クルーとスキッパーは常に話し合ってヨットをベストの状態で走らせるものなの。石原先輩はいつもそれを心掛けていたわ」 「石原先輩ってほんとにすごい人だったんですね」 「ええ、色々なことを教えてもらったわ。でも、今給黎は……」 「今給黎さん? 」 「は! 私また今給黎の悪口を言おうとしたよね。ごめんね。こんな話聞きたくないよね。ただ、今給黎は、クルーのことをただの自分の手足としか考えていなかったわ。クルーがかわいそうだった」 「でも、優勝したんですよね。やっぱり息が合っていたんじゃないですか? 」 「うん、島津晶とはね。というか逆に晶は、今給黎に忠誠を尽くしていたようだったわね」 「はあ」 「まあ、そのうち今給黎とも対決しなりゃならないし。今は、私たちの練習よ。頑張ろう! 」 「はい! 」 「お、元気が出てきた?じゃあ、もう一回タック練習するよ」 「はい」  とは答えた千恵だったが、体力的には大分消耗していた。特にグリップを握って体を支えていた手の握力が落ちてきていた。しかし、ヨット部内では決して疲れたと言わないと決めていたので、声だけは元気に答えた。 「じゃあ、タック用意!」  千恵は、シートを確認した。 「オッケーです! 」 「タック! 」  ヨットがスターボードタックからポートタックに変わった。  冴子の掛け声は、のんびりとした口調だったが、千恵は、ドタバタとコックピットに滑り込んできた。センターボードケースでお尻を打ち付けたが、ジブシートは引っ張り、ジブセールの移動を完了させた。そして、リングを取ってハイクアウトするはずが……  トラピーズのグリップを持つ手が滑り千恵は、落水してしまった。小柄な千恵は、ザブンではなく、ポチャンという感じだった。 「千恵! 」  冴子はヨットを止めようとメインシートをゆるめようとしたが、ふと見るとジブシートが水中に突っ張ている。千恵はしっかりとジブシートを握っているのだ。  そのまま水中を引きずられている。さっき冴子が言った「ジブシートは、決して離さないこと」をしっかりと守っているのだ。  ヨットは、落水した千恵を水中で引きずりながら、走り続けた。    冴子もデッキから、千恵へと続いているピンと伸び切ったジブシートを片手で引っ張り上げた。 「ぷはっ! 」  千恵が水中から顔を上げた。冴子は少し艇速をゆるめると、千恵のライフジャケットをつかんで艇に引き上げた。ドサッという感じで大物の魚が釣れて船に引き上げられたように千恵が転がり込んできた。 「ごほっ、ごほっ…ハアハア、す、すみません」  千恵は、コックピットでうなだれて苦しそうに言った。 「いやあ、よくやったよ。えらいぞ千恵ちゃん。よくジブシートを離さなかったね。落水をしてジブを離さなかったのは、女子部員じゃあたしとあなただけよ」 「ハアハアハア…すみません……シートは絶体離すなと言われてたので」 「そう、そう、千恵は素直だねえ。きっといいヨット乗りになるよ。私が保証する。でもまあ、こんな感じで落水もしながら、練習していけばうまくなるって!ガンバロウ!」  とはげましつつも、心の中では、これに懲りてヨット部をやめるなどと言わ出さないようにと祈る冴子だった。幸い千恵は、その後も懲りるどころか、性懲りもなくバタバタクルーを繰り返していった。  一方、奮闘する彼女らの様子を本部船から眺めていた有園が言った。 「おーやっとるやっとる。チン5回目ーー。おお、起こすのも早くなってきたじゃん」 「そんなに、チンてするものなのですか? 」  翔子が、聞いた。 「そーねー、今日ぐらいの風だったら、超初心者ならね。冴子は、スキッパーへたくそだしね。もちろん私は、しないわよ」 「初心者の私と乗ってもですか? 」 「もちろん。私のモットーはセーフティーセーリングだからね。安全第一よ。翔子は、運動神経よさそうだから私と組もうよ」 「ありがとうございます。その時にはよろしくお願いします」  当たり障りのない答え方をした翔子だった。それよりもチンを繰り返す千恵が心配でならなかった。千恵の体力が持つかどうか……。じっと、冴子と千恵の乗っているヨットを見つめていた。  南條艇では、新しい練習に入っていた。 「タック練習は、今日はこのぐらいにしましょう。そろそろありぞんと交代しなきゃいけないから、本部船に向かうね。で、こんどは、スピンを張ってジャイブ練習をしながら本部船までいくよ」  冴子が、本部船を指さして言った。艇は、本部船からはかなり風上に来ていた。 「はい!」  十分体力がついていない千恵は、幾分疲れていたが自分を鼓舞するためにも元気よく返事をした。しかしながら、冴子がいったジャイブ練習とは何かわからなかった。 「お冴さん、ジャイブとはなんですか?」 「ジャイブは、ジャイビングといって、試乗会でもやったけど……そーねえ、風下に向かって進むときのタックみたいなものかな」 「ああ、風下にジグザグに行くんですね」 「そう、タックみたいに風上に90度ジグザグじゃないけど。まあやってみればわかると思う。こんども私の言う通りやってみてね」 「あの、ジャイブでもチンをすることがあるんでしょうか? 」 「あるよ。原因はいろいろだけど。するときはするよ。まあ、そう心配しないで、これも練習練習」  千恵は、チンを恐れて冴子に聞いたのではなかった。 「タックとおなじで、どんな時にどんなチンの仕方をするのか知りたいんです」  探求心の塊のような理科系女子千恵の言葉だった。 「うん、何事にも恐れず挑戦していこうって言う心掛けはいいわ。でも、私もわざとチンをしているわけではないかね。そこんところ忘れないでね」 「はい。じゃあ、ジャイブ練習お願いします」 「よし、じゃあまず艇を、風下に向けてスピンを展開するからね。まず艇を風下向けることをベアするっていうの。ベアするといまのヒール状態からヒールが風上側に傾くからすぐにコックピットにもどってね」 「はい、そのとき、ベアに合わせてジブシートを緩めてジブセールのテルテールが、直線になびくようにするんですよね」  千恵が、いままでの練習で得た知識を総合して答えた。 「そうよ、よくわかったね。じゃあここでも掛け声をきめておくね。『ベアするよ』で、ジブシートのクリートを外して、ハイクアウトしていたら下半身から滑らせてコックピットに入る用意ね」 「はい、『ベアするよ』でベアで風下に向ける準備ですね」 「そう。で、『ベア!』でわたしが、ティラーを引いて艇を風下に向けるからジブセールをシートで調節しながらコックピット戻ってきてね。もちろんヒールに注意してね。そしてなるべくフラットにね」 「はい」  イメージ的には、大分分かってきたが、思った通り体が動くだろうか?千恵は、ジブシートを持ちなおした。 「じゃあまずベアからね。ベアするよ」 「お冴先輩、いまの合図ですか?」 「そうよ」  千恵は、手元のジブシートを少し引きつつ上にあげることでカムクリートで固定されていたシートをポンと外した。 「じゃあ、『ベア』」  そう言いつつ冴子は左手に持っていたティラーを引いた。と同時にメインシートを緩めてメインセールも風下側に緩めた。艇が、風下を向きはじめると、ヒールが逆ヒール気味に風上側に傾きかけた。千恵は、トラピーズリングからフックを外して艇内に体を移した。ジブシートも緩めてジブセールを風に合わせて調節した。 「今走っている状態がアビームって言うの。風を真横から受けている状態ね。比較的安定してはしれるの。ただ、ジブセールとメインセールは、常に調節が必要ね。」 「はい、やってみています」 「うん、その調子でいいよ。こまめにシートを出したり引いたりしてね。さて、つぎは、艇をさらに風下に向けてスピンを張るわよ」 「はい」 「じゃあ、ベアするよ」  千恵は、逆ヒールしないよう下半身をコックピット側に滑り込ませた。 「ベア! 」  冴子は、ティラーをさらに引着こむと同時にメインシートを緩めた。艇のバウは、ほぼ風下を向いた。  風を真後ろから受けて帆掛け船のような状態だ。冴子は、風上側のサイドデッキから立ち上がった。  千恵は、センターケースに座ってジブシートの調節をしていた。艇は、不安定にローリングして、クローズホールドとは全く足から伝わってくる感触が違うものだった。千恵には、ふわふわと感じた。 「さて、千恵! 次はまずジブーシートを今調節している所でクリートして」 「はい」  千恵は、ジブシートをクリートした。 「クリートしました」 「オッケー、じゃあシートはそのまま離して、風下側のサイドステーの近くにスピンを上げるスピンハリヤードのトップ(スピンの一番上の部分)を止めてあるクラムクリートがあるの」  マストの上方から細めのロープがクラムクリートと呼ばれる留め具に掛けられていた。ロープの先には確かにスピンバッグのスピンにつながっていた。千恵は、スピンハリヤードのクリートを外した。 「はずしました! 」 「よし! つぎはその近くにツイーカーっていうものがあるんだけど、ブロックに細いシートがついているものよ。そのシートもクリートを外して」  確かに、スピンシートを通したブロックについたシートがあった。そのクリートもはずした。 「はずしました!」  千恵は、冴子の方に振り向いた。冴子はティラーを股に挟んで操船していた。 「じゃあ、つぎは、足元のスピンポールを持って立ち上がって」 「スピンポール? 」 「そうセンターケースの横にあるアルミの棒の事」  千恵は、艇の揺れにふらつきながらも160㎝位のスピンポールを見つけた。ポールには両端にフックがあり、シートでつながっていた。  真ん中には、アイと呼ばれるU字型の金具が取り付けられていた。千恵は、スピンポールを持ち立ち上がった。 「ポールをだしました」 「よし、じゃあマストの所まで行って、ポールの先のパロットピークっていうフックに風上側のスピンシートを引っかけて」  千恵は、中腰になりながらサイドステーより前にあるスピンシートを取り、ポールの先のフックにかけようとした。フックは、スピンシートがとれないように留め具がついておりポールの細いシートを引いて留め具を開いてシートをフックに掛けた。 「パロットピークに掛けました」 「よし、つぎ! ポールの中間にアイがあるでしょ?それをマストにロープのついたS字のフックがあるからそこに掛けて」  千恵は、ちょうど握っているマストの目の高さにフックがあるのを見つけた。ポールのアイをフックに引っかけた。 「掛けました」 「じゃあ、次は、そのポールをサイドステーとフォアステーの間当たりの風上側に突き出して反対側のパロットピークをマストのアイに引っかける!」 「はああ? 」  千恵には、何が何だか分からなくなってきた。 「ポールを前に突き出す! 」  冴子が、励ますように言った。千恵はポールを持って前に突き出そうとしたが意外と抵抗があった。 「思い切って両手で突き出して、素早くマストのアイにパロットピークをかけるの」 「はい、えい! 」  半ば体重を掛けながら千恵は、ポールを押し出した。何とか前方に突き出すことが出来た。さらに、手元のマストにあるアイを探した。幸いアイは手元にあり、パロットピークを掛けることができた。 「できました」 「よっしゃ! スピン上げるよ! 」  冴子は、足元のスピンハリヤードを一気に引き上げた。スピンがマストの上部まで一瞬で上がった。と同時に風に吹かれはためいた。 「千恵、今度は風上側のツイーカーを引いてクリートしてスピンシートもその近くあるクラムクリートに掛けて」 「はい」  千恵は、あたふたとしながらも言われた通り一つ一つシートを掛けて行った。はためいていたスピンがボンと風をはらんで、丸い形を作った。艇が一段と揺れ急にスピードが出た。千恵は、マストを掴んでいた。 「これで、スピンが上がったことになるの。千恵は、これを受け取って」  冴子は、持っていた風下側のスピンシートを千恵に持たせた。重く引かれるスピンシートに千恵は驚いた。しっかり持っていないとズルズルと引っ張られてしまいそうだった。 「じゃあ、千恵は、風上側のサイドデッキに座ってスピンシートを持ってトリム(調節)してね。私は、風下側にすわるからね。慌てずゆっくり座ってね。  今は、ランニングっていう後ろから風を受けている状態なの。結構揺れるし、不安定な所もあるからしっかりスピンを調節してね。スピンは、形がきれいに風をはらむようにして、風が変に流れるとスピンの縁が、ひらひらとはためいたりするから、スピンシートを引いたり出したりして調節してね。  なるべく、スピンを出して、上の方にはらむようするといいから。引きすぎると逆に風の流れが悪くなって艇速が落ちるから気をつけてね」 「はい」  千恵は、スピンを見ながら言った。ふと、一瞬センターケースを見ると、センターボードが2/3ほど引き上げられていた。 「お冴先輩、センターボードが、すこしあがってますが? 」 「ああ、これ、これはね、いまは、クローズホールドじゃないから、センターボードがかえって抵抗になるの。だから、上げとくの。全部上げたらかえって不安手になったり、チンしたときに起こしにくくなるから2/3ほどあげているの」 「わかりました」 「どう! スピンのトリムは? 」  冴子は、言った。 「スピンシートに風の重さが直接伝わってきます。何か馬を引いている御者になったみたいです」  千恵は答えた。もちろん御者などやったことはないが、 「そう、差し詰め風がお馬さんね。たまにじゃじゃ馬もいるから気をつけてね」 「はい」  そう答えて、千恵は、サイドデッキに座りなおした。ひたすらスピンを見ている。ふと、千恵は陽のあたたさを感じた。と同時に風が吹いていないことを感じた。(え?何で?無風状態)よく考えると、今は風を真後ろから受けている状態で、いわば風と同じスピードで走っているような状態だった。クローズホールドでは、風上に向かうのでまともに風や水しぶきをうけたが、ランニングでは、風に乗った感じだった。千恵は、(これがほんとの「風になる」ね)と思った。 「さて」  冴子が、言った。ひと時の日向ぼっこの状態を味わっていた千恵は、ドキッとした。(次は何?) 「今度は、タックの逆をするわね。つまり、風下に向かってジグザグに進むの。風上ならタック。風下はジャイブっていうの」 「ジャイブですか……」 「そう、ジャイビングともいうわね。まあどうでもいいか。タックと違うのは、スピンがあることね。スピンを潰さないようにはらませたまま行うのがうまいジャイブよ」 「はいがんばります」 「まあ、スピンを潰さないようにはらませておくのはスキッパーの仕事だけどね。とにかく2人でがんばりましょう」 「はい」 「じゃあ、やり方を言うわね。まず、『ジャイブ用意』って言うから、ツイーカーを外してね。そしてスピンを潰さないようにしながら心の準備ね。その間に私は、ジブを反対側に移動さて、風下側のスピンシートをとめておくからね」 「はい、『ジャイブ用意』ですね。まず、ツイーカーを外す」 「そうそう、で、私がゆっくりと艇をさらに風下側に向けるから、その間スピンを潰さないようにスピントリムをしながら、スピンを移動させてね。で、ここ注意よ! 『ジャイブ! 』って言ったら、メインセールを移動させるから、ブームをくぐってね。ここでもたつくとブームで頭打つよ。で、反対側のタックに移動してスピンポールを持ってパロットピークのスピンシートとマストのアイをシートを捻って同時にはずす。で、アイについていたパロットピークに風上側のスピンシートをつけて、逆のパロットピークをアイにつける。スピンポールを右から左にひっくり返して移動みたいな感じね」 「はああ? 。また、よくわかりません」 「まあ、いいや、とにかくやってみよ。いくよ、ジャイブ用意」 「はい、まずツイーカーをはずす! 」  千恵は手を前に伸ばしてツイーカーのカムクリートを外した。その間スピンを潰さぬよう気をつけた。 「心の準備! 」  千恵が言うと、 「そうそう、いくよ!」  冴子が言った。そして、ゆっくりとティラーを押した。千恵には何となく艇が方向を変えているのが感じられた。 「ジャイブ! 」  冴子がブームを移動させた。千恵は、ブームを頭を下げてよけた。思っていたより遅く感じた。艇は、少し大きめにヒールした。ふらふらとしながらも千恵は立ち上がり、スピンポールに飛びついた。 「スピンシートとアイをはずす! 」  冴子が言った。が、両方を同時に外すのは千恵には、要領が得られなかった。パロットピークのフックを外すシートをひねっているのだが、隙間が十分に開かずなかなか外れなかった。 「あせらない、あせらない。片方ずつはずしていいから」  冴子のその言葉を聞いて、千恵は、まずスピンシートをはずした。そのあとマストのアイをはずした。 「オッケー、いいよ。つぎは、風上側のスピンシートとマストのアイにパロットピークを取り付ける」  千恵は、ガチャガチャともたつきながらも取り付けることが出来た。 「できました」 「うん、できたね。じゃあ、さっきと同じように風下側のスピンシートを渡すから、スピントリムをして」  と言って、冴子は、新しい風下側のサイドデッキに座った。千恵は、冴子が座るタイミングに合わせて風上側のサイドデッキに座った。この後3回ほどジャイブをして有園と翔子の待つ本部船に到着した。  冴子は、ゆっくりと本部船に横付けした。 「お帰り~。チンしてたね」  有園が、サイドステーを掴みつつ冷やかしていった。 「練習、練習。何事も練習よ」  冴子が歯を出して笑って答えた。 「千恵、どうしたの、早く降りなよ。交代だよ」  ボーとしていた千恵に、有園が声を掛けた。 「は、はい」  千恵は、FJのサイドデッキを這って本部船に滑り込んだ。さすがの海好き千恵も、緊張と体力消耗で、本部船のデッキに座り込んでしまった。 「チイちゃん、お疲れ様。お茶を用意しているのでそれを飲んでくださいね」  翔子が、ヤカンの麦茶とプラスチックの茶碗を指さした。 「どうだった? 楽しかった? 」  千恵のへとへとの姿を見て翔子は、聞いた。意外と毒舌な所がある。そんな翔子に有園が言った。 「翔子、ハーネスの準備はいいね」 「はい」 「じゃあ、いくよ」  有園と入れ替わって本部船からサイドステーを持っていた冴子が翔子に 「いい風よ。楽しんできて」  と言った。有園は、艇に乗り込んでいた。翔子は、FJのコックピットに滑り込むように乗った。 「お願いします!」  翔子は、ピシッと言った。そして、センターケースに座ってジブシートを持ってスタンバイした。 「お、翔子やるじゃん。いつ覚えたの?」 「この前、試乗会の時、お冴さんのクルーワークを観察させていただきました。それと……」 「それと?」 「ヨットの本を読んで少し勉強させていただきました」  ぼんやりとそのやり取りを聞いていた千恵は思った。(さすが、ショウちゃんやっぱり私とは違うわ) 「まあ、見るのと実際やるのとでは全然違うからね。お手並み拝見ね」  有園は、コックピットに立って、翔子を見下ろしていった。 「じゃあ、がんばって、いってらっしゃい!」  冴子は、サイドステーを風下に向かって押して言った。FJが本部船からゆっくりと離れた。 「じゃあ、翔子。ジブイン」  有園のジブインと言う言葉を聞いて、千恵は顔を上げて艇を見た。翔子が風下側のジブシートを引き込んで、シバーしていたジブセールに風をはらませた。有園はそれを見て風上側のサイドデッキに腰を下ろした。  千恵は、冴子の方を見て言った。 「お冴さん、ジブインって何ですか?」 「あれ、言ってなかったっけ。ジブインと言うのは、ヨットが、走れるようにジブシートを引いてという意味よ。その時に、セールのテルテールがきれいに直線になるように調節して引くの」 「はあ、ショウちゃんは、ジブインって知ってたのね」 「そういうことね」    幾分本部船から離れたFJ内では、有園がメインシートを引き込んでいる所だった。ラチェットのカリカリッという音が聞こえた。  メインセールが風をはらむと、ヨットがふわっとヒールした。翔子は、風上側のサイドデッキに移動しトラピーズリングにフックを掛け、ガンネルに足を掛けて、ヒールを起こしにかかった。 「ほう、翔子やるじゃん」  その様子を見ていた冴子が言った。まさにその通りだった。(ショウちゃんやるじゃん。というかうますぎだよ)千恵は思った。  やがて、有園がメインシートを全部引き込みさらにヒールが増すと翔子は、ガンネルの足を延ばしてフルハイクをした。艇は、スピードに乗り快走した。 「おお、ありぞんいい走りしてるじゃん」 「そうですね。何かスムーズに走ってますね。ショウちゃんも自然に乗っている感じ。あ、タックする」  有園、翔子艇は、タックした。それは、今日初めて練習したようには見えなかった。それほどクルーとスキッパーが息の合ったタッキングだった。 「う、上手い」  思わず千恵は呟いた。    昔から運動は、万能の翔子だったが、初めてのヨットのタックでこれほどスムーズに体が動くとは。いや、ショウちゃんは、ヨットをやったことがあるに違いない。千恵はそう思った。 「翔子のクルーの動きはいいわね。でも、ありぞんも彼女の動きやすいようにタック時の艇の速さや、ヒール調整をしている。中々やるわね」 (そうだ、お冴先輩は、タック時の艇の回し方がもっと早かった。メインセールの引き込み方も早く、すぐにヒールしてた。あきらかに有園先輩は、ショウちゃんの動きを見てあわせるようにセーリングをしている)そんなことを千恵が考えている時だった。 「南薩は、3人も新入生が、入ったんやね」  本部船の操縦室から、中年の男が出てきながら言った。冴子は、その男を見てすぐに挨拶した。 「こんにちは、お疲れ様です。そうです。1年生は、男子1人女子2人が今入部しています。この子はその一人で柴田千恵と言います」  冴子が千恵の背中をずいと押して男に紹介した。 「柴田さんかい。よろしくおいは、西鹿児島実業(にしかごしまじつぎょう)の顧問の大久保(おおくぼ)いいます」 「柴田千恵です。今度南薩摩高校ヨット部に入部しました。よろしくお願いします」  千恵は、本部船には西郷先生が乗っているものと思っていた。が違ったので少しどぎまぎした。そのことを感じたのか冴子が言った。 「鹿児島県内には6校のヨット部があるの。周りを見て、各校のヨットが練習しているでしょ」  千恵は、今初めて気が付いたように周りを見た。確かに冴子の言うように南薩だけなく各校のヨット部が練習をしていた。 「基本的にヨットの練習は、この本部船を中心に、スタートの練習やレースの練習をするの。今は、各校ともタックジャイブやセーリングをする基礎練習だけどね。で、その練習の指示をだすのが各校の顧問の先生なの」 「そうそう、各校の顧問が当番制にして2人ずつ本部船にのっちょる。きょうはおいのばんちゅうわけやっで。もう一人は、その辺の床でねちょるわい」  大久保が言うと。 「し、失礼ですね。寝ていませんよ。ちょっと気分が悪いだけです」  確かに寝転がっていたが、蒼い顔をした大久保よりは若い男が、起き上がって言った。 「さ、薩摩海洋(さつまかいよう)高校の岡田(おかだ)です。顧問になったばかりでこんなことをやらされるなんておもってもなかったよ。おりゃあ船には弱いんだ。」  といいつつ、岡田は少しえずいた。 「あ、南薩摩高校1年の柴田千恵です。よろしくお願いします」  千恵は、あいさつした。 「あ、ああ、よろしく。まあ、うちの連中とも仲良くしてやってくれ。海の上では敵同士だが、陸に上がればみんな同じヨットマンだ。おっとヨットウーマンもいるかな」  岡田は、弱々しい笑顔で千恵を見て言った。この先生もいい人らしい。 「てな、感じでいろんな教員が入れ代わり立ち代わり本部船から支持するから、安全のために必ず指示に従ってくれや。本部船も忙しい時はいろいろと手伝ってもらうこともあっでな」  大久保が言った。 「はい、わかりました……あの、私達みたいな交代の他の学校の生徒は、本部船に乗っていないのですか?」  千恵は、まわりをみたが、それらしいヨット部員はいなかった。 「おうよ。実は、まだ新入部員がはいっとらんで。いま、勧誘中じゃ」  大久保が言うと岡田が続けて 「なぜか、うちもそうなんよ」 「そうなの、なぜか、今年はどこの高校も部員の入りが悪くてね。だんだんヨットをする部員がすくなくなっているの」  冴子が言った。 「みんな、知らないんですよヨットの楽しさを。海の良さを」  千恵が言った。 「おお、よかこという。その調子で部員をふやせよ」  大久保が、ヤカンからお茶を茶碗に次いで飲みながら言った。 「ところで、ありぞんと翔子は?」  沖を眺めて冴子が言った。千恵も本部船の船首へ行って2人の乗ったヨットを探した。 「ああ、あそこです」  千恵がはるか風上を指さした。 「おおー遠くまで行ったね。まだタックしているよ。そろそろ引き返さないと日が暮れるまで間に合わなくなる」  と、冴子が言ったのを聞いていたように、有園、翔子艇はベアした。風下に艇が向くとスピンが上がるのが見えた。 「帰ってくるようですよ」  千恵が言った。スピンがきれいにはらんでしばらくランニングで走っていた。しばらくするとジャイブをした。 「お、ジャイブしたね」  大久保も見ていたのか冴子と千恵に言った。 「はい、スピンを潰さず、コースも大きく外れず、きれいなジャイブです」  冴子は言った。確かに、風が強い割には安定したジャイブだった。 「ありぞん、やるなあ」  と冴子。 「ショウちゃん上手いな」  と千恵。 「じゃな、さっき聞いたら初めて2人で乗るそうじゃなかか。わっぜ、うまかね。こりゃ先がたのしみやな」  大久保が、西鹿児島実業高校ヨット部の練習集団の方に向き直って言った。一艇チンしていた。 「あら、チンしてるがね。大丈夫だとは思うが、チンが起きなかったらあそこに行くからよう見ちょってくれんね」  大久保が、エンジンルームに向かいながら千恵に行った。 「はい、安全確認も本部船の仕事ですよね」 「じゃっど。一番気をつけてることやっでね。常に、周りのヨットの様子は確認ばしとる。君たちも本部船にのっとる時は、そのことを心掛けとってくれ」 「はい、今の所チンしているのは、あそこの1艇だけです」 「よか」  そのような会話をしているうちに、有園、中山艇はジャイブを繰り返して本部船に近づいてきた。もうはっきりクルーワークやスキッパーワークが見て取れた。  千恵は、翔子のクルーワークを観察した。翔子は、ジャイブの合図で、メインセールが右から左に移動するギリギリまでスピントリムをして、ブームをくぐるとすぐにスピンポールのサイドを入れ替えて有園からスピンシートを受け取りデッキに座ってスピントリムを始めた。翔子は、初心者なはずだが、さきほどまで奮闘していた千恵にはとてもそのようには見えなかった。 「ショウちゃんすごすぎ」 「うん、ありぞんも翔子がやりやすいようにしているけど、翔子もよくそれに反応してスムーズに動けている」  冴子が言った。    その時、大久保が冴子と千恵と岡田の方を向いて大声で言った。 「あのチン艇、ないごて起きんとよ。ちょっと様子ば見に行っで、柴田やったけ?ちょっとアンカー(錨)を上げてくれんね?」  先ほどチンをしていた艇がまだ、起きていないのだ。周りに同じ高校のヨットが見守っているが、何かトラブルでチンが起きないようであった。千恵は、船首へ行ってアンカーロープを引いた。が、あまりにも重すぎてびくともしない。おまけに波で本部船が揺れて足元がふらふらして余計力が入らなかった。その様子を見ていた冴子がすぐに手伝いに来た。 「早くアンカーをあげよう。チン艇の安全が第一だからね。いくよ、せーのっ!」  2人は、自分の体重をロープに乗せて引いた。重かったロープが、スッと軽くなった。 「アンカーがはずれた!私がロープを引っ張るから千恵は、ロープが絡まらないように円を作るように巻いて行って!」 「は、はい」  大久保は、本部艇のエンジンをふかした。岡田もようやく起き上がってきた。手には救命浮環を持っていた。 「アンカー、上がりました!」  冴子が、大久保の方を向いて手をあげて言った。 「よかよか、あいがとねー!」  大久保が、本部船をチン艇に向けて走らせた。途中、ランニング状態の有園、中山艇の横を通った。冴子は、有園に行った。 「チン艇の方に行くから、先に2人でハーバーに帰ってて!」  艇内の有園と翔子が大きく手を振った。本部艇はスピードを上げてチン艇に向かった。やがて、チン艇とそれを囲むヨット集団に近づいた。大久保は、チン艇のセンターボードに乗っている女子スキッパーに声を掛けた。 「いっげんしたと? 」  スキッパーは、大久保を見て叫んだ。 「スピンが、マストとジブセールに絡んで、艇を起こそうと引いているですが、スピンが水をはらんでしまっておもりになってしまうんです」 「ほうか、じゃあまずスピンを(おろ)さんね」  大久保が答えたが、 「それが、スピンハリ(スピンハリヤード)を外そうと思って手を伸ばしたら、全チンしそうで!」 「しょうがなかやろ。全チンさせて一回潜って船底に入って外したらよかがね」 「え! 」  女子スキッパーは、明らかに恐怖感を表した。完全に転覆したヨットの下に潜り込むのは、隙間に空気があるもののあまり、気持ちのいいものではない。 「クルーは? 行けんのか?」  大久保は、バウアイにしがみついている女子クルーを見た。こちらも途方に暮れている感じで、おまけに唇が震えて色が褪せている。  それを冴子も見て取って大久保に行った。 「私が、行きます。今ならまだ半チンなので、私がスピンハリを外してきます。」 「いや、他校の生徒にそげなこつさせられんとよ。おいが、行く。岡田さあ、本部船の操船をたのめんけ」  大久保が岡田に言うと 「大久保先生、ぼ、僕まだ船舶免許取ってないんですけど」  それを聞いて、冴子が、言った。 「はやく、あのクルーの子を、引き上げないと体力が持ちません。こんなトラブルは慣れてますから。ちゃっちゃっと行ってきます」 「そうか、すまん、じゃあ行ってみてダメそうだったらすぐに戻ってこいよ」  大久保は、すまなそうに言った。 「お冴さん気をつけてください」  千恵が言った。 「気をつけるも何も、早くいかないと」  と言って冴子は、思い切ってチン艇に一番近い位置に飛び込んだ。そして、センターボードに乗っているスキッパーに行った。 「そのまま、半チンで持ちこたえていてね。わたしが、スピンハリをはずすからね。」 「あ、ありがとう。お願いします」  冴子はスタンを伝ってコックピット側に回り、手を伸ばしスピンハリヤードのクリートを外した。  そして、マストの方に向かって泳ぎマストのスピントップの所へ行った。スピントップを引くとするするとスピンハリヤードが緩んで出てきた。  スピンを束ねながら今度は、バウの方に向かって行った。クルーが見えたので、冴子は声を掛けた。 「スピンは外したからね。これが、起きるのを邪魔していたのよ。もう大丈夫きっとスキッパーが起こしてくれるから」  クルーは声も出ず。うなづくのが精一杯だった。冴子は、スピンを下しひとまとめにしてスピンケースに押し込んだ。 「じゃあ、起こしてみて!」  スキッパーに言った。スキッパーは、メインシートを持ってグイグイと体重を使って艇を引き上げた。ゆっくりと上がり始め、メインセールも海面から浮き上がった。やがて、全体が、チンから起き上がった。細かいしぶきがあたりに飛び散った。 「よし、じゃあ艇に乗って」  冴子は、震えているクルーに言った。クルーは、バウからガンネルを伝ってサイドデッキに向かった。冴子は、寄り添って付いて行った。 「引き上げてあげて」  冴子は、スキッパーに行った。スキッパーは、クルーのライフジャケットの裾の辺りを掴んで、起き上がった艇内に引き上げた。  それを見ていた千恵は、 「そうか、私もチンし時は、お冴さんにああやって引き上げらえているんだ」  と呟いた。  クルーに続いて、冴子も艇内に上がった。 「ありがとう。ごめんなさい。助かりました」  スキッパーは、半泣きで言った。 「いいのよ。それより、クルーの事を考えて上げて、あの場合どうしても起こせない場合は、すぐに本部船に手を振って知らせるか、全チンさせて、クルーを海中から上げて2人でセンターボードに乗って起こすかしたほうがいいよ。なるべく水中にいる時間が長くならないように気をつけて」  冴子は、優しく言った。 「うん、わかった。ありがとう。坂本さんごめんね」  スキッパーは、坂本と呼ばれたクルーに行った。 「私こそすみませんでした。スピンを下すことが分かりませんでした」  坂本が答えた。 「まあ、いいじゃん。これで、対処法が分かったことだし。いい練習できたと思うよ」  冴子が言った。ゆっくりと本部船を近づけていた大久保が、冴子たちのやり取りを聞いて千恵に言った。 「よかこというなあ。さすが、南條じゃ。全国大会2位まで行くにはああでなきゃいかんな。柴田もきばれよ」 「は、はい」  千恵は、南條が頼もしいと思うとともにクルーを何より大切に思う冴子に敬意を覚えた。(あれが、ヨットマンシップね)  本部船がヨットに横付けして、冴子が本部船に戻ってきた。 「千恵、見てた?」  冴子が、千恵を見て言った。 「はい、見ていました。も、もしスピンが下りずチンが起きなかったら、頑張ってスピンハリを外します」  千恵が答えた。 「うん、そこを見ててくれたのね。オッケーよ。でも、私なら直ぐにスピンを下さず起こすけどね」  冴子が、ニッコリしていった。その時、大久保が大声で、 「さあ、今日の練習は終わりやっど、ハーバーにけえるど」  と言って、本部船を川平港に向けた。  本部船が、港に近づくと防波堤の上に人が何人かいた。千恵がよく見ると、皆それぞれ竿を持ち釣りをしていた。 「お冴さん、釣りをしていますよ」 「ああ、ここは、いい漁場なのか釣り客が多いね。昔はハーバーに入る時に釣り糸を引っかけて、釣り客と喧嘩になったことがあったそうだけど、今は、引っかかりそうなときは、釣り客が糸を巻いて、ひっかからないようにしてくれるの。だから、こちらもそういう時は手を振ってお礼のあいさつをするのよ。お互いさまってとこね」 「へえ、いいですね。何が釣れるのかな?」 「何だ、気になるのはそこか。千恵らしいや」 「お冴さん、あの人は釣りじゃないですね」  千恵が指さす先に青年らしい男性がイーゼルを立て簡易式の椅子に座って絵を描いているようだった。 「絵を描いているみたいね。先週も見かけた気がする……」  冴子が言った。 「ヨットの絵を描いているのかな。そういうのもいいですね」  千恵は、海に関することは、何でもいいようだ。  やがて本部船は、係留場所に着いた。千恵は、ブイやマーク(ヨットレースで使う目印の浮標)などを本部船から降ろし、南薩高の艇庫に向うと思いきや、先ほどの釣りが気になって、防波堤の方に向かった。上気した顔を冴子の方に向けて 「お冴さん、すみませんすぐにもどってきます。何が釣れているか気になって」 「わかった。陽も暮れかかっているし、片づけをしなきゃならないから早く帰っておいでよ」  冴子も、海好き千恵をみて、ほほえましくなり防波堤に行くことを許した。息を切らし走って防波堤まで来た千恵は、釣り客のクーラーボックスのなかをのぞいていった。 「おー、アジですね。沢山釣れてる。他は? カサゴにサバ、チヌ(クロダイ)も釣れているじゃないですかすごーい」  思わず声に出てしまった千恵を見て、釣りをしていた日焼けした老人が振り向いて 「じゃっど。今日は、よう釣れっとよ。お嬢ちゃん、何匹か持って帰り」  と言った。 「ええ、いいんですか」 「よかど。さっきヨットば乗っちょったんじゃろ。風ばつよいなかようがんばっとったのう。ごほうびじゃ。また、きばりや」  と言って老人は、釣った魚を取り交ぜてビニール袋に入れ千恵に渡した。 「こんなに! ありがとうございます! 」  千恵は、海も好きだが、魚も大好物だった。もらった魚を持って艇庫に戻ろうとした時だった。さっきヨットから見た絵を描いていた青年を思いだした。何を描いていたか気になって防波堤を左右見まわしたが、青年の姿はすでになかった。 「絵を描いていた人は? もう、帰ったのね……」  また、会う機会もあるだろうと、千恵はそれ以上気にせず艇庫に向かった。   有園たちはすでに艇を陸にあげて艤装を解いている所だった。千恵は、ホースを持って艇体に水を掛けて洗っている翔子を見つけ声を掛けた。 「おかえり、ショウちゃん。クルーワーク上手だったよ」 「ああ、チイちゃん。わ! そのお魚どうしたんですか? 」 「ハーバーの防波堤で釣りをしていたおじいさんにもらったの。いっぱい釣れてたよ。今度は、釣竿を持ってこよう」  このやり取りを聞いていた有園が、メインセールを下しながら言った。 「ここは、釣り部じゃないんだからね。まあ、色々と物珍しいのはしかたないとして、あんまり浮かれないでよね。ここは、ヨット部ですから」 「はあい、すみません」 「あんた、よくチンしてたね。明日は、私と乗るからね。しっかりしてよ。たのむわよ」  有園が、ため息交じりで言った。 「はい、がんばります」  そこへ、冴子もやって来て言った。 「いや、なかなか、千恵はよくがんばってたよ。落水してもシートを手離さずしっかり持ってたよ。ありぞんは、どうだったかな?」 「うるさいわね。1年生の時は、手がすべってシートを離し落水しまくりましたよ。1年生の時はね」 「だよね。でも、ありぞんの今日の走りはなかなか良かったよ」 「ああ、翔子の動きが初めてにしては良かったからね」  有園が、少し微笑んで翔子を見た。 「あ、ありがとうございます」  翔子が言った。 「うん、見てたよ。翔子、ヨットセンスあるよ」  と、冴子が翔子に言って、千恵に向き直って 「ところで、さっき見た絵描きのお兄さんいた? どんな人だった? 」 「え、ああ、あの私が堤防に行った時は、もういませんでした」 「ああ、そう」 「何か? 気になることでもあるんですか?」 「いや、前も一度見たことあるような気がしたのよ。それだけ」  冴子は何気ないように答えたが、千恵は、冴子が『お兄さんはどんな人だった?』というセリフが気になった。『どんな人だった? 』あの青年が何を描いていたとか、誰だったとかではなく『どんな』という表現が、何となくあの青年に興味があるように聞こえたのだ。  ただその興味と言うものが男としての興味と言うものに結び付けることは千恵には思いもよらなかった。 「千恵、翔子メインセールとジブセールを洗っといて」  有園が、言った。 「はい」  2人は返事をして、千恵がセールを持ち、翔子がホースで水をかけ洗った。翔子が、言った。 「チイちゃん、お冴さんと乗ってどうでした?」 「え? どうって? 」 「その……指導の仕方とか、怒られるとか」 「え……、熱心に色々教えてくれたよ。そう言えば、失敗はしまくったけど怒られるってことは一度もなかったな。何か、心構えみたいなのはよく言われたけど。ショウちゃんこそ有園先輩と乗ってどうだった? 」 「ひとつひとつ確認しながら、ゆっくり教えてもらいました」 「怒られることはなかった?」 「特には……ありませんでしたよ」 「そうか、ショウちゃん上手くやってたもんね。明日は、スキッパーが交代だね」 「ええ、楽しみですね」 「楽しみ? さすが、ショウちゃん。わたしなんか、もう、言われたことを理解するだけで精一杯だもんね。楽しむ余裕なんてないよ。まあ、海に出られるのは楽しみだけどね。魚ももらえるし」  千恵には、釣り魚をもらったことが今日の練習では一番嬉しかったようだ。すでにどうやって食べようか考え始めていた。  セールも洗い、一通り片づけも終わった頃。部員に集合がかかった。全員が円陣になって集合した。大迫が言った。 「今日の練習は、風がちょっと強めでしたが、いい練習になったと思います。新入生どうでした?」 「艇を起こすのが大変でした。スナイプは、とにかくヒールをフラットにするのが大事だと思いました。あと、手に豆ができました」  純平が言った。  横に座っていた千恵が、純平の掌を覗き込んだ。確かに指に豆が出来ていた。血豆も見られた。(わたしもあんなのができるのかなあ)千恵は、思った。 「そうですか、豆ができましたか。でも慣れれば、掌もかたくなって、要領よくシートをひけるようになります。頑張ってください」  大迫が、励ました。 「はい」 「で、柴田さんは、どうでした。初めてFJのクルーをしてみて」 「はい、何が何やらよくわかりませんでしたが、海に出られて良かったです」 「そうですか、初めてでしんどかったと思いますが、懲りずに頑張ってください。」  少し疲れ気味の千恵の様子を見て大迫が中途半端な慰め方をした。大迫の横にいた冴子が、耳打ちした、 「大丈夫。千恵は、なかなか根性あるよ。辞めたりしないし」 「うん。中山さんはどうでした?」 「はい、思っていたよりやることがたくさんあり、いろいろ教えていただきました。もっと自分から動けるようになりたいです」 「ほう、有園さんの指導がよかったかな。これからも頑張ってください。」 「はい」  有園は、大迫から視線を投げかけられて頬を赤らめ頭を掻いた。 「じゃあ、きょうの練習は、終わりにしましょう。明日は、9時集合です。新入部員は弁当を忘れないように。」  大迫が言うと、 「あの、雨が降ったらどうするんですか?」  千恵が聞いた。 「基本的にヨットレースは、雨が降ろうが、風があろうが無かろうが海には出ます。練習は、5時まで。今日みたいに他校と一緒に練習します。新入生は、今日のペアを交代して、タック、ジャイブの練習をしてください。2、3年生の男子は、本部船の指示でレース練習をします。以上! 」 「はい! 」  全員が返事をした。 「じゃあ最後に円陣組んで終わりにしましょう」  全員が、肩を組んで円陣を組んで上半身を曲げ下を見た。大迫が声を出した。 「なんさーつ!ファイ!」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「ファイ! 」 「なんさーつ! ファイー! 」 「ファイー! 」  顔を上げ円陣を説いた。 「解散! 」  その声で散り散りなった部員が着替えに行ったり、艇の点検をしたり、休憩するためにすわりこんだりした。千恵は、純平の手が気になり 「城山君、手、大丈夫? 」 「ああ、これ、スナイプは、ちょっと太めのシートを使っているんだ。あと練習でジブリーダーのクリートを外してクリートなしでずっと手で引いているんだ」 「ええ? クリートなしで? クローズで走る時は、ずっとジブシートを引っ張ってるの? 」 「そうだよ。いずれは、クリートをつけるけど、今は、訓練のためと掌を固くするためにそうしてる。先輩は、セーリンググローブをしてもいいって言うけどそれも、もっと練習をしてからにする」  いつもは、猫背気味でちょっと頼りない感じのする純平だが、ヨットの練習に対する真摯な取り組みに、ちょっと尊敬の念を持った千恵だった。 「すごいね。城山君。すごいよ。わたしも頑張る」 「え、ああ、がんばろう」  そんな会話をしていたら、冴子が、管理棟の入り口付近で手を振って声を掛けてきた。 「千恵ーー。さっさと着替えるよ。日が暮れるとこの辺は、急に冷えてくるからね。温水シャワーもあるから早くおいで」 「はい! わかりました」  そういえば、冴子も学校でいるときは、天然ぽいところがあるけどヨットに乗っている時は凛としてかっこいいと千恵は思った。千恵が管理棟に入ろうとした時、翔子と有園が着替えを終えて出てくるところだった。 「あら、チイちゃんお先です」 「早、もう着替えたのね」 「ええ、ごゆっくりどうぞ外で待ってますわ」 「いや、いいよ、お迎えが来てるんでしょ? 」 「いえ、バスですわ。車での送り迎えはやめてもらいました。高校生なんですもの自分で帰らないと」 「へえ、そうなんだ。何か、みんなたくましくなっていく感じ。じゃあ、後でね」  と言うと千恵は、冴子の後をついて管理棟へ入って行った。  それを見送った翔子は、ベンチに座って髪を解いている有園の横にスカートを両手で整えて座った。 「何よ?」  この人は、いつ見ても怒ったような顔をしている人だと翔子は思った。もちろん怒っているわけではないことはわかっていた。 「あの、有園先輩教えていただきたいことがありまして」 「は?その『先輩』って言うのやめてくんない。あたし、そんなに偉くないし。で、何?」 「はい、じゃあ、有園さん」 「はい」  思わず有園も、畏まって答えた。 「今日の練習は、他校の生徒も来ていたのですよね」 「そうよ。他の学校も新入部員勧誘に苦労しているみたいだったね」 「その他校の生徒の中で、錦江院学院の今給黎と言う人は、いらっしゃったのですか」 「今給黎の事をいらっしゃったというのもしゃくだけど、今日は、いらっしゃらなかったよ」 「はあ、そうですか」 「何?今給黎のことが気になるの?お冴がしつこく言うから?」 「まあ、そういえばそうです。どのような方か気になって」 「今給黎は、いまオーストラリアにいるよ。向こうの高校に留学してんのよ。ヨットの技術が学べる学校でね。ヨット留学とか研修留学とか言ってたから半年ぐらいかな。去年の11月ぐらいに行ったから、そういえば、もうそろそろ帰ってくるな」 「有園さんから見られて今給黎さんとはどんな感じの方なんですか?」 「ふーん。今給黎か……。レース海上じゃあ、向こうが速すぎてほとんど出会わなかったけどね。陸上じゃ、マンガで言うと海原雄山のような感じかな」 「かいばらゆうざん さん?どなたですか?」 「漫画に出てくる登場人物だけど、そうだよな。知らないよな。そうだな、歴史上の人物で言うと、織田信長あたりかな」 「はあ、織田信長は、知っています」 「そう、何となく頭が切れて冷酷だけど大物の存在感があるみたいなイメージよ」 「はい、はい、そうですね。なんとなくイメージがわいてきました」  翔子は、上を向いてイメージを思い浮かべた。 「とにかく、見たらすぐわかる。強烈なオーラを発しているから」  有園も、イメージを思い浮かべながら言った。 「でもなんで、お冴さんは、あんなに今給黎さんのことを嫌うのですか?」 「そうねえ、勝ち方が手段を選ばないからかしらねえ」 「反則でもするのですか?」 「いや、そういうわけでもないんだけど。反則ギリギリこのことはしたりするね。それをクルーにさせたり。お冴は、それをとても嫌っていたな。あと、わざと艇をあててきたり」 「ええ?そんなことヨットレースでするのですか?」  翔子は、思わず大きな声を出したが、有園は静かに言った。 「ああ。もちろん、普通はレースではお互いの艇を当てないようするんだけど、混戦したり、競り合ったりしているときは、艇同士が接触したりるすことがある。そういう場合ルールにのっとってどちらが悪いか審問するんだ。それに負けると失格になってしまう。今給黎は、わざと艇を接触させて来ることがあるんだ。もちろんルール上必ず勝つ状況でね」 「ひどいじゃないですか、わざとぶつけてくるなんて」 「だろ。でも、わざとに見えないところが今給黎のすごいところだな。いままであいつが、審問で負けた所をみたことないな。まあ、そういう事までして何が何でも勝とうというところが、お冴はゆるせないんじゃないかな」 「ヨットって、意外とシビアなスポーツなのですね」  そう言って翔子は息をのんだ。 「そうね、海の上の格闘技かもね。なんてね、でもみんな今給黎みたいなやつばかりじゃないから。レースは、楽しくやらなきゃ」 「はい、変なイメージをもたないことにします」  有園は、ニコッと笑って翔子の頭を、くしゃくしゃとなぜながら、 「そうそう、偏見はだめだよ。今給黎も陸にいるときは、案外いいやつなんだけどね。もうこの話はやめよう。お冴に聞かれたらややこしくなるし」 「そうですね。何事も自分の目で確かめて判断するしなければなりませんものね。そのためにヨット部に入ったのですから」  翔子が、右手を握り締めて空を見上げて立ち上がった時だった。 「何々?何の話?」  着替え終わった冴子が、ベンチの横に立っていた。 「わ!お、お冴いたの!?」  有園が、思わず冴子の顔を見て言った。 「何よびっくりして、今来たところよ」 「ショウちゃんおまたせ」  千恵も、冴子と着替えを終えて管理棟から出てきた。 「じゃあ、帰りましょうか」  翔子が今まで話していたことには触れずに淡々と千恵に行った。 「うん、あ、そうそう、さっき釣り人のおじいさんからもらったお魚たくさんもらったから分けようよ。管理棟で、ビニール袋を何枚かもらったんで……。先輩は何がいいですか?」  千恵が、持っていたビニール袋を開いて言った。 「わあ、すごい、大きいですね。これなんて言うお魚?」  翔子が黒い30㎝ほどの魚を指さして聞いた。 「クロダイよ。たいていは、チヌって言うの。刺身もいいけど塩焼きもおいしいよ。ショウちゃんあげるよ」 「え?いやでも、私お料理できないし」 「お魚料理に挑戦してみたら。ねえ、家政婦の糸さんに聞いてやってみたら」  その問いに有園がさらに質問した。 「翔子の家には家政婦さんがいるの?この前の海外旅行の話と言い、翔子の家は金持ちか?」 「はい……というか、何がどうお金持ちかわからないし。私がお金儲けをしているわけではないので、正確にはどうお答えしたらわかりませんが、『お金持ちですか?』と聞かれたら。『はい』と答えることにしています。」 「へー。いや、はいと言えるということは、やっぱりお金持ちってことだよ」  有園が言った。そして続けて、 「千恵、わたしは、そのアジいいかな。それをちょうだい。とうちゃんにお土産にするよ。焼酎のつまみによさそうだ」 「どうぞ、どうぞ」  千恵は、ビニール袋に、クロダイとアジを分けて入れ、それぞれに渡した。 「お冴さんは、何がいいですか?」  千恵は、新たなビニール袋を出しながら言った。 「ありがとう。そうね。せっかくだからそのカサゴをいただくわ。唐揚げの二度揚げにしたらおいしそうね」 「おお、通ですね。何か、主婦みたいです」 「ハハハ、作るのは私じゃないわよ。母さんに作ってもらうわ。ところで、千恵の分は、あるの?」 「あります、あります。私の好物のサバが残りました。私、サバが大好きなんです。特に味噌煮が。あ、私も母に作ってもらいますけど」  それぞれ、魚を土産にして、四人は、ハーバーを後にした。辺りはすでに薄暗く、ハーバーの外灯が、各学校のヨットを白く浮き上がらせていた。  翔子が家に着いたとき、中山家の柱時計が、低い音を7回打った。翔子は、厨房をそっとを覗いた。割烹着を着た老家政婦の山元糸(やまもといと)が、背を向けて料理を作っていた。小気味よくねぎを切っていた。翔子は、近づいてささやいた。 「ばあや、夕食はもうできるの?」 「あ、お嬢様。おかえりなさいまし。はい、もうだいたいご用意はできておりますよ」 「そう、これ見て」  翔子は、後ろ手に隠し持っていたクロダイの入ったビニール袋を見せた。 「あらま、立派なチヌだこと。どうなされたんです?」 「今日ヨット部の練習で、チイちゃんが釣り客からもらったのをおすそ分けしてくれたの。これ、お料理したいんだけど私にできる?」 「ほう、これはおめずらしい、お嬢様が料理を。ご心配なく料理は私がいたしますよ」 「だめ、これは私が料理をしたいの。ばあや料理の仕方を教えてちょうだい」  翔子は、糸に対しては、幼い言葉遣いになる。それほど昔からの付き合いなのだ。 「はい、はい、わかりました。では、新鮮なのでお刺身にしましょう。荒はお汁にしましょうか」 「うん、うん、じゃあ着替えてくるね」  翔子は、荷物を持って自室に向かった。糸は、ほほえましくそれを見送った。(お嬢様がご自分から料理をしたいなんて。バス通学やヨット部に入ることなども旦那様と奥様にはっきりとご自分から主張して。高校に入って日に日に大人になっていっているのですね)糸は、幼いころの翔子の姿を思い出しつつ目頭が熱くなった。  その後は、悪戦苦闘しながらも翔子は、慣れない包丁を使って魚をさばき、クロダイの刺身を作った。珍しく早く帰宅していた父親と母は、翔子の料理作りに驚くとともに、素直に喜びを表しクロダイを味わった。  有園は、20㎝ほどアジをまな板の上に乗せ、肩口にあげた両掌を自分の方へ向け、台所に立った。有園の隣には、弟の耕助が姉の顔を見上げていた。 「ねえちゃん、手術でもするのかよ?」 「うるさいわね。包丁!」  と言って、右手を耕助の方に出した。 「なんだよ?」 「だから、あんた助手だから包丁を私にわたすのよ」 「ええ、なんだよ。やっぱ手術ごっこかよ」 「何言ってんのよ。これでも外科医を目指してんだからね」 「へえ、へえ、わかりました。ハイ、包丁」  有園は、包丁を受け取ると、アジのぜんご(アジ独特のうろこの堅い部分)をそぎ始めた。そして、他のうろこを取り、腹に包丁を入れ魚をさばいた。 「たかが、アジの塩焼きだろ。ああ、めんどくさ」  耕助が、その場を去った。そんなことも知らず、喜んだのは、晩酌の肴が出来た有園の父だった。 「あら、お帰り」  冴子がドアを開けた時、母親と目が合った。 「ただいま」 「疲れたでしょ、お風呂が沸いてるから入んなさい」 「うん。母さんこれ魚釣りで釣れた魚だってもらったんだ。唐揚げで食べたいんだけどなあ」  冴子は、袋のカサゴを母に見せた。 「まあ、カサゴね、大きいのがちょうど三尾あるわね。いいわよ。今日は、カサゴのから揚げにしましょ」  ちょうど三匹とは、冴子と母と父の3人でちょうど食べられるということだ。冴子は、一人っ子だった。 「もうすぐお父さんも帰ってくるからそれまでに、お風呂入っててね」 「はあい。ありがとう。母さん」  そういいながら、冴子は自室への細い階段を上がった。 「ただいまー!」  千恵は、勢いよく家のドアを開けた。ドアベルがけたたましく鳴った。  千恵の声に反応して弟の照男が、昨日と同じように廊下の奥からドタドタと足音が近づいてきた。 「おかえりー。ねえちゃん! ヨット乗ったんか?」 「乗ったよ。それが何か? 」 「どうだった? 面白かった? ヨットに乗って酔わなかった?」  何かと聞いてくる。それらの問いには答えず千恵は、魚を取りだした。 「お土産! 釣りをしていたおじいさんがくれたんよ。」 「おお、大きいなあ、これなんて魚? 」 「サバよ、サバ。標準和名マサバ。特徴はこの虎のような模様と、尾びれの近くある離れびれ。この離れびれはね……」 「ああ、もういいよ。ねえちゃん。話が長くなるから」  姉からサバの入った袋を受け取って照男は、台所にいる母の方へ走って言った。 「ねえちゃんがお土産で魚をもらってきたよー」 「あら、丸々としたサバちゃんね。味噌煮にしちゃおうかしら」  台所で交わされる会話を聞きながら、千恵は、足を引きずりながら自室に向かった。ドアを開ける。目の前にベットだ。すぐさまカバンを放り出して、仰向けに飛び込んだ。 「はあーー。疲れたーー」  千恵にとって最近は、ベットに飛び込んで『疲れたーー! 』と言って大の字なるのが帰宅のセレモニーになっていた。  天井を見上げつつ、冴子と乗ったヨットのことを思い出すが、あまりにもいろいろなことが起こったので、頭がぼうっとして、いつしか目を閉じてしまっていた。そして、大きないびきをかいて眠ってしまった。  翌朝、千恵は、7時に目を覚ますと部活に行く準備をした。やはり昨日の練習の疲れと筋肉痛がまだ残っている。  カバンを持って階段を降りるとダイニング・ルームに父がいつものように新聞を見ながら朝食を食べていた。照男もいた。千恵は、席に着き、 「いただきます」  と言って、みそ汁からすすり始めた。父が、ぼそりといった。 「千恵よ、昨日のサバうまかったなあ」 「そうよ。川平ヨットハーバーの堤防の所で、釣っているの。堤防からでもあんな大きい魚が釣れるのよ」 「おお、そうか、こんど釣りに行ってみるか」 「うん、うん。ヨットの練習が無い時行ってみよう」 「おれも行きてえ」  照男が言った。千恵の家族は基本的に海好きなのだ。 「今日も練習か? 」  父が言った。 「うん。練習、練習」 「日曜日なのに大変だな」 「ううん、楽しいから大変じゃないよ。それにまた海に行けるし」 「そうか、それならいい」  そそくさと朝食を終え、千恵は玄関に向かった。 「行ってきまーーす」  ドアを開けた。朝日がまぶしかった。  千恵が、9時10分前にヨットハーバーに到着すると、南薩摩高校や他校の早めに来た部員が、あちらこちらで各々艇の艤装をしていた。千恵は、南薩摩高校の艇庫前まで走っていった。 「おはようございます!」 「おう」 上級生や純平が千恵を見て言った。 「おはよう」 「みんな、早いね」  千恵は、艤装を終えつつある純平に行った。 「そうだね。今日は良く晴れて風もいいし」 「いい風?」 「そう、昨日に比べて少し弱いだろう。初心者にはこのぐらいがちょうど乗りやすい風だよ」 「風速で言うとどのくらい?」 「3mから4mぐらいだろうと思うよ」 「そうなんだ」  そう言って、千恵は、防波堤の向こうに見える海を見た。確かに、昨日より白波が少ない。ブローもはっきりと見えた。防波堤上には、もう釣り客がちらほら見えていた。絵を描いていた青年は、いなかった。 「おはよう」  背後から声がした。振り向くと冴子と有園だった。 「おはようございます」 「昨日は、魚をありがとうね。おいしくいただいたよ」  有園が言った。 「うちも家族で食べたよありがとう。ところで翔子は?」  冴子も言った。 「まだ、みたいです」  千恵は、周りを見渡した。 「あ、きました」  バス停のある方をみて千恵が言った。翔子が、走ってこちらに向かってくるところだった。 「じゃあ、私たちのFJを艇庫から出そうか」  冴子が、艇庫に入って行った。有園、千恵が後に続いた。遅れて翔子が走って追いついてきてた。 「ハア、ハア、おはようございます」 「おはよう。体調は大丈夫?」 「ハイ、あ、チイちゃん昨日のお魚ありがとうございます。お刺身にしていただきました。初めて魚を料理しました。お父様も喜んでくれましたの。」  翔子は、頬を上気させて言った。 「すごーい。ショウちゃん自分で料理をしたの?ショウちゃんがねえ」 「もちろん、糸さんに教えてもらいながらですけど。がんばって作りました」 「翔子、これからもヨット部にいればもっといろいろな体験ができるよ」  冴子が、にこりと笑って言った。 「ハイ。よろしくお願いします」 「素直だね。翔子ちゃんは」  有園が、翔子の頭をグリグリと何故ながら言った。 「さあ、艇を出すよ」  冴子が、船台の前部の持ち手を持って引いた。4人は、艇庫内からFJを外に出した。  マストは、倒して艇体から外している状態なので、千恵と翔子が、マスト置き場に取りに行った。2人はマストを持ち上げ艇体の所に持って行った。 「じゃあまず、着替えようか。それから艤装をするから」 「ハイ」  四人は、管理棟に向かった。やがて、素早く着替えを終え、ヨットの所に帰ってきた。艇の前に立った有園が、千恵と翔子を見て言った。 「さて、今日から私とお冴が交代で、あなた達に基本的な艤装の仕方やセーリングのルールについて教えることになったからね。で、今日は、私が艤装について教えるから。しっかり覚えてよ」 「はい、よろしくお願いします」 「よろしい、今年の新入りはホントに素直でよろしい。私らの代とはえらい違い……てなことは、どうでもいいとして。えー、まず超簡単に言うとヨットは、人が乗る艇体と、マスト、そして、セールの3つの部分でできているよね」  と言って有園は、説明しながら指を三本立てた。 「そうですね。ヨットの絵を簡単に描くと艇体とマスト、メインセールであらわせますよね」  千恵が言った。 「そう、この三つの部分にクリートやら、ブロックやらブームやらポールやらいろいろ取り付けてセールの形を調節して、より早く走るようにしているのがレース用のヨットってわけ」 「はい、有園さんの説明は、わかりやすいです」  翔子が言った。 「そう……へへへ」  有園は少し照れた。 「で、それらの部品をお互い取り付けたりつないだり、調節したりするために使っているのが……何だと思う?」 「え? いきなり問題ですか? ええと……」  千恵はまだ艤装をしていないFJを覗き込んだ。 「シートや細索(さいさく)、シャックルなどですね」  翔子が即答した。 「さすが、翔子。その通り。シートや細索やシャックルなどでヨットは艤装される。それらをその時の風の強さなどの状態に合わせて調節して一番早く走れるセールの形にしたり、風を流したりする」 「ヨットは、風によってシートで調節するんですね」  千恵が、言った。 「まあ、簡単に言うとそう言うこと。もちろんシートだけじゃないけど、基本は、シートを引いたり緩めたりしてする事だ」 「シートって大事なんですね」 「そう、それでだ。今日は今から艤装で使う主なシートの結び方について教える。」 「え?固結(かたむす)びか蝶結(ちょうむす)びじゃダメなんですか?」  千恵が言った。 「ロープワークですね」  翔子が言った。 「そ、そうロープワーク。結索(けっさく)とも言う。ヨットは、結索に始まり 結索に終わるといっても過言ではないね」 「何故ですか? 何で結索で始まって結索で終わるんですか? 」  論理的思考を大事にする千恵が聞いた。 「えー。うるさいな。ただ、それらしく言ってみただけだぜ。それはいいとして、とにかくヨットにとって、いや、海に関わるものとして結索、ロープワークは一番大切なものだからね。今から主な結び方を教えます。その1『ボウラインノット』! 」 「もやい結びですね」  翔子が、反応した。 「え、そう、もやい結びともいう。翔子知ってんのか?」 「はい、家族でよくキャンプに行くので、アウトドアでよく使いますわ」 「そうだったよな。中山家はよく、旅行するんだったよな。まあ、とにかくやってみるから。あんたちその辺のシートを持って練習するのよ」 「ハイ」  千恵と翔子は、FJ内にあった手ごろなシートを手に取った。 「では、ボウラインノットは、シートの端に輪っかを作る結び方である。  結びやすく固く結んでも解きやすい、結索の基本中の基本な。  まずシートの端に小さな輪をつくる。その輪に短い方のシートの端を通す。それを長い方のシートに作っていおいて輪っかにくぐらせて……」  ざっくりとした説明をしながら、有園はすいすいとシートを結んでいった。シートの先に輪っかを作り結んだ。 「ってなもんよ。わかった? 」  千恵は、青ざめた。さっぱりわからなかった。翔子はと見ると。 「できました」  翔子は、完璧なボウラインノットを有園に見せた。 「そ、そうか。ショウちゃんは、もう覚えているのね。あの、有園さんもう一度ゆっくりと教えてください」 「いいよ。こんな覚え方もあるから。うさぎさんが穴に入って、木の根を飛び越え穴から出て来て、できあがり」  千恵は、それを聞いて言った。 「ああ、そのセリフ、映画『ジョーズ』でロイ・シャイダーが言って練習していたのを思い出しました。そうか、あれがボウラインだったんだ」 「『ジョーズ』? 」  有園が翔子を見た。翔子は答えた。 「アメリカ映画で、人を食べまくる大きなサメを退治する映画です。チイちゃんの一番好きな映画です」 「ああ……、そう。まあ覚えてくれれば何でもいいけど」  手つきは不器用だが、結び方は完璧に覚えた千恵だった。その後、『クラブヒッチ』、『シートベンド』、『エイトノット』と基本的なロープワークを覚えた。  その後、マストを立て、セールを上げ一つ一つロープワークを確認しながら艤装をした。 「だいたい、艤装はこんなところ。あとは、今日の風に合わせて細かいところを調節してチューニングする。今日は、軽風だからこの状態でいいと思う。あとは、海に出てから調節することもあるからね。とにかくロープワークは覚えておいてよ。目をつぶっていても結べるぐらいにね」 「はい」  千恵と翔子が同時に返事をした。 「で、今日の練習は、まず私と千恵が乗って、セーリング練習、タックジャイブ練習をするからな。あと、スタート練習もやってみるから」 「スタートの練習ですか?」 「そう、レースで一番大事なスタートの練習よ。腕時計は持ってるか?」 「はい、でも防水でないので外して行っています」 「そっか。入部したばっかりだもんね。レースでは、スタートの時間が決まっていて、ジャストでスタートラインを切れるように時計を確認しながらカウントダウンをするんだ。クルーがね。だから、ゆくゆくは、防水のダイバーズウォッチを買った方がいいぜ。しゃあない、今日は私のを貸してやるよ。」  そういって有園は、自分のダイバーズウオッチを外し千恵に渡した。 「ぜーったいに落とすなよ。それ、2個目なんだから」 「1個目はどうしたんですか? 」  翔子が聞いた。 「ベルトが切れて落とした。海の底にね。だから気をつけろ。」 「はい」  千恵は、ベルトを確認した。ダイバーズウオッチは知っていたが実際に装着したのは初めてだった。大きめの時計に可動性のベゼルと呼ばれるリングがついている。ベゼルには数字が書かれ12時の場所には三角の印がついていた。ズシリと重い。(か、かっこいい……)千恵は、目を輝かせてダイバーズウオッチを見た。  「集合!」  2年生の南の声だった。部員が円陣になった。大迫が腕組みをしながら言った。 「今日は、比較的穏やかな風です。たぶん一日こんな感じだと思います。いい練習ができると思うのでみんな気合を入れて取り組んでください。スタート練習もあるから、本部船から合図があったらすぐに集まるようにしてください」 「ハイ!」  全員が答えた。 「で、女子は、今日は、午前中は有園・柴田組で、午後は交代して、南條・中山組で乗ってください」 「はい」  女子が答えた。 「じゃあ行きます! 」  いつものように『なんさーつ! ファイ! 』の掛け声の後で、全員がスロープから艇を海上に出した。  風は、陸から吹いている。北東気味の風だった。艇は、バウをスロープ側に向けて、千恵がバウアイ(バウに付いている輪っか)を持って支えていた。サイドステーに付いている3本のテルテールと同じ毛糸の15㎝ほどの風見が直線的になびいていた。 「チイちゃん、頑張ってくださいね! 」  背後から翔子の声が聞こえた。翔子の横には冴子がいてニコリとして親指を立てていた。 「はい! 」  千恵は、手をあげて答えた。周りは、他校のヨットが次々と出艇していく。  有園が、バウのサイド気味から艇に乗り込んだ。 「お願いします!」  艇に乗り込むときは、誰もが挨拶をする。有園は、乗り込むとラダーをスタン(トランサム)のガジョンに取り付けた。さらに、ラダーにティラーを差し込み、メインシートを持った。 「千恵、準備はいいか?」 「はい」 「じゃあ、まわりの艇に気をつけてバウを沖に向かって押して艇に勢いをつけてから乗り込め。するっと乗ること。もたもたすんじゃないよ」 「はい。じゃあ、いきまーーす。お願いします!」  千恵は、スロープを足で踏ん張り艇を押し出した。動き出した艇のバウにへばりつきズルズルと這ってコックピットに乗り込んだ。  有園は、波舵(艇がバックしている時に舵を切って、前進している時とは逆の方向に艇を進ませる方法)を使って後進する艇のバウを沖に向けた。 「風は、(うしろ)からだからセンターボードは半分入れて」  有園は言った。 「はい」  千恵は、センターロープを引いて船底からセンターボードが半分ぐらい出るようにした。そして、ジブシートを持ってセールを調節しつつコックピット内でヒールのバランスをとる体勢に入った。    有園は、風上のサイドデッキに座って千恵の様子を見ていた。 「なかなか、動けるようになったじゃない。もっととろいのかと思ったよ」  青空に桜島がくっきりと浮かんでいた。火口から白い水蒸気の噴煙が出ていた。艇は、後方から風を受けながら緩やかにローリングをしながらヨットは沖に向かった。   ハーバーを出て、周りのヨットが十分な距離を取った所で有園が言った。 「スピンをはるよ」 「はい、えーと、まず、どうすればいいんでしたっけ?」 「スピンハリのトップとツイーカーをはずす。それからスピンが上がったラポールのセット!」 「はい」  千恵は、スピントップとツイーカーをフリー(はずした)にした。 「外しました」 「オッケー、慌てることないからな。スピンを上げるぞ」  すでにコックピット内で立ち上がっていた有園は、スピンハリヤードを勢いよく引いた。スピンバックからマスト上部に向かってスピンが上がった。有園は、風上側と風下側のスピンシートを持ってスピンがはらむようにトリムした。その間ティラーは股の部分で挟んでラダー(舵)を調節してる。 「スピンポール!」  有園が、言った。 「はい」  千恵は、足元に置いてあるスピンポールを持ち、風上側のスピンシートを取り付けにかかった。  それを見ていた有園は、(翔子は、この時点ですでにポールを、マストにセットしていたよな)と思ったが、決して千恵を急がすことはしなかった。千恵は、フォアステーとサイドステーの間にポールを突き出していた。セットを終え、言った。 「できました」 「オッケー、じゃあ下側のスピンシートを受け取って」  有園は、シートを千恵に手渡した。そして、ヒールバランスを取りながら風上側のサイドデッキに座った。有園も、千恵の動きに合わせながら風下側のサイドデッキに座った。 「まあまあ、だな。その調子で頑張れよ」  有園が言った。千恵は、スピンネーカーを見てトリムしながら言った。 「はい、有園先輩が、ゆっくり待ってくれたので焦らず出来ました」 「え?ってことは、お冴は、もっと早かったの?」 「決して、焦らされているということは、ないのですが、指示が早くて、私が勝手に焦ってました」 「そう。やっぱり。お冴は自分のペースでやろうとするからね。それでもお冴なりにはとってもゆっくりやってると思うよ」 「え、じゃあ、もっともっと早くやらなきゃいけないんですか?」 「そういうこと。千恵や翔子はまだ始めたばかりだから、まだゆっくりやって焦らせることはないと思うけど、私がクルーでお冴と乗った時は、お冴のペースでやるから、クルーワークが付いて行けなくて。あいつ何度言っても待ってくれないからな。で、チンしたりして、いつも喧嘩になったぜ」 「それで、部室で大迫キャプテンに怒ってたんですね」 「まあ、そういうこと。わたしは、お冴よりは、ゆっくり確実にやるけど、千恵は、千恵なりに早くスムーズにクルーワークが出来るようになってくれよな」 「はい」 「スピンシートは、引きすぎないように風が流れるようになるべく形を崩さず、風上側にスピンを持ってくるように、緩められる時は緩めてトリムして」 「はい」  千恵は風下側のスピンシートを緩めた。スピンシートは、スルッと出て行ったが、緩めすぎて、スピンがバサッとつぶれてはためいた。艇がローリングした。 「わ、すみません」  千恵が、叫んだ。 「大丈夫、焦るな。風下のスピンシートを引き込んで!」  千恵は、今緩みすぎた風下のスピンシートを引いた。スピンのクリュー(風下のスピンシートが取り付けられている部分)が、引き込まれ、風をはらみはためきが止まり丸いスピンの形が、元に戻った。 「ふうーー」  千恵は、ほっとした。 「ヨットは、ちょっとしたタイミングのずれや調節ミスでスピードが落ちたり、バランスを崩したりするから、なるべくミスを少なくすることが大切だ。そのためには、急ぐけど焦らないこと」 「急ぐけど、焦らないこと……」  要は、あわてるなってことかなあと千恵は思ったが、分からないでもなかった。  その後、有園・柴田艇はジャイブの練習とタック練習を繰り返した。今日は、風の強さも昨日よりは弱いということもあってかチンをすることはなかった。  その頃本部船では、今日の指導教員の西郷が、生徒に次の練習の指示を出していた。 「そろそろ、スタート練習をすっで。各校のヨットを集めてくれ」 「はい」  冴子は、本部船の道具箱からエアホーンを取り出した。スプレー缶の先にプラスチックのラッパが取り付けてありスプレー内の圧縮気体の圧力で大音響が出る物だった。冴子は、デッキに出て、各校のヨットに向けてエアホーンを鳴らした。 『プアーン、プアーン、プアーン』と警笛音が響いた。冴子は、道具箱の横に置いてあったハンドマイクを翔子に渡しながら言った。 「このハンドマイクで、各艇に向かって本部船の回りに集合するように言って」 「はい」  翔子は、ハンドマイクを受け取ると、深呼吸をして、ヨットがいる方に向けて叫んだ。 「各校、本部船の回りに集合してくださーい!」 「お、いい感じ、みんなが集合するまで繰り返してね」 「は、はい。本部船の回りに集合してくださーい!」  暫くすると、各校のヨットが本部船の回りに集合して来た。ちょうどスピンを下したところの有園・柴田艇が本部船の横を通った。  翔子が、 「チイちゃん!ファイト!」  と声を掛けたが、千恵は、ジブシートのトリムをすることに精一杯でその声には反応しなかった。次々と各校のヨットが本部船の船尾から左舷側をクローズホールドで通り過ぎていく。冴子が翔子に言った。 「今からスタート練習をするから言う通りにやってね」 「はい」 「まず、本部船の操舵室(操船をする部屋)の屋根に人が乗れるスペースがあってそこマストがあるの。そのマストに旗を上げるから、この国際信号旗を持って行って」  そういって、冴子は道具箱から旗を1枚取り出し翔子に渡した。翔子は、旗を受け取ると操舵室の屋根に上がった。竹ざおで作ったマストが立てられていた。4枚ほど旗があげられるようにロープがついていた。翔子は、持っていた旗を掲揚できるようにロープに結び付けた。青地に白い長方形が真ん中にある旗だった。 「旗のセットできました」 「オッケー。そこから見て左舷9時の方向を見て。あ、9時って言うのは船首を時計の12時とした時その時計の9時に当たる方向ってこと」  と言って冴子は、船首に向かって左舷90°の場所を指さした。そして言った。 「オレンジ色のブイが見えるでしょ。あれがスタートマーク」  翔子が、左側を見ると本部船から20mほど離れた所に俵型のブイが設置されていた。 「はい、あります」 「そのブイと本部船のマストを結んだ仮想の線がスタートラインになるの。海の上に線を引くわけにはいかないからね」 「じゃあ、ヨットの乗員がスタートラインを判断してスタートするんですね」 「そういうこと。で、スタートの合図だけど、まずスタート5分前に、ホーンと同時にさっき取り付けた青い旗を掲揚する。この旗はP旗っていうの。秒読みをするけど遅れたり、揚がらなかったりすることが無いようにね。ホーンも鳴らすけれど、本来のレースでは、各艇は旗を見て判断するからね」 「視覚優先ですね。音の速さより光の速さが速いからでしょうか? 」 「その通り。大会ではスタートラインがもっと長くなるし艇の数も多くなるから遠くからでも判断できるように、音で判断するより見て判断するの。だから、時間通りに一瞬で揚げること」 「はい」 「あと、今日は練習だから使うのはこのP旗のみだけど、総体本番は、色々な情報を旗で知らせることになるのよ」 「いろいろな情報とは例えば何でしょうか?」 「風が吹いていない時や不安定なときにスタート時間を延期するときなんか赤と白の台形の回答旗(AP旗)を揚げたりするの。まあ、だんだんと覚えてもらうから」 「はい」 「じゃあ、時間とホーンは私がやるから、翔子は、P期の揚げ降ろしをして」 「はい」  時間ぴったりに揚げ降ろしをしなければならないと聞いて翔子は少し緊張した。さらに冴子は、翔子に言った。 「それからこのマストからスタートマークまでのスタートラインを見てリコール艇がないかどうか見てあったら、教えてほしいの。リコールと言うのは、フライングの事ね。スタート時間前にラインを越えてしまった艇は、リコールと言って、一度スタートライン内に入ってスタートし直さなければ失格になるの。スタートしなおせばリコール解消になるの。でも解消しなければ、例えトップでフィニッシュしても1位とは認められないの」 「え?じゃあ自艇がリコールしたかどうかはどうやったらわかるのですか?」 「それはその艇のクルーないしスキッパーの判断ね。リコール艇があることは練習の時は、本部船から知らせるけど、本番のレースでは、誰がリコールしたかはわからないから」 「あの、では、かなりの数の艇がリコールしたらそれも一つ一つリコールを解消したかどうか確認しなければならないのですか?」 「それは、無理。かなりの数がリコールしたときはゼネラルリコールと言って、スタートのやり直しをするの。そのときは、また5分前からやりなおしをするわ。どう、わかった?」 「はあ、大体は……」 「ハハハ、大丈夫。練習、練習。やってみればわかるって。じゃあハンドマイクで、スタート練習をする事をみんなに知らせて。5分前から始めるって」 「はい」  翔子は、ハンドマイクを持ちなおして背筋を伸ばし言った。 「今から、スタート練習を始めまーす。5分前から始めまーす。スタート練習を始めまーす」  翔子は、周りに聞こえるように言った。 「いいね、いいね。じゃあ5分前のP旗を揚げるから準備して」 「はい」  翔子は、マストの後ろに座って、スムーズに旗が揚がるようにロープを確認した。翔子は、腕時計を見ながらカウントダウンを始めた。 「10秒前ね。P旗用意、7、6、5、4、3、2、1、0」  冴子のゼロの声と同時に翔子はP旗を一気に揚げた。P旗は、マストの先でひらひらとはためいた。と同時に冴子は、エアホーンを5回鳴らした。  ホーンとP旗に気づいて艇の千恵は、有園に言った。 「なんか、本部船から音が鳴って、旗があがりましたけど何でしょう?」 「スタート練習よ。翔子がハンドマイクで言ってたじゃない」 「今から、スタートの練習をするんですか?」 「そう。スタートは、レースで勝つために重要なウエイトを占めるから集中しなよ。今のはスタート5分前の合図。時計を確認しておいて。次は、4分前でホーンが4回なるからダイバーズウオッチの回転ベゼル(リング)を回して時計合わせをしろよ」 「はい」  千恵は、腕時計を見た。 「スタートまでの時間でラインの確認をするからね。他校の艇も同じように練習しているからぶつからないように注意していくよ」 「はい。あの、ラインの確認てなんですか?」 「基本的にヨットレースのスタートは、どこからスタートラインを切ってもいいからスタートライン上を走ってみて、どの位置からスタートするのが有利か判断する」 「なるほど、風は常に一定とは限らないから、本部船の近くか真ん中かスタートマークの近くからスタートするのがいいか、確かめるんですね」 「そう、わかってるじゃんか。で、スタートラインだけど。本部船のマストとスタートマークを結んだ仮想の線がラインになる」  と言って有園は、本部船のマストからスタートマークまで指でたどってラインを示した」  千恵は、本部船のマストを見て言った。 「あ、ショウちゃんとお冴さんがいるところですね」 「そう、彼女たちがスタート時にリコール艇を判定するはずだ」 「リコール?」 「フライングの事。リコールしたら、一旦スタートライン内に戻って出直すからな」 「でも、他の艇がまわりにいて戻るのは難しいんじゃないですか」 「そう、よくわかってんじゃんか。だから、リコールしないようにラインを確かめ、スタートのカウントダウンを正確にする。それがクルーの役目よ!」  と言って、千恵の肩をポンと叩いた。 「もうすぐ、4分前のホーンが鳴るから、時計を合わせて」  有園が言うと、千恵は、ダイバーズウオッチのベゼルに手を掛けた。本部船上の冴子が、エアホーンを差し上げて4回ホーンを鳴らした。 「スタート4分前!」  ハンドマイクの翔子の声が、その後を追った。 「どう、秒針の確認できたか?」  有園の問いに、 「はい、オッケーです」  千恵が明るく答えた。 「じゃあ、スタートラインの確認に行くよ。ジブイン」  千恵は、ジブシートを引いてシバーしていたジブセールをはらませた。有園はメインシートを引き込み、ポートタックで本部船に近づいて行った。周りには、スタート練習をする他艇がうようよと言う感じで思い思いのタックで艇を走らせていた。千恵は、沢山のヨットの間を走るのは初めてなので、ぶつからないかキョロキョロとした。そんな、千恵を見て有園が言った。 「そうそう、ヨットは全部で20杯いるからクルーは、周りの艇の様子もしっかり見とかないとな。変に突っ込んできたり、止まってるヨットがいたりするからな」  そういって、有園は、ティラーをさばいて他艇をよけながら本部船に近づいて行った。本部船まであと一艇身と言う距離で、 「タックするよ」  の合図で、タックして、スターボードタックになった。 「じゃあちゃんとライン上を走っているかどうか確認して」 「はい」  千恵は、センターケースに座って風上に向かってマストとスタートマークを結んだラインを仮想した。 「どう、今スタートラインはどの辺りだ?」  有園が聞いた。 「ラインから横一艇身(よこいっていしん)分内側に入ってます」  千恵は、確信を持っているように答えた。 「え、まじ? わかるのか? 」  有園は、あまりにも自信を持って答える千恵を信じて、横一艇身ライン側に艇を寄せてみた。そして、振り返って、マストにいる冴子を見た。冴子は、有園のライン確認を察したらしく。両腕で大きな丸を作って、ライン上を走っているという合図を送った。 「まじかよ! 千恵。ラインが分かるのかよ? 」 「はい。わかります」  有園は少し驚嘆した。(これは千恵にとっては初めてのスタート練習だ。海上と言う特殊な環境の中で、波の揺れもあり、しかも艇を走らせながらマストとスタートマークの仮想ラインが見えるとは。自分が、スタート練習を始めたころはさっぱりわからなかったのに。実は今でもスタートライン感覚には自信がないのに) 「もうすぐ、3分前です! 」  千恵の声で、有園は、ハッと我に返った。と同時にホーンが3回鳴った。  スタートマーク直前で、 「クローズになるよ」  と言って、有園は、メインシートを引き込んだ。艇がクイっとラフ(風上側に向く)した。千恵も、ジブシートを引き込んでクリートしトラピーズワイヤーのグリップを持ってハイクアウトした。前足をガンネルに掛けるくらいのハイクアウトでヒールがフラットになった。少しだけ、走って有園は言った。 「ベアするよ」 「はい」  ザザザと音を立て、艇はバウを風下側にむけベアした。少し遅れて慌てて千恵が、コックピットに戻ってきた。動きは、いまひとつテンポがずれていた。 「ごめん、ベアが早すぎたか?」 「いえ、私が遅いんです。すみません。お冴さんはもっと早いですから」 「ああ、そう、まあ、お冴だからね。じゃあ、つづけてジャイブするよ、ブームを反対側のタックに返せよ」 「はい」  千恵は、ブームを持って準備した。 「いくよ、ジャイブ!」  艇が、さらに風下側に移動したのを合図に有園が声を掛けた。千恵は、ブームを引き付け頭上を通過させて反対側のタックに押し込んだ。艇は、左舷側が開いたポートタックになった。さらに、ラフさせて艇を風上に向けた。 「ここでちょっと様子を見よう。ジブを放して」  そういって有園は、メインも緩めた。千恵は、ジブシートを緩めてシバーさせた。   艇は、行き足が止まり波に揺られて漂った。ここからだと本部船、スタートマーク、スタート準備をする艇が見渡せた。 「ヨットレースで勝つには……」  いきなり有園が語りだした。千恵は、時計を気にしつつも有園の顔を見た。日焼けした顔に赤いバンダナをしている。 「スタート、セーリングスピード、タクティクスこの三つのことが重要になってくる」 「はあ……」 「詳しくは、追々話すとして、まずは、スタートだ。よほどの艇の性能の違いが無ければ、スタートでほぼ第1マークまでの順位はきまる……。スキッパーは、それぞれの走り方がある。スタートが得意なスキッパーは、スタートで抜きんでた後は、常に他艇の前を走る。セーリングのスピードを重視するスキッパーは、どんな風でも常に艇のベストスピードを出すためにセールトリムやチューニングに気を遣う。タクティクスを重視する場合は、風の変化やコース取りに注意する」 「有園さんは、どういう走り方なんですか?」 「そうだな。私は、セーフティセーリング。絶対無理をしない。落ち着いて周りを見ながら。混戦に巻き込まれたり、無理なタックやジャイブをしない。そうして、着実にフィニッシュする。そんなセーリングかな。ヨットレースはフィニッシュの着順で点数がつくから、常に安定して早めの着順を走ってると最終的に上位にはいれる」 「そうなんですか、わかりました。じゃあ、スタートは、どんなスタートをします?」 「なるべく混戦に巻き込まれないように、ヨットが少ないところから出るようにする」 「でもそれじゃあ、ベストのスタートポジションじゃないんじゃないですか?」 「うん、ベストではないかもしれないけど、ベターではあると思う。私の今の技術じゃあ自分のポジションを守るのは難しいから、混戦に巻き込まれてしまうんだ。そうなると、スタートした後、他艇のセールに邪魔されてきれいな流れの風をつかめない。きれいな流れの風をフレッシュウインドって言うんだけど、乱れた風では、艇がスピードに乗らずおくれてしまう。それなら、少々ポジションが悪くてもフレッシュウインドがつかめる場所から出た方がスピードに乗れるだろ」 「はい、わかりました。じゃあ、クルーとしては、なるべく混戦にならずにフレッシュウインドがつかみやすいところからスタートできるような場所をさがせばいいわけですね」 「わたしの場合は、そういうことね」  有園が答えると、突然千恵が言った。 「スタート2分前です」  ホーンが、2回鳴った。 「ちょっとまってよ、千恵、あんた今、時計を見ずに2分前って言わなかった?」  慌てたように有園が言った。 「はい」  当然のごとく千恵が答えた。 「え? まさか千恵、あんた、時計を見なくても時間が分かるの? 」 「5分くらいは、正確に分かります」 「ええ? 何で? 」 「いや何となく頭の中で時計がちくたく鳴っているんで、それを数えていたら大体わかります」 「ハア? じゃあ、このスタート練習で、正確かどうか試してみよう」 「はい、がんばります」  艇は、本部船の後方まで行ってタックし、スタボードタックになった。 「この風だったら、なるべく本部船の近くからスタートしたほうが有利になる風だ。こういうのを(かみ)スタートって言う。逆にスタートマーク近くから出た方が有利になるスタートを(しも)スタートって言うんだ」 「じゃあ、本部船近くは、込み合いますね」 「真ん中から出よう。ヨットレースでは、真ん中あたりはリコールを心配してラインから退りがちなんだが、千恵のライン感覚を信じてトップスピードで、真ん中から出よう」 「わかりました」  本部船近くでは、ポジション取りの艇がお互いに牽制しあっていた。おたがいに、『ちかよらないで』とか『入れないよ』とか大声で言い合いをしていた。 「ああいうのが、にがてなんだよな」  有園が言った。(いやいや、言い合いなら絶対勝つよ)と千恵は思った。そうこうするうちに1分前の合図が鳴った。  本部船では、翔子と冴子がスタート1分前で準備をしながら、有園・柴田艇を目で追っていた。 「おお、ありぞん上スタートじゃないけどいい位置にいるよ。ほかに2杯近くにいるけど下がりがりすぎだね。どうしても真ん中付近は、ラインから出ているような気がするから下がっちゃうんだよね」 「お冴先輩、スタート30秒前です」  翔子が言った。 「オッケー。10秒前から1秒ごとにカウントダウンね」 「はい」  ヨットでは、有園が、少し心配げに千恵に言った。 「おい、ここ、出すぎじゃないか。他の艇はもう少し後だぜ」 「まだ、大丈夫です。ラインまではまだまだ離れています。トップスピードで、出るには5秒前から走り出しましょう。いま15秒前です」 「はい」  あまりにも確信をもって答える千恵に有園は殊勝に答えた。 「10秒前!9、8、7、6、」  千恵のカウントダウンが始まった。 「よし、ジブイン、走るよ」  艇は少しベアをして加速をしてからラフしてクローズホールドになった。やがて、トップスピードになった。早すぎる、ラインを出てしまう。有園は、思った。 「3、2、1」  ゼロのカウントと同時に、本部船のマストのP旗が降下しホーンが鳴った。リコール艇が出たらすぐにホーンが鳴る。有園は、セーリングに集中していた。千恵が、バランスを取りながら振り返って本部船をみた。 「リコール艇はなかったみたいですよ」 「うん、ここで一回タックしよう。タック用意、タック!」  艇は、スターボードタックからポートタックになった。後続の艇のトップを走っていた。 「千恵、ジャストスタートだよ。あんたのライン感覚と秒読みは本物だ」 「ありがとうございます」  一方本部船では、冴子が興奮して翔子に言った。 「見た? 見た? ジャストスタートだよ。0秒ぴったしでラインを切ったよ。しかもトップスピードで。このままレースしたらトップだよ。すごいよ、ありぞん」  この後2回ほどスタート練習をしたが、いずれも有園・柴田艇はジャストスタートをした。  スタート練習が終わった所で、正午を過ぎていたので、一旦昼休みで全艇ハーバーに戻った。各校スロープからヨットを上げ、各々の艇庫に戻り昼休みに入った。有園と千恵もゆっくりと着岸した。翔子が船台を押して船底にセットした。 「お疲れ様です!」  翔子が言った。千恵は、何も言わず微笑んだ。本当に疲れているのだ。艇を上げ、3人は南薩の艇庫に戻ってきた。部員が思い思いに地面に腰を下ろしていた。大迫が3人を迎えて言った。 「これで、全員帰って来ましたね。じゃあ、昼飯にしましょう。1年生は、お茶の準備をしてください」 「はい」  翔子が、本部船から降ろしてきたヤカンのお茶とプラスチックの茶碗を部員が座っている地面に置いた。昼ご飯は、自分たちが持参した弁当だった。いただきます。と言って、それぞれ食べ始めた。  女子部員4人は、集まって弁当を開いた。冴子が千恵に言った。 「どうだった、ありぞんと乗って。私とはまた違うでしょ」 「はい、スキッパーによってそれぞれの走り方があるのが分かりました」 「ありぞん、千恵はどうだった?」 「え、ああ、まあがんばっていたな。まだこれからってとこかな。でも、スタートのラインとカウントダウン感覚は抜群だったな。どんな状況でもあのスタートができれば強いアドバンテージになるな」 「え?あれって、千恵がラインを指示してたの?」  冴子が言った。 「ああ、秒読みなんて時計を見ないでできるんだぜ。一つの才能だね」 「チイちゃんすごい。何でそんなことが出来るのですか?」 「いや、何となく……かな」 「いずれにしてもそれは、すごいことだと思うよ。石原先輩もスタートは大事にしていたからね。じゃあ昼からは私たちもがんばりましょう」  冴子が翔子に言った。 「はい」  千恵が、翔子の弁当を覗き込んで言った。 「ショウちゃんは、今日も自分でお弁当作ったの?」 「はい、昨日よりは少し豪華なつもりですが……」 「おお、ポテトサラダが入っている。それ作ったの?」 「昨日、ばあやに作り方をおしえてもらって初めて挑戦しました」 「ちょっと味見をさせてもらっていいかな?」  千恵が、翔子の顔を見て上目づかいで言った。 「え、ええ、どうぞ。ジャガイモに人参、玉ねぎを入れてマヨネーズであえて作りました」  弁当箱を差し出す翔子。千恵が、サラダをつつくと有園と冴子もそれを見て言った。 「私もいいかな?」  2人は、いいかなと言いつつ箸でポテトサラダをつついた。翔子は、3人の顔を見比べて言った。 「ど、どうでしょう?」 「うん、美味しいよ」  千恵が、ニッコリとして言った。 「うん、初めてにしちゃ旨すぎる。ばあやさんの指導が良かったな」  有園がいった。 「次は、翔子だけで作れるよ」  冴子が言った。 「はい、ありがとうございます。がんばります」 「よかったね。ショウちゃんレパートリーが増えたね。お礼にこれ食べる?  千恵は、自分の弁当箱を翔子の前に出した。 「これ、サバの味噌煮ですね。ひょっとして昨日釣り客からもらったサバですか?」 「そう、私は、自分で作れないから母さんに作ってもらったけど。ショウちゃん、サバ食べられるよね?」 「はい、食べるだけなら何でもいけます」  と言って、サバを箸でつついた。  今度は、何も言わずに有園と冴子もつついてきた。 「おお、さすがおふくろの味旨いよ!」  有園はそういって、自分のご飯も掻き込んだ。 「昨日も料理して食べたんだろ?お弁当にまで持ってくるなんて、千恵は、魚がすきなんだな」  冴子が言った。 「はい、今度は、私が自分で釣って食べます」  四人は、顔を見合わせて笑った。ふと、冴子は、防波堤の方を見た。釣り客は、ちらほら見えたが、昨日気になった青年の姿はなかった。  弁当も終わり、ひとしきり練習の話をしていた時、集合の声がかかった。ヨット部員が、円陣を組んだ。大迫が言った。 「午後からも、風は軽風で乗りやすいと思います。気合いを入れていきましょう。FJは、南條さんと中山さんが乗って練習を。有園さんと柴田さんは、本部船勤務をよろしくお願いします。今日は、南薩の西郷先生と天文館高校の河内先生が指導者だから、指示に従って動いてください」 「はい」  有園と千恵が答えた。その後円陣を組んで声を掛け士気を高めた。  有園と千恵は、本部船に乗り込むために船着き場に向かった。冴子と翔子は、ヨットをスロープに運んだ。艇を水中につける前に冴子は、自分のダイバーズウオッチを外して翔子に渡して言った。 「午前中と同じように、セーリング練習、タックジャイブの練習をした後スタート練習をするから、これをつけていて。午前中見たでしょ。クルーが時間を見てスタートの秒読みをするの」  翔子は、ダイバーズウオッチを受け取って言った。 「はい、うわ、チイちゃんが言っていた通り少し重たい腕時計ですね」 「まあ、つけてたらなれるよ。じゃあ、いこうか!」  2人は、艇を水中につけて出艇した。  一方、有園と千恵は、本部船に乗り込んだ。顧問の西郷がエンジンをかけていた。 「西郷先生、午後からの補助員は有園と柴田です。お願いします」  有園が、西郷の背後から声を掛けた。西郷は振り向いた。 「おう、有園。午前中はなかなかよかスタートやったで」 「ありがとうございます。へへへ」  有園は、褒められたのがよほどうれしかったようだ。ニヤニヤとして千恵をみた。 「柴田は、どげんじゃ。疲れちょらんか?」 「はい、だいじょうぶです。先生こそおやっとさあです(お疲れ様です)」 「じゃあ、行っど」  本部船にエンジンがかかり小刻みに揺れた。有園がおもて(船首)のもやいを解いた。本部船ウミザクラは沖に向かって走り出した。  千恵が、防波堤の横を抜ける時ふと見上げると昨日の青年らしい姿が見えた。今から絵を描くのか、イーゼルを立てかけている所だった。千恵には、大学生ぐらいの青年に見えた。練習が終わって本部船が着岸したら行ってみようと思っていたところだった。  背後から有園ではない女性の声がした。 「あら、お昼からもよかおごじょさんなんやね」  振り向くとサングラスをして大きな麦わら帽子を被った30歳前後の女性が、船べりに座っていた。白いウインドブレーカーにオレンジのライフジャケットがいやに派手に見えた。本部船を操船しながら西郷が大声で言った。 「天文館(てんもんかん)高校の顧問の河内(かわち)先生やっど。柴田は、初めてじゃったな。自己紹介しなさい」 「あ、はい。南薩摩高校1年2組の柴田千恵です。ヨット部の新入部員です。よろしくお願いします」  千恵が、頭を下げると、のんびりした口調の答えが返ってきた。、 「はい、小柄で可愛いおごじょさんやな。うちは、天文館高校の顧問の河内美晴(かわちみはる)いいます。大阪出身やさかいこないなしゃべり方です。あんじょうよろしゅうたのみます」 「こちらこそよろしくお願いします」  再び千恵が頭を下げると、河内はいきなりしゃべりはじめた。 「せやけど鹿児島弁ておもろいなあーー。うちらの言葉で『わい』ちゅうたら自分のことで、『おい』ちゅうたらおまはんちゅうことやなのに逆なんやなあおもろいわあ。あと、てげてげちゅうことばもええなあ。うち好きやわあ」 「ああ、なんとなく適当にみたいな」 「そうそう、てげてげ……人生てげてげやわ」  いったいこの人は、何歳なんだろう……若くも見えるしおばちゃんにも見える。でも悪い人ではなさそうだと千恵は思った。  本部船が沖にアンカーを打ってからは、午前中とほぼ同じセーリング、タック、ジャイブ練習をした。その後のスタート練習では、有園が、千恵に旗の揚げ方や見通しの仕方などを教えた。4回スタート練習をして南條・中山艇は2回リコールした。混戦の中で飛び出したのはいいが、いずれもバウの部分がラインから出ていた。ラインに引き返しスタートし直したため、順位的には中位だった。 「そろそろ、帰るかね」  西郷は、そういってエンジンをかけた。 「そうですね。あら、もう4時やわ」  腕時計を見た後、河内は、千恵を見て言った。 「柴田さん、ハンドマイクでみんなにハーバーに戻るよう知らせて」 「はい、練習終了します。ハーバーに帰ってください。練習終了でーす」  千恵は、言った。そして、信号旗などの片づけを始めた。有園は、船首でアンカーを上げていた。 「あと、スタートマークを引き上げて帰っど」  西郷は、スタートマークを設置している場所まで操船して、千恵がマークを回収して引き上げた。ヨットと本部船は、ハーバーに向かった。帰る途中千恵は、南條・中山艇を見つけて手を振った。翔子も気が付いたようでトラピーズでハイクアウトしながら手を振った。  防波堤が近づくと千恵は、釣り客の様子を見つつ青年がいないか手を額にかざして探した。その時、 「あ!」  千恵は思わず声を出した。防波堤の釣り客のようには見えるが、明らかに棒状にイーゼルをたたもうとしている青年の姿が見えた。 「あの人だ!」  昨日、冴子と艇に乗っているときに見かけた青年だった。GジャンにGパンで、イーゼルの横には、キャンバスと画材をしまう木箱が置いてあった。バケットハットを深く被っているので顔は、はっきりと見えなかったが、明らかに若い青年であるということは確認できた。青年は、手早く道具をフレームの背負子に乗せ防波堤から降りて行った。 「ああ、行っちゃう」  千恵は、青年が何を描いているのか、気になりどうしても確かめないではいられなかった。(『海』の絵かしら……。うーん、見たい!)千恵は、衝動を抑えられなかった。それほど海に関することには、こだわりがあった。  西郷が本部船のレバーを操作し、エンジン音の回転数を減らすとスピードがぐっと落ちた。本部船はゆっくりと、防波堤から港内に入った。千恵は、青年の行方を追っていたが、有園から声がかかった。 「千恵、着岸したら荷物を下すから、準備して」 「はい」  千恵は、すぐに操舵室の道具箱を取りに行った。謎の青年に特に執着は無かった。      気になったのは、キャンバスに何を描いていたかであった。本部船ウミザクラが着岸し荷物を下し、係留を終えると岸壁で、西郷が有園と千恵に言った。 「今日は、おやっとさあ。手伝いありがとな。おいは、道具を返しに管理棟にいっとるで、おまんさあらはここで解散じゃ」 「はい、お疲れ様でした。わたしらは、艇庫へ行って片づけをします」  有園が言った。 「あの、有園さん」  千恵が、有園の服の裾を引っ張って言った。 「な、何だよ、気持ち悪いな」 「ちょっとだけ、ちょっとだけ防波堤の所に行かせてくだい」 「何?また魚をもらいに行くのか?だめだぜ。わたしらはヨット部だからね。釣り部じゃないからね。すぐに、艇庫に戻って片づけの手伝いだ」 「あの、今日は魚じゃなくちょっと気になることがあって。理由は後で言います。5分だけ」 「何だよ……。じゃあ、5分だけだぜ。すぐに帰って来いよ。あたしがキャプテンに怒られるからな」 「はい、すみません。ありがとうございます」  そういって千恵は、防波堤の方へ走って言った。すでに青年の姿はなかったが、彼がいた辺りに昨日魚をくれた老人が、釣りをしていた。老人は、千恵の顔を見て言った。 「おう、昨日のお嬢ちゃんじゃなかか。今日もきばっちょったな」 「おじいさん、昨日はありがとうございました。みんな美味しくいただきました」 「ほうけ、ほうけ。今日もあげたいとこじゃが、ほれ、全然つれとらんが。やっせんど」  老人は、バケツを指さした。小さいカサゴが二匹ほど入っていた。 「違うの、おじいさん。お魚じゃなくて、さっきまでここに座って絵を描いていた人いましたよね?」 「絵を描いちょった人ね?おお、おった。よかにせがおったよ」 「よかにせね?そのお兄さん何の絵を描いていたかわかりませんか?」 「わからん」 「ええ?絵を描いている時キャンバスを見なかったんですか?」 「見たが何も描いとらせんかったが。真っ白じゃった。兄ちゃんは海の絵を描きに来たと言うちょった」 「そうですか……。ありがとう。おじいさん、またね。こんどは、私も魚釣りにくるからね」 「おう、よかど。釣り比べすっが」 「じゃあ、さようなら」  千恵は、急いで防波堤を降り艇庫に向かった。  船洗い、セール洗いなど全て終わって、ヨットを艇庫に収納して片づけを終えた。いつものように部員が円状に集まってその日の反省をした。今日は、顧問の西郷もミーティングに加わり、有園と千恵のスタートについて褒めた。その後、円陣を組んで掛け声でその日の練習を閉めた。  女子4人は、そろってシャワーと着替えをして、管理棟前のベンチで休憩した。午後5時半を回っていた。有園が、紙をタオルで拭きながら千恵に言った。 「ところで、さっき本部船がついた後、防波堤に何しに行ったんだよ」 「あ、実は……」  千恵は、有園の顔を見ずに、冴子の方を向いて言った。 「昨日、あそこで絵を描いている人がいたので、どんな絵を描いているか気になって、見に行ったんです」 「ちえっ、なんねそれ。そんなことで行ったんかよ」 「で、どうだったの」  冴子が聞いた。小声になっていた。 「今日も、もういませんでしたが、隣にいたおじいさんに聞いたら絵は、まだ何も描いてなかったそうです。あと……」 「あと?」 「その人よかにせだったそうです」  千恵が、そう言った後、数秒間誰も何も言わなかった。  有園が口火を切った。 「千恵、アンタまさかその男が気になっているとかじゃないだろうな」  翔子が、言った。 「チイちゃんが、海以外に男の人に興味が出て来たなんて!そうなのですか?」 「ショウちゃん、何言ってるの。私が興味のある男の人は、加山雄三様だけよ。その人が描いていた絵に興味があったの。おじいさんによると、その人が海の絵を描こうとしていたって」 「そう、本当に絵を描きに来ているだけならいいけど」  冴子は、腕組みをしながら言った。 「どういうことだよ」  有園が聞いた。 「いや、変なストーカーみたいな人だったらいやだなって思って。何か見られているような気がするのよね」 「ハハハ、だれが? お冴を? そりゃあ自意識過剰だよ」 「いや、私を見てるってわけじゃなく、女の子を物色しているみたいな」  冴子は、3人を見ながら言った。 「き、気持ち悪いですね」  翔子が自分の胸元を両腕で隠して行った。 「船から遠目でしたが私には、そんな変な感じの人には、見えませんでした。おじいさんもよかにせっていってたし」  千恵が翔子を安心させるように言った。 「まあ、変な奴でもこっちには男子部員や先生もいるから大丈夫だよ」  有園が、足を組みながら言った。 「そうね。別に何かあったわけじゃないし。まあ、それとなく気をつけとくわ」  冴子に続けて千恵が、 「私も、時々防波堤の方に偵察にいきますよ」  と真顔で言った。 「ハハハ、千恵は、その男じゃなくじいさんが釣った魚の偵察にいきたいんだろ?」 「いえ……そんな、まあ、ちょっとは」 「さあ、じゃあ、もう帰ろうか」  冴子が立ち上がった。それに続くように3人が立ち上がりバス停の方に向かった。   ハーバーの出口では、西郷と河内がいて帰宅する各校のヨット部員に声を掛けていた。部員は、各々「失礼します」と言って2人の前を通りハーバーを後にしていた。  河内が、ちょうど通りかかろうとする千恵と翔子を見つけて言った。 「あら、新人のお2人さん。ようがんばっとったなあ。その調子でがんばってなあ。応援してるで」  ニコニコとおっとりした口調で言った。それを聞いて西郷が言った。 「河内先生、先生のヨット部にまず、新入生ば、入れんと」 「あら、そうですね。うちらもがんばらないかんな」  そんな、会話を聞きながら千恵と翔子は、 「ありがとうございました。しつれいします」  と言って会釈して、ハーバーを出た。バス停にバスが近づいてきたのを見て2人は、走って去った。  一夜明け月曜日、千恵は、練習翌日の疲れと筋肉痛で身体を引きずって、翔子(いわ)く沈みそうな船のような姿で登校した。校門を入ると、空気は爽やかで海も青く桜島は、噴煙を上げていなかった。(いつか、体力もついて慣れて、爽やかな朝を満喫できる日が来るよね……)そう信じて、千恵は、よろよろと靴箱に向かった。  背後から軽やかな声がした。 「チイちゃんおはよう」 「その爽やかな声は、シ、ショウちゃんね。おはよう」  千恵は、振り向かずに右手を振って言った。さらに元気のいい声がした。 「おっはよう。昨日は、お疲れ様」  冴子だった。(あ、デジャブ?)たしか、以前こんなことがあったような。 「お、おはようございます」  千恵は、腰を曲げて振り向いて行った。 「おお、疲れた顔をしてる。でも、慣れる慣れる。この前よりは元気そうよ。徐々に体力ついてるって。でも無理なときは早めに言ってね。今日は、陸トレ休みだし。早く帰ってゆっくりしてね」  と言ってすたすたと去ってゆく冴子を見送って千恵は言った。 「南條先輩今日もさわやかね」 「今日もはつらつとしてますわ」 「このシチュエーション以前あったよね」  千恵が言った。 「そうですね」  冴子の後姿を見ながら翔子が言った。 「そうそう、チイちゃん、今度の水曜日の放課後に、練習で着るウェットスーツとかセイリングブーツとかを買いに行きませんか?」 「うん、いいよ。かっこいいもんね。でも、どこで売ってるのかな?」 「大丈夫、私がいいマリンショップを知ってますから」 「そうか、ショウちゃんは、家族でよくダイビングとか行くんだよね。じゃあ、よろしくおねがいします」  2人の新しい1週間が始まった。  月曜日、千恵は、部活が無いので冴子に言われた通り放課後は早く帰り、間もなく始まる実力テストの勉強をした。  火曜日、陸トレ日。トレーニング内容は、いつもと同じだったが、へとへとになりながら付いて行く千恵にしては、ランニングにしても筋トレにしても少しだが、前回より楽にできたような気がした。  水曜日、翔子の紹介で、千恵は、マリンショップにウェットスーツを買いに行った。オーダーメイド製で、寸法を測り、カラーなどのデザインを決めた。千恵は、マリンブルーを希望したが、小柄な千恵が落水したときなど救助艇が見つけやすいように派手で目立つ黄色がいいと翔子からアドバイスされた。ファッションに興味のない千恵は、とにかく、着れるものなら何でもいいと、黄色に決めた。  その後2人は、ダイバーズウオッチを買いに行った。  木曜日、陸トレ日。千恵は、ランニングで最高尾だったが付いて行くことが出来た。  金曜日、実力テストがあった。千恵は、疲れていたが、オーダーしていたウェットスーツが出来上がったのでマリンショップに取りに行った。その日、柴田家はウェットスーツの話題で盛り上がった。  土曜日、海上での練習日。千恵と翔子は、教室で弁当を食べ艇庫に向かった。千恵は、さっそく、新着のウェットスーツを着用した。  FJの前で、冴子が、2人を待っていた。 「おお、千恵。新しいウェットスーツじゃない。輝くような黄色のラインがまぶしいよ。よく似合ってる」 「あ、ありがとうございます」 「あと、強風の時はその上からウインドブレーカーを着てハーフパンツをはいてればいいと思うよ」 「はい」 「また、こんど買いに行きましょうね」  翔子が耳元でささやいた。 「服装の方は準備ができたし、お、ダイバーズウオッチも買ったの?オッケー、じゃあ今日は私がレクチャーする番だから、簡単なルールを説明するね」 「はい」 「スタートはこの前スタート練習で分かったと思うけど、スタートしたヨットは、風上、サイド、風下に設置されたマークを回って最終的にフィニッシュマークと本部船のマストをつないだフィニッシュラインを通ってゴールにするの。ここまで、いい?」 「お冴さん質問です」  千恵が手をあげて言った。 「どうぞ。質問があったらどんどん聞いてね」 「あの、レースで回るマークの位置関係はどうなっているんですか?」 「いい質問ね。まず本部船から真っすぐ風上に第1マーク。距離は、その日の風の強さや波の状況など、海の状況を見て決めるの。当然風が弱いと距離は近くなるし、強いと遠目になったりする。その第1マークをスタートしたあとクローズでめざすの。で、第1マークに着いたら、マークを左に見て回って次の第2マーク、サイドマークを目指します。第2マークは、第1マークから、左45°風下にあるの。第2マークを左に見て回ると次は第3マーク。風上から見て右45°風下のマークに向かう。下マークの第3マークを左に見て回るとさっき第1マークだった上マークに向かうこれが第4マーク。第4マークを回ったら、第3マークだった下マークに向かう。これが第5マーク最終マークね。第5マークを回ったら本部船とフィニッシュマークの間のラインを通ってフィニッシュ」  冴子は、ふうーと一息ついた。 「わかりました。時計で言うと、中心を本部船とすると12時が上マークの第1、第4マーク。9時が第2マーク。6時が第3、第5マークの位置関係ですね」  千恵が、ダイバーズウオッチを示して言った。それを見ていた翔子も言った。 「なるほど、わかりやすいですわ」 「実際は、海の状況が刻々変わって風も変化するから、常にこの位置にあるとは限らないの」 「どうするんですか?」  千恵がまた手をあげて聞いた。 「余裕があったらマークを風に合わせて設置し直しをしたり、距離を変えたりするの。その通達は、本部船からの信号機をマストに揚げてするの。信号機に着いては、また追々話すわね。で、ここから、帆走する上でのルールだけど。それぞれ反対の方向から来たヨットの優先権について」 「たしかに、どちらかがよけなければならない時ですね」  千恵が言った。 「そう、で、これ見て」  と言って、冴子は、ヨットの上に置いていた、船の形をした板状の模型を2個手に持った。手のひらほどの船の形をした板の中心辺りにねじで左右に動くように止めた黒い時計の針のようなものが付いている。目の前に出して言った。 「これを、ヨットとします。で、この黒いのがメインセールとします。一方のセールは艇の左側に来ています。つまり、右側が風上になって走っている状態。この状態を何と言った?」 「スターボードタックです」  すかさず翔子が答えた。 「正解!じゃあ、反対にセールが右側に出ていて左側を風上にして走っている状態は?」 「ポートタックです」  これは千恵と翔子が同時に答えた。 「そう、で、この2艇が、スターボード艇は右から左に向かって、ポート艇は右から左に向かってクローズで走っています」  冴子は、左手にスタボード艇、右手にポート艇を持って2艇を斜め上にクロスするように動かした。 「スピード、角度は同じぐらい。このまま進むと2艇は、衝突してしまう場合。絶対どちらかがよけなければならい。どっちだと思う?せーので指さしてね」  場を盛り上げようと、少し甲高い声で冴子は言った。 「では、せーの、はい、指さして! 」  千恵と翔子は、同時にポート艇を指さした。冴子としては、2人が違う艇を指さすことを期待したが、同じものを指さした。 「せ、正解。よけなければならないのはポートです。スターボード艇は、まっすぐ行っていいことになります。で、何で分かったの?」  千恵がまず答えた。 「船舶では、同じように左右から進んできた場合、左手に見える船がよけなければならないという規則が海上衝突予防法にあるので、おそらくヨットもそうだろうと思いました」 「ふん、ふん、さすが、海好き千恵ね。ヨットの場合は、セールのある方向、つまりポート、スターボードでするの。翔子はなぜわかったの?」 「あの、図解ヨットコーチというヨットの本を見て覚えました」 「そう、私と同じね」  冴子は続けて 「2人とも正解。スターボードの艇とポートの艇が接触または、衝突したらポート艇が負けるから覚えておいて。レースだったら失格になるからね。じゃあ、この場合ポート艇はどうすればいいと思う?」 「スターボード艇をよけて後方を通ればいいと思います」  千恵が言った。 「接近する前にタックしてスターボードになればいいと思います」  翔子が言った。 「うん、2人ともそれも正解ね。じゃあ今度は同じスターボード艇が近づいて接触しそうな場合、どちらがよけなければならないか?」  冴子は、スターボードタックにした、模型を横に並べた。 「翔子は、分かるよね」 「はい、今度は、風上艇風下艇の関係になって、風上艇が、よけなけらばならないと思います」  翔子は、即座に答えた。 「そう、正解」 「お冴さん、風上艇風下艇ってどういうことですか?」 「セールが出ている風下の方にいるのが風下艇で、逆に風上側にいる艇が風上艇になるの。この模型で言ったら。同じスターボードの場合、セールは、左側に出ているから、左側の艇が風下艇、右側の艇が風上艇ってことになるわね」 「はあ……」 「まあ、ほんとうのレースでは、もっと細かいルールがあって、必ずしも風下艇が勝つわけではない場合もあるのよね。ルールについては、追々海上での練習やレクチャーで、教えていくね」 「はい」  2人は、返事をした。 「ルールを使って、自分の有利な位置に入ったり、相手を不利にしたりすることができるとレースが圧倒的に有利に展開できるの。だから、頑張ってルールをおぼえてね」 「はい」 「今日は、レースの練習をするから、実戦で使えるようにね。大きな声を出すのも重要よ」 「大きな声を出す? 重要? 」  千恵が、呟いた。 「まあ、やってみればわかるって」  冴子がそう言ったとき、部員集合の声がかかった。  いつものように、円陣になり、大迫が言った。 「今日は、少し風があるようです。白波も立ち始めました。気合いを入れて乗ってください。始めは、軽くセーリング練習をして、本部船付近に集合すること。レース練習をするそうです。女子は、まず、南條さんと柴田さんが乗り、途中で有園さんと中山さんに交代すること。本部船への着艇は、波もあるから気をつけるようにしてください。じゃあ声だして行きましょう!」  部員は肩を組んで、掛け声を掛けた。千恵と冴子は、船台を引きスロープに向かった。すでに、ジブセールがシバーしてバタバタといつもより大きな音を立てている。ジブシートが鞭のようにしなった。メインセールもゆっくりと左右に揺れていた。  本部船に向かう翔子が、千恵に言った。 「チイちゃん、ファイト!」  千恵は、たどたどしく右手を上げて、 「はい。ふぁいとお」  と、返事をした。その様子を見て冴子が、 「ちょっと、緊張してんの?このぐらいの風はまだまだよ。レースにちょうどいいぐらいね。よく走るよ。いつも練習をしている通りにやればいいから。あわてないでいこう」  と言って、笑顔を見せると 「はい」  と、小声で返事をした。 「どうしたのよ、いつもの千恵らしくないわね。まあ、海に出れば自然と元気になるかな」  2人は、FJをスロープから下し海水につけ浮き上がらせた。風は、スロープ側から吹いていたので、千恵が、バウを持って艇を支えた。冴子が船台を船底から引き上げスロープの上まで置きに行った。時々ブローが来て、バウを支えている千恵の目の前のジブセールが、激しくはためいた。冴子が、ヨットまで来て千恵に言った。 「さて、行くよ。しっかり持っててね」  冴子は、艇の真ん中あたりまで行くと、 「お願いします!」  と言って、右足から乗り込んだ。そして、スターンに行きラダーの取り付けにかかった。バウを支えていた千恵だが、時々来るブローにヨットを、持って行かれそうになるので、小柄ながら、腰を落としてバウをしっかりと体に引き付けた。 「オッケー、バウをまっすぐ押して、ヨットをバックさせて、乗ってね」  冴子が言った。 「はい、お願いします!」  千恵は、艇を押すと同時に水中から飛び上がる感じでコックピットに頭から滑り込んだ。冴子は、ゆっくりとヨットを沖に向けた。 「今は港内だから、若干風は弱まっているけど、防波堤を越えて、海面に出ると風が強くなるから気をつけてね。風は、やや、横からきているアビーム状態だから、ジブを合わすのとヒールをフラットにする事」 「はい」  港内でも、時々大きくヒールすることがあったので、千恵は早々にトラピーズリングをフックに掛けた。防波堤が近づいてきた、今日は風が強いせいか釣り客はいなかった。皆が気になる絵を描いている青年の姿もなかった。  冴子の言った通り、防波堤を越え港内から出ると波と風が一段と強く感じた。ガンネルに両足を掛けていた千恵だが、何度か両膝を伸ばしてフルハイクしなければならなかった。波は、岸寄りからの風ということもあって三角の波だった。ブローでは波頭の白波が砕けて霧状になって舞って千恵の顔を濡らした。波の音もいつもより大きくザザザとはっきり音がした。 「いい風じゃん!」  冴子が、すこしわざとらしく明るく言った。こわばっているかと千恵の顔を見ると、冴子の意に反して薄っすらと笑みを浮かべていた。顔にかかったしぶきを舌で舐めながら千恵は言った。 「お冴さん!いい風ですね。艇を打つ波の感じも、両足に伝わってきて最高です!これって、まだまだの風なんですよね!これより強いってどんな感じかなあ、すごいなあ」  怖がるどころか、喜んでいるではないか。(やっぱり、海好きを自称するだけのことはあるな。もはや海フェチだな)そんな千恵の様子を見て、冴子は、何となく嬉しくなった。  しばらくセーリングをして風の強さや振れ幅、波の状態を確かめ南條・柴田艇は本部船にむかった。本部船の屋根では、マストの所で翔子が信号機を上げる準備をしていた。操舵室から出てきたアポロキャップを被りサングラスをした男が翔子を見上げて言った。 「南薩の部員は良く動くとね。よか、新入生が入ったね、ありぞんよ」 「はい、3人新入生が入りました。」  有薗が答えた。翔子が、屋根からおりて、男の前まで行って、 「南薩摩高校1年5組の中山翔子です。よろしくお願いします」  と、自己紹介し深々と頭を下げた。 「うむ、わしは、錦江院学園高等部の伊集院(いじゅういん)ちゅうもんじゃ。わしの生徒も手伝わさにゃいかんが、新入部員が少なくて全員ヨットにのっちょるでね。今度交代して本部船の手伝いをさせるっで、今日はよろしくたのむが」  (錦江院学園と言えば、今給黎篤子の学校だ)翔子は、伊集院をそれとなく観察した。白い開襟シャツに白いズボンをはいている。鼻の下にはひげをはやしていた。にこりともせず、威圧感を感じた。 「それと、もう一人乗っちょる桜島高校の先生にも挨拶しとけ」  伊集院は、船尾を親指で指さし言った。 「はい」  船尾には、ジャージを着た男が、体育座りで遠くを見ていた。 「こんにちは、南薩摩高校1年5組の中山翔子です。よろしくお願いします」  翔子は、先ほどと同じく深々と頭を下げた。男は、海を見たままぼそりといった。 「桜島(さくらじま)高校美術教員有馬(ありま)」  その後何かをしゃべるのかと思って翔子はしばらくその場に立ち尽くしていたが、しばらく沈黙が続いたので、 「あの、本部船の仕事に戻ります」  といって、ぺこりと頭を下げてマストの所に行った。 「ありぞん、そろそろフルコースでレース練習じゃ。ヨットを周りに集めろ」  伊集院が言った。 「はい、翔子、ハンドマイク貸して」  有園がハンドマイクを受け取ると、エアホーンを連呼しながら言った。 「レース練習!フルコース!フルコース!」 「有園さんフルコースって何ですか?」  翔子が、信号機を準備しながら聞いた。 「本部船をスタートして上マーク、サイドマーク、下マーク、上マーク、下マークで本部船でフィニッシュの第5マークまで全部回ってフィニッシュするコースのこと。じゃあ、スタート5分前から始めるからP旗よろしく」 「はい、わかりました」  ちょうど南條・柴田艇が本部船に10mぐらいに近づいた時だった。P旗が上がると同時にエアホーンが5回鳴った。  それを聞いて冴子が言った。 「レースをするよ。フルコースって言うのは、5つのマークすべてを回ってフィニッシュするコースだからね。初めての練習だから焦らず確実に行こう」 「わかりました」  答えて、千恵はP旗を見上げた。そして言った。 「まず、スタートラインの確認ですね」 「そうね、本部船からスタートマークまで流してみようか」  冴子は、メインシートを引き込んで、本部船の船尾を目指した。ジブセールを合わせる千恵。エアホーンが4回鳴った。 「スタート4分前!」 千恵が腕時計を確認しながら言った。そして、マストからスタートマークをつなげてスタートラインの確認を始めた。 「南薩ファイトー!」  本部船から有園と翔子の声が聞こえた。南條・柴田艇は、本部船からスタートマークまで直線的に走り終えた。ベア、そしてジャイブをしてポートタックになってメインセール、ジブセールを緩めて艇を止めた。 「時間は?」  冴子が千恵に聞いた。 「3分15秒前です」  時計を見ずに千恵が答えた。 「え、ホント?やっぱり時計を見ないで分かるの」 「はい、ラインもわかりました」 「そう、この風だと本部船側からスタートしたらいいかスタートマーク側から出たらいいかわかる?」 「あの、風は上マークの少し左から吹いてきてます。ブローも左側の方が濃いみたいです。なので、スタートマーク近くからスタートする下スタートがいいと思いますが……どうですか?」 「よくわかったね。大抵の新人は、まだまだ海の様子など、わけがわからないはずなんだけど。千恵は、ちゃんと把握できてるよ。さすが、海好きは伊達じゃないね」 「海の様子は、今までは陸から見るだけでしたが、実際海上に出て、教えてもらうことで良く分かるようになってきました」 「すごいよ千恵、その感覚を大切に。じゃあ、スタートマーク側から下スタートといってみるか。下一番でスタート出来たらほぼトップをとったものだからね」 「わかりました」 「じゃあ、ジブイン!」  千恵は、ジブシートを引き、冴子はメインシートを引いてヨットを走らせた。前方には、同じく下スタートを狙うヨットの一団が止まっていた。 「もっと前に出ましょう。この辺で待っていると、おそらく遅れてスタートラインを切れなくなります」  千恵は、言い切った。千恵の凄いところは『〇〇と思います』といわず、『〇〇です』と言い切るところだと冴子は思った。それが事実かどうかは、スタートしてみないとわからないが、冴子は、千恵を信用することにした。スタート待ちの一団から、少し前に出た所で、南條・柴田艇はタックしてスターボードタックになりシートを緩めてその場に留まった。 「ちょっと、前に出過ぎたんじゃない?」  冴子は、心配していった。 「今の風が急に変わらない限り大丈夫です」  千恵は、上マークの方を見つめていた。 「1分前!」  と千恵が言うと同時にエアホーンが1回鳴った。  本部船では、ホーンを鳴らした有園の横で、南條・柴田艇を見て錦江院学園の顧問の伊集院が言った。 「ほう、わいの学校の艇は、面白かところに位置を取っているじゃなかか」 「はい、あのままじゃ、スタートの時リコール(フライング)してしまいそうなんですけど」 「じゃっど、走り出すタイミングじゃな。ベストスピードで出たらその時点でピン(1位)決定じゃ。時間は?」 「30秒前、29、28、27」  と、翔子がカウントダウンを始めた。(その場所からは、ジャストスタートは難しいですわ。)マストからスタートラインを見ていた翔子は思った。 「5、4、3、」  全艇、ベアをして勢いをつけ始めた。南條・柴田艇も一旦ベアし、再びメインセール、ジブセールを引き込みながらラフして、スピードをつけた。千恵は、ガンネルに両足を掛けフルハイクをした。トップスピードでスタートマークに向かって進んだ。  スタートラインを見ていた有園が呟いた。 「お冴、千恵の身体がラインから出ているぞ。リコールになる!」  フルハイクで体を伸ばし切った千恵の身体がスタートラインから出ているのだ。 「2、1」  1秒前までカウントダウンした時だった。千恵が、一瞬膝を曲げて体を縮めたのだ。そのため、フルハイクしていた千恵の身体がスタートライン内に入りリコールでなくなった。 「スタート!」  翔子はP旗を降下し、有園は、エアホーンを鳴らした。 「翔子、リコールは?お冴は、リコールだろ」 「いえ、チイちゃんが一瞬、身体が出ましたが、スタート時には、身体を縮めてライン内に入りました。ジャストスタートです」 「ええ、うそだろおい。千恵には、そこまでラインがわかってたのか?」  目を丸くして有園が言った。 「じゃっど、あんクルーは、ラインがわかっとったようじゃ」  伊集院が、厳しい顔で言った。他艇は今スタートラインを切ってスタートした。  ヨットでは、ハイクアウトをしてヒールをフラットにしながら、冴子が言った。 「千恵、リコールなしだよ。トップでスタートだ!」  波しぶきを浴びながら千恵が答えた。 「はい、スタートの感じは分かるようになりました」 「スタートの時に一瞬体を縮めたのは、ひょっとして、身体がラインをでていたから?」 「はい、小柄な私ですが、頭二つ位ラインを出てたのでライン内に引っ込めました」 「はあ、千恵にはラインがどういう風に見えるんだ?」 「スタートライン上に壁があるように見えます。その仮想の壁から頭が出たので、引っ込めたんです」 「壁!?すごいよ。千恵。そのスタートライン感覚は、私でも出来なかった。ようし、このままトップではしるよ!」 「はい」  千恵は、小柄な体を反らして一所懸命にヒールを起こした。スピードに乗って波しぶきを浴びながら、他艇の前に出た。 「よし、タック用意」  冴子が言った。 「お冴さんもう少し行きましょう。ブローが見えます」 「オッケー、でも、他の艇がタックを始めているから、あんまり突っ込みすぎると先に向こうのブローを掴まれる恐れがあるから注意して」 「はい !もうすぐです」  冴子が、他艇の方を振り返るとほとんどの艇がタックをしてポートタックになっていた。その時、千恵が言った。 「タックしましょう! 」 「よし、タック用意」  千恵は、ジブシートのクリートを外した。 「タック! 」  冴子の掛け声で、バウがラフして方向転換を始めた。  急いで千恵が、リングを外して逆側のジブシートを引いて逆サイドに移った。  ジブシートをクリートしてトラピーズワイヤーのグリップを掴んで両足をガンネルに掛けた。千恵にしては、急いでヒールを起こしたつもりだったが、艇は、かなり風下側に傾いた。  冴子は、メインセールを一瞬緩め風を逃がした。ゆっくりとヒールがフラットになった。 「やっぱ、風は強めね。でも、トップはキープしてるみたい。このまま何とか上マークまでは行きたいね。千恵、頑張って起こして! 」  と言いつつ冴子も思い切り上半身をサイドデッキの外側に出しハイクアウトした。  本部船では、伊集院がマストにつかまりレースをする全艇の様子を把握していた。 「あん、スタートの良かった南薩のヨットは、やっぱトップを走っとるね。じゃどんクルーが小さか。この風では、起こすのが大変じゃろう。スキッパーが風を小刻みに逃がしちょる。(かみ)にのぼるが大変じゃ。下手(へた)したら上マークまでには他艇に追いつかれるかもしれんな」  伊集院の解説を聞いて、翔子が有園に聞いた。 「ヒールを起こすのが難しいと何で遅れてくるのですか? 」 「ヒールをすると早い話が、ヨットが横流れする。センターボードが傾くのでその分表面積が少なくなって、横流れをして、まっすぐ進んでいるようでも、少しずつ風下に流されるんだ。特に強風では、艇をフラットに出来るかどうかが、効率よく風上に向かって早く走れるかどうかにかかってる」 「常にヒールフラットなのですね」 「そう、まあ、超ベタ(なぎ)以外はね」 「私、常にヒールを起こせるでしょうか」 「そうだな、翔子もあまり大きい方じゃないからな。場合によったら、ウエイトジャケットを着てもらうことになるかもしれないね」 「ウエイトジャケット? 」 「ベスト型の(おもり)みたいなものね」 「え? そんなものがあるのですか? 」 「あるよ。今日は、強風なんで実は持ってきたんだ。着てみる? 」 「はい、それを着て練習をさせて下さい」 「わかった。でも言っておくけどウエイトジャケットは、身体を重くするものだからね。結構体力をつかうぜ」 「わかりました。がんばります」 「翔子は、前向きだな。まあ、無理はしないようにしてくれよ」 「はい」  その頃、レース海面ではトップ艇が第1マーク(上マーク)を回るところだった。南條・柴田艇は、2番目にマークを回航した。千恵は素早く、スピンの展開に入った。ポールを突き出し上側のスピンシートをクリートし、トラピーズリングにフックをかけた。下側のスピンシートを冴子から受け取り、バランスを取りながらスピントリムをした。 「知恵、少し(のぼ)るよ! 」 「はい」  千恵は、ガンネルに右足をかけた。いつでもハイクアウトできる体勢になった。  本部船では、伊集院の解説が始まっていた。 「南薩は、2番手やね。スタートは圧倒的に先行していたのになあ。やっぱり艇を起こし切ってないんじゃな。あの1年生のクルーワークもバタバタして無駄が多いし。   まだまだ、これから練習やっでなあ」 「でも、スピードはあります。まだまだ、わかりませんよ」  有園が言った。艇が軽いせいか強風を受けて波の上をはねているようだった。  サイドマーク、下マークまでは、2位をキープした。  下マークでスピンを収納して再びクローズホールドになる。  上マークまでは、長いレグになる。どこまで順位を落とさずに行けるだろうか。有園と翔子は、南條・柴田艇を見守った。  先行艇からは、1艇身離れていた。南條艇は、マークを回航して即タックした。先行する1位艇、2位艇は、左右に分かれた。千恵は、フルハイクしながら1位艇の行った方向と、自艇がいく方向を見て言った。 「お冴さん、こちらの方向は確かに風が強いですが、私の体重では、ヒールを起こすのが限界です。ブローでは、ヒールしてしまいます。かなり横流れして風上に上るのに高さをむだにしてます。タックして、1位艇が行った方向へ行きましょう。こちらほど強いブローが無いので、安定して走らせます」 「何言ってんの。あっちについていっても抜けないじゃない。ブローがきたら、わたしもしっかりフルハイクして、メインセールを少し緩めて風を逃がして大きくヒールしないようにするから」 「それでも、かなり、風上に上る角度を無駄にしていると思います。あと、後続艇も来ています。後ろの艇も押さえないと抜かれることになります」  千恵は、ヒールを起こすのに必死になりながらも理性的に分析して言った。 「いや、とりあえず強い風を求めてこちらのコースで行ってみる」  後続艇も左右に分かれ第4マークになる上マークを目指した。  第4マークでは、南條・柴田艇は5位になっていた。  第4マークを回ると真後ろから風を受けるランニングになるので、体重の軽い千恵はかえって有利になる。スピントリムをして先行艇に近づいて行った。第5マークの回航では、5艇が混戦となった。  千恵は、スピンネーカーのダウン(スピンネーカーを下す)で少しもたついた。マストからスピンーポールを外すのに手間取った。 「焦らない、焦らない確実にね」  冴子は、決して急がすようなことは言わなかった。何とかスピンを収納し最後のレグに入った。トップ艇は、後続艇を押さえる戦術を取ってきた。  南條・柴田艇は、押さえられるのをかわそうとタックしながらフィニッシュコースに入ったが。タックごとに千恵が、足を滑らしミスをしたり、ハイクアウトをするのが遅かったりしたために、さらに後続艇に抜かれることとなり、最終的に7位でフィニッシュした。本部船の近くでヨットを留めて、冴子は言った。 「いやースタートは良かったよね。細かいクルーワークは、これからの練習だからね。15艇中の7位だから、まあまあいいんじゃない」 「お冴さん、すみません。艇をもっと起こして、クルーワークも早くスムーズにできればもっと早くフィニッシュできたのに。それなのに、お冴さんは決して『早く』とか『いそげ』とかいわないでいてくれました。何でです? 私、怒られても仕方ないのに」 「怒る? なんで? 早くスムーズにすることなんてことは最初からわかっていることじゃない。わかっていても体が動かないのはまだ経験が浅いから。それは、あなたもわかっているでしょ。いまさら言ってもかえって委縮して身体がぎこちなくなると思わない? 」  冴子は、少し微笑んで、風の音でとぎれとぎれになりながらも言った。 「お冴さんは、どうしたらそんなに動けるようになったんですか? 」  千恵は、唇をかみしめた。塩辛かった。 「うん、練習量的には、今やっている練習と同じぐらいなんだけど。あるきっかけで、急に体が思うように動くようになったの」 「ええ?なんですかそのきっかけって?」 「それがね、3日間の合宿をしたことがあったの。毎日海に出てタック、ジャイブやレースの練習だった」 「はい」 「2日目の夜だったかなあ。夢を見たの。ヨットに乗っている夢。その夢の中で私は、すごくスムーズにシートさばきやクルーワークができたの。気持ちいいくらいだった。その夢を見た次の日からだったの。急にその夢の中でやったように、体が動くようになったのは。急に楽しくなったなあ。思うようにクルーワークができるようになって。スキッパーとも動きが合うようになって。不思議な感じだけど本当の話よ」 「夢……ですか。それは、ずっと練習していたことが脳の中で熟成(じゅくせい)されて、身体の動きを抑制(よくせい)していたブロックのようなものが取れて他の手足を動かす部分とつながって、覚醒(かくせい)したからじゃないからでしょうか? 」 「え? いや、千恵の言うことは、時々難しくて何言っているかわからないけど、たぶんそうでしょうね」 「そうか……夢か。でも、いまはとにかく練習ですね」 「そうそう、だんだんうまくなるって。それに千恵には、抜群のスタート感覚っていう武器があるじゃない。それを何とか生かさないとね。そのためには、わたしも操船テクニックを磨かないといけないね」  2人が艇内でくつろいでいる時、本部船から翔子の呼ぶ声が聞こえた。 「お冴さん! チイちゃん! 交代でーす。本部船に来てください! 」 「おっと、そうだったわね。じゃあ本部船につけようか。千恵、ジブイン」 「はい」  冴子は、緩めにメインセールを引き込んで、艇を本部船に向けた。 「ヨットを本部船につける時は、風下からゆっくりと近づくこと。スピードが早かったら激突するし、ゆっくりすぎでも波があればなかなか本部船に着艇できないからむずかしいところね。無理はせず、失敗しそうだったら何かもやり直すことね。それがかえって一番安全な方法だったりするから」  そういいながら、冴子はゆっくりと本部船の左舷側に艇を着けた。  翔子が、ヨットのサイドステーを握って、本部船に引き寄せた。 「チイちゃん、おつかれさま」 「ふう、レースは、大変だったけど楽しかったよ」  千恵は、潮にまみれた顔を翔子に向けて言った。 「おい、あのスタートは、ラインがわかっていたのか? 」  有園が、艇に乗ろうと前に出て千恵に聞いた。 「はい」 「千恵は、スタートラインが一枚の壁のように見えるそうよ。そこから頭が出たからスタートの瞬間引っ込めたって」  冴子が答えた。 「すごい、空間認知能力だ」  有園が言った。 「でも、クルーワークがバタバタしてしまって、大分抜かれてしまいました。すみませんでした」 「それは、練習よ。ひたすら練習。これからだな」  有園が、前向きに励ました。 「はい、がんばります」 「じゃあ交代ね」  冴子が艇を降り、有園が乗り込んだ。その後千恵もずるずるとサイドデッキを伝って舷側から本部船に乗り込んだ。そして、翔子が持っていたサイドステーを交代して持った。  千恵が千恵が、翔子の着ていたウエイトジャケットに気づいて行った。 「ショウちゃんライジャケの上から着ているその赤いベストみたいなものはなに?」 「これは、ウエイトジャケットと言うそうです。水に濡らして重くして、ヒールを起こすの。わたしも体が小さいから、強風ではヨットを起こすのに力不足なので、少しでも体を重くしてヨットを起こせればと思って貸してもらいました」  それを見て冴子が有園に言った。 「ありぞん、大丈夫かよ。翔子はまだ体力的にきついと思うけど」 「うん、とにかく翔子が着てみたいっていうから、試しに着るだけだよ。きつくなったら脱いでもいいと思っているから大丈夫」  有園が、答えた。翔子は、お願いしますと言って、艇に滑り込んだ。 「チイちゃん無理しないでね。でも、それ私もしてみたいなあ」 「これを着てクルーをした感想をまた後で話しますわ」 「うん、じゃあファイト! 」 「いってきます」  千恵は、サイドステーを放した。艇は、ゆっくりと風下に離れて言った。 「さあ、私たちは今度は本部船勤務よ。あっと、その前に指導の先生にご挨拶をしとこうか」  冴子が言った。 「はい」  千恵が船尾方を見ると、教員と思しき男が、舷側に座っていた。一瞬目と目が合った。男が先にぼそりと言った。 「桜島高校美術教員有馬」 「南薩摩高校1年2組、柴田千恵です。よろしくお願いします」  千恵が頭を下げたが、有馬は、本部船周りのヨットを見ていた。それには気にせず千恵は、伊集院に挨拶に行った。 「南薩摩高校1年2組、柴田千恵です。よろしくお願います」  伊集院は、少しニコリとして言った。 「おう、わいか、さっきトップで下スタートをしたのは?」 「はい」 「スタートは、ぴかいちやったね。いつもあげなスタートができたら、今給黎といい勝負ができるかもな。じゃが、クルーワークはまだまだ練習じゃな」 「はい、がんばります」 「おう、きばりや。南條、今年の南薩はよか部員じゃなかか。錦江院もうかうかできんのう」  冴子は、不敵に答えた。 「はい、今年は、優勝をいただきます」 「おう、よか心がけじゃ。今給黎も油断が出来んな。まあ、きばりや」 「はい、ありがとうございます」  そう答えて冴子は、千恵を伴ってマストの方へ上がって行った。そして、ハンドマイクを取って周りの艇に向かって言った。 「レース練習!フルコース!フルコース!5分前から始めます!」  本部船の回りのヨットがスタートラインの確認など、動きが慌ただしくなってきた。 「千恵、P旗の用意。5分前のホーンならすよ」 「はい」 「5、4、3、2、1よしP旗掲揚!」  P旗がマストに揚がると同時にエアホーンが5回鳴った。  レース練習が始まった。  例によって、有園はヨットが密集している所をさけ、ベストのスピードでスタートした。    有園・中川艇の走りを見て、伊集院が冴子に言った。 「ありぞんも、スタートは今一だが中々よか走りばしとるやなかか」 「はい」  スタートをしたところで、3位には付けていた。第1マーク(上マーク)では、2位で回航しさらに第2マーク(サイドマーク)から第3マーク(下マーク)へ行く途中で先行艇を抜き1位になった。  そのまま第3マークを回航した。第4、第5マークと安定した走りをしてトップでフィニッシュした。 「やったーー!お冴さん、有園さんトップでフィニッシュです!!」  冴子の顔を見て千恵が叫んだ。 「うん、それも、後続艇を結構離してる。今年は、ありぞんも優勝を狙えるよ」  苦々しい顔をしているのは伊集院だった。 「うちのもんは何をしとるか!やっせんど。今日は、練習終わりじゃ」  冴子は、ハンドマイクで、次々にフィニッシュしてくる艇にハーバーに帰るように言った。風の強さのためか防波堤には釣り客一人いなかった。  南薩高の各艇もハーバーに戻り、片づけを終え解散した。バス停で千恵、翔子、純平が疲れた体をベンチに埋めていた。  さすがの翔子も今日は、疲れ切ったようだった。そんな、翔子に千恵が声を掛けた。 「ショウちゃん、大分しんどそうね大丈夫?」 「今日は、少々疲れました。あのウエイトジャケットを着てクルーをするのは、結構負担がかかりました」 「え? 中山さんウエイトジャケットを着てFJのクルーをしたの? 僕も一度あれを着たことあるけどまだ、体力が付いて行かず途中で脱いだよ」 「そうですね。もう少し体力をつけないと。1レースがやっとですわ。大会になると2レースも3レースもありますものね。体力を付けないと……」  一人で自分に向かって呟くように翔子は言った。 「じゃあ、わたしなんて、ウエイトジャケットを着るにはまだまだね」  千恵が言った。 「一日中ジャケットを着けていてもクルーが出来るように頑張ろうよ」  純平が言った。  ハーバーでは、有園、冴子、大迫が残って今後の相談をしていた。  有園が言った。 「わたし、今後、翔子と組みたい。あの子と乗っているとスムーズにスキッパーが出来て、周りを見る余裕もできるの。今までと違う走りが出来ると思う」 「確かにいずれは、ペアを決めなけらばなりませんが、まだ早いとは思いますが。南條さんは、どう思いますか?」  大迫が、腕を組んで冴子を見て言った。 「ペアを決めてもいいわよ。私は千恵と乗るわ。確かに技術的には、千恵はまだまだだけど、抜群のスタート感覚と状況判断力を持ってる。それに、海が大好きってところがいいわ。わたしも彼女の事、気に入っているし」 「そうですか、県大会も近いことだし、有園さんと南條さんがいいなら、それで行きますか」 「やりい!お冴ありがとう。何か今年はいいところまでいけそうな気がするんだよな」 「うん、いけるよ。わたしも去年の雪辱(せつじょく)を果たすよ」 「そうですね、今年は全国制覇しましょう! 」  3人は、盛り上がった所で、暗くなったハーバーを後にしてバス停に向かった。  翌日、冴子と千恵に大きな転機が訪れることになるとはだれ一人想像だにしなかった。  朝、千恵は、いつもの目覚ましのベルで目を覚ました。筋肉痛は少し残っていたが、ヨット部入部当初に比べると体が軽く感じた。 「ねえちゃん、部活に遅れるぞ」  弟の照男が、これもいつものようにドアを勢い良く開けてベットに飛びのってきた。 「おっと、そうはいくか」  千恵は、照男の着地地点からスルリとはなれた。 「姉ちゃん昨日も疲れて帰って来たけど、今日は大丈夫なのか?」 「ふん、わたしもね、日々進化しているのよ。今日も一日ヨットウーマンよ」 「へえ、何か意味わかんねえけど。がんばれよ」 「おう」  千恵は、着替えを済まし、朝食を終え、父母に笑顔で見送られ家を出た。  見上げた空は青い。周りの木々は、時折さらさらと音がする。今日は、いい風だ。   ブローでフルハイクする位の風かな。千恵は、思った。最近、周りの風景を見て風の強さに敏感になった。コンビニに飾ってある宣伝用の旗がバタバタはためくの見ると、練習に気合いを入れなければと胸が高鳴る。  毎朝五感の脳内での処理が、海の状態を判断するヨット仕様になっているのを、興味深く感じた。それほどヨットの事を考えている自分に気づき、ヨット部員なのだなと思う千恵だった。  商店街の入り口にあるバスの停留所は、簡易の屋根とベンチがある。千恵は、ダイバーズウオッチを見た。この時計を見ると何となく嬉しくなり心の中で、へへへとにやけてしまう。  海好きの千恵は、小学生のころからこのダイバーズウオッチにあこがれていたのだ。それが、今自分の左手首にその重さを感じている。意味もなくベゼル(時計の回りのリング)を回したりした。そうこするうちバスがやってきた。日曜日なので客は少ない。千恵は、ダッフルバックを担ぎなおしバスに乗った。  千恵がハーバーに着いた時には、部員が全員到着して一か所に集まっていた。ヨットは艇庫から出していたが艤装は、まだしていなかった。風は、千恵が街で感じたように体力的にもきつくなくちょうど乗りやすい中風の風が吹いていた。 「おはようございます! 遅くなってすみません」  千恵は、部員に向かって言った。 「いや、柴田さんが遅れたわけではないんですよ。他の部員が早く来ていただけです」  大迫が言った。 「はあ、そうですか。よかった。でも、皆さん集まって何かミーティングですか? 」 「ええ、一つは、今日からFJを2艇だします。つまり、女子4人は全員FJに乗って本部船での交代はなく練習をする。それと、もう一つは柴田さんと中山さんのことですが……南條さんと有園さんから聞いてください」 「そう千恵、あなたと翔子に関することよ」  冴子が、腰に手を当てて言った。 「え?なんでしょう?私とショウちゃんに関することって? 」  冴子と有園は、千恵と翔子の前で腕組みしててすっくと立った。 「さて、いよいよ高校総体が近づいてきたわ。今から、私とありぞんの専属のクルーを決めとくね。」  冴子が言った 「ペアを決めるってことですか? 」  千恵が、言った。 「そう、これからの練習は、これから言うペアでずっと練習をするってこと」 「は、はい」  2人は答えた。千恵はごくりとつばを飲み込んだ。 「発表しまーす」  翔子は、いつもと変わらぬ様子で涼しい顔をしている。 「柴田千恵さーん」 「はい」 「わたくし、南條冴子とペアを組みます」  冴子が少しおどけて言った。 「翔子は、私とペアだよ」  有園が、クールに言った。 「わかりました」  翔子が答えた。  その時、千恵が冴子に行った。 「お冴さん、私なんかでいいんですか?」  目を丸くして冴子が言った。 「え、どういうこと」  今度は、千恵が一瞬、翔子の方を向いて、また冴子に向き直って言った。左足先がわずかに冴子ににじり寄った。 「わたしなんかより翔子ちゃんの方が上手だし適任じゃないですか」  困ったような声を出し、千恵が言った。千恵は本当に困っているのだ。 「技術、センス、身体能力とどれを私と比べても翔子ちゃんの方が優れていると思います。私なんかより…優勝をするためなら私が乗ったら足をひっぱります」 「おい、ちょっとまてよ。じゃ私とならいいってことかよ。へたくそな千恵は、へたくそな有園さんと乗りますってか? 」  有園が、千恵の腕を持って行った。 「あの、いえそんなつもりでは……私、有園さんと乗っても足を引っ張ると思います」 「今からそんなことを言うのは、自分の責任をペアに転嫁することになるわよ」  冴子が諭すように言った。 「え? 」 「だって、負けたらあなたは自分のせいで負けたと思うでしょう。それなら、最初から自分が出なければ、自分のせいで負けるという事はないわけね。あくまでもペア自身が負けて自分は屈辱を味わわないで済むものね」 「いや、そんなことを言っているわけじゃありません。ただ選手で出るからには確実に戦力になる人でないと」 「ハハハ、千恵らしい論理的な言い方ね。翔子、私の言っている意味が分かるよね」 「……私も千恵と同じことを考えていました。もし自分がレースに出て負けたらどうしょう……と思いました。でも、……ヨットはあくまでも2人で乗って走るものですよね。勝つにしても負けるにしてもです」 「ヨットは、どうなろうと、2人で一つってことだよ」  有園が言った。  千恵は、冴子と翔子が何を言っているのかよくわからなかった。 「ということで、これからは、南條・柴田組、有園・中山組でずっと練習するからね。バンバン練習するよ。さあ、艤装をしに行って」 「は、はい」  2人は、いつもよりは力弱く返事をした。自分の乗る艇に向かいながら、翔子は、千恵の耳元で言った。 「よかったね。千恵ちゃん」 「……何でよ、全国大会優勝を狙うお冴さんが、なんで私とペアを組むかわからないわ」 「おそらく、お冴さんには、あなたに何か感じるものがあったのよ」 「何?何かって何?」  ペアを言い渡した冴子と有園に向かって大迫が近づいて来て言った。 「ペアを決めたこと、2人に告げましたか。しかし普通に考えて見ても、さっき柴田さんが言っていた技術、センス、身体能力どれをとっても中山さんの方がいいと思いますよ」 「確かにそう思う。でも、初めて千恵と乗った時、感じたの」  冴子は、海を見ながら言った。 「なにを?」 「すごく楽しかった。千恵からは海に対しての憧憬というか、畏怖というか…海へ愛みたいなものをすごく感じるの。それが、私にもひしひしと伝わって、私もとてもヨットに乗っているのが楽しく感じられた。この感覚は、私にとってヨットレースをするうえでとても大切なものじゃないか、と感じたの」 「そうか……南條さんのヨットレース観は、楽しくきれいなレースでしたよね。まあ、色々なレース観があっていいと思います。……石原先輩も、正々堂々レースを楽しむ、みたいな感じだったですよね」 「私は、セーフティセーリングね」  有園が言った。 「石原先輩…そう、正々堂々、あるいは清々しいレースみたいな感じ。それに、千恵同様海への愛も強かった」」 「そうですか……で、有園さんが惚れ込んだ中山さんは、どんなヨットレース観でした?」  翔子について冴子は答えた。 「うーん、翔子は、そつがないっていう感じ、てきぱきと何でもこなしているし。自分のすべきことを確実にやりきろうとする優等生的な感じがして。レースよりも自分のすべきことに全力を傾ける、失敗をしない使命感でレースを勝ち取ろうという感じかな。翔子は、誰と乗っても、走るクルーになると思うな。技術的には私よりも上手くなるかも」 「そうよ、翔子は逸材だぜ。いいスキッパーに育てるからね」  有園が言った。 「お互いがんばりましょう。」  2人は言った。 「そういえば、今までお互い頑張ろうなんて、言ったことなかったわね」  冴子と有園が、顔を見合わせてほほ笑みながら言った。 「さあ!艤装だ!」  部員は、それぞれ自分たちのヨットの艤装に取り掛かった。  例のごとく艤装を終え着替えを終えた南薩ヨット部員は、円陣になって集合した。大迫が練習について部員に注意を伝える。 「今日は、ちょうどいい風です、いい練習ができると思います。FJも2艇出艇します。おそらく他校も杯数が多くなると思ので、十分気をつけてケガのないように」 「はい」  部員が答えた。その後大迫の掛け声で、艇をスロープに運び随時出艇させた。南條・柴田艇も初夏の爽やかな風を受けて防波堤を抜けた。  つい釣り客を見てしまう千恵だったが、画家の青年の姿は今日も見えなかった。  本部船が、エンジン音を立てて沖に向かう。風邪は沖から吹いていた。千恵は、トラピーズリングを付けてハイクアウトしてフラットセーリングになるように小まめに体を屈伸させた。右5艇身くらいからFJが並走して来た。有園艇だった。翔子もハイクアウトしている。  千恵は、手を振った。翔子もニコリと笑って手を振った。ショウちゃんとヨットで走っている。千恵はわくわく感を覚えた。暫く2艇は、並んでセーリング練習をした。タックの練習もしたが、やはり翔子の方が、スムーズなクルーワークが出来ていた。本部船では、レースの練習をする旨をハンドマイクで宣言していた。  本部船には、西鹿児島実業の大久保と薩摩海洋高校の岡田の姿が見えた。彼らを見て千恵が言った。 「岡田先生は、今日は顔色がよさそうですね」 「そうね、良く見えるわね。先生の心配をするなんて千恵はやさしいね」 「いえ、別に……」  そうこうするうちにハンドマイクで5分前の予告があった。そして、P旗が上がった。 「ラインを確認したら、今日はど真ん中からでよう」 「わかりました」  スタート2分前。ヨットは、ほぼ横直線的に並んできた。本部船の近くに艇が少ない場所があり、有園が、広めのスペースに入ってきた。スタートラインは、ラインの真ん中あたりがへこんだ形になる傾向がある。つまり真ん中ほどラインから下がりすぎる傾向があるのだ。しかし、千恵のライン感覚では、下がりすぎであることがはっきりとわかって取れた。 「お冴さんまだ、前に十分スペースがあります」 「オッケー。あと何分?」 「あと1分5秒です」 「よし、もうちょっと前だな」  じわじわとスターラインに近づいて行った。本部船では、大久保が南條艇を見て呟いた。 「いやあ、あん艇やったよな。この前ジャストスタートしたの。今回も攻めよるねえ。ほらあ、岡田先生よく見なんせ」 「はあ、でも他艇に比べると前に出過ぎですよリコールしちゃいますよ」  ヨットでは、冴子が秒読みを確認した。 「いま、時間は?」 「20秒前です」 「わかった。8秒前から走ろうか」 「いいと思います!」 「よし、今は?」 「10秒前、9、8」 「よし、ジブイン!行くよ!」  千恵がジブインしてジブセールに風をはらませた。いったん少しだけ風下側にベアして艇速を付ける。再びラフしてクローズホールドで走り出した。 「4、3、2」  艇は、最速で走り出した。 「1、0」  ゼロと同時にP旗が降下してエアホーンが鳴った。 「見やったか、岡田先生。あの南薩のヨットまたジャストスタートやっど。正にジャストやっど」 「確かに。本部船からラインを見ているようにスタートしましたね」  明らかに南條艇はトップでスタートした。艇の少ない場所からスタートした有園艇はすぐにタックしてフレッシュウインドを掴んで3位でスタートした。  その後の展開は、いつもの展開になった。南條艇は、マークを回航するごとに順位を落とし、5位でフィニッシュした。有園艇は、3位から順位を上げ、錦江院学院のヨットに僅差で1位でフィニッシュした。  各艇本部船の近くで、漂いながらレースの反省をしていた。千恵が言った。 「すみません。1位でスタートしたのに、また、バタバタして抜かれてしまって」 「なんであやまるの? いい走りしたじゃん。私のコース取りもいまいちだったこともあるし。次はいけるよ」 「……風の強さもこれぐらいならブローでフルハイクして起こせたのに」 「いずれにしても、終わったものは終わったんだから悩んでも脳みそが疲れるだけだよ。次頑張ろう」  その後もう1レースしたが、やはり同じような順位だった。何となくどよりとした空気が南條艇を包んだ。 「何でかねえ……」  冴子は、サイドデッキに背中を預けて空を見上げた。雲一つない快晴だった。  その時だった、モーターボートのエンジン音が聞こえてきた。本部船に近づいてきている。よく見ると、レース運営用の小型のモーターボートだった。人を本部船に送り届けに来たようだった。モーターボートは本部船の右舷に着けた。女性がひらりと本部船に乗り込んだ。女性は、本部船の2人の教員に頭を下げ挨拶をしていた。  それを見ていた、千恵が、冴子に言った。 「本部船に誰か来たみたいですよ。今ボートから本部船にのりました」 「そう、どっかの先生が見に来たのよ」 「あれ、お冴さん、あの人こっち見てなんか呼んでますよ」 「え?」  本部船に乗り込んだ女性は、ハンドマイクを持って南條艇に向かって声を掛けてきた。 「あー、あー、そこのFJ。南條冴子艇は、速やかに本部船の所まで来るように」  命令調の言い方だった。しかし、冴子の顔がその声を聴いて、輝いた。 「い、石原先輩!!」 「え? あの人が石原さんですか」 「そうよ! 千恵ジブインして。すぐに行くよ」 「はい」  南條艇は、本部船に向かった。近づくにつれてハンドマイクをもって腰に手を当てている女性の顔がはっきり見えてくる。上下白地にブルーの斜めにラインの入ったジャージを着ていた。ライフジャケットも白だった。ニコニコとほほ笑んで近づいて行くこちらを見ている。白い服故よけい輝いて見えた。 「石原先輩! お久しぶりです! 」 「おう!冴!」  この人が、冴子がもはや伝説としているOGの石原真弓先輩。確かに近づいて行くにつれて何やらオーラを発しているいるような印象を受けた。千恵は、オーラを信じてはいなかったが、確かにその時はそう感じた。  石原真弓の登場が、2人の走りを大きく変えることになろうとは。 ※ 第2章 スタートラインおわり 第3章 第1マーク回航につづく
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