姉の生活と妹の気持ち

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「お姉ちゃん、描かないの?」 「……」  横目で様子を窺うと、妹はソファに寝転んでスマホをいじっていた。耳に届いた声の小ささの割に、頭は意外と近くにあった。ソファの隣にあるパソコンデスクに座っている私は、妹の脳天に今にも撃ち抜かれそうだった。 「ペン失くしちゃってさ」 「ふーん……」 「……」  少しわざとらしく聞こえたかもしれない。まあ、別にいいんだけど。  実家にいた頃、確かに私は毎日のように、暇を見つけてはスケッチブックやタブレットに向かって絵を描いていた。それは結局趣味の域を出なかったが、そう決めたのは私だ。高校生としては上手いというだけで、神絵師と呼ばれるような人たちと比べると技術が劣っていることは明白だったし、技術のなさをカバーするだけのセンスや個性もなかった。実際、高三になってから年齢を隠して投稿していたSNSでの評価は大したものではなかった。親は芸大への進学を勧めてくれたが、入る前から自信を失っている者の通う場所でないことはわかっていたので固辞した。  そして小さな会社の一般事務として就職し、同時に通信制大学にも籍を置いていた。学びたいことは特になく、大学生活にも興味はなかったが、大卒の資格だけは取っておきたかったし、余計な付き合いを避けるのに便利な口実にもなっていた。それからは両立が忙しく、絵を描く暇などない生活を送っていた。 「何やってるの?」 「大学のレポート」 「ふぅん」 「先に寝ていいよ。明日早いんでしょ」 「んー……」  先週、数週間ぶりに妹から連絡が来て、うちに泊まらせてほしいと頼んできた。近場でイベントがあるとかでホテルを予約しようとしたらどこも満室だったそうだ。そんなの最初から私に頼めばいいのに、遠慮しがちなところは私に似ていた。何のイベントか聞いても教えてくれないので、何か後ろめたいことがあるのかもしれない。…………。 「荷解きの手伝いしてあげよっか」 「え?」 「だって、ダンボールまだあるよ」 「ああ……」  部屋の隅に、一つだけ未開封の引っ越し用ダンボールがあった。ラベルなどは貼っていないが、上面に筆記体で小さく「e」と書かれていた。 「あれはいいの」 「なんで? ペン入ってるかもしれないじゃん」 「……」 「ペンがあれば描くんでしょ?」 「(かおる)、あんた何しに来たの」 「……イベント」 「何の?」 「……」 「この辺のホテル、全然満室じゃなかったよ」 「……あーあ、ばれちゃった。余計なこと言わなきゃよかったな」 「馨」 「なに、妹が姉の部屋に遊びに来ちゃ悪い?」 「悩みでもあるんじゃないの。話しなさい」 「……別に、ないけど」 「……」 「……ちょっと、寂しくて。『e』さん、全然投稿してくれないし」 「……知ってたの」 「だって、ログインしたまま居間に置いてあったことあったでしょ」  そうだったかもしれない。というか、特に隠そうとしていたわけではなく、家族に見られることを想像していなかった。 「そしたらこの前、お父さんがお母さんに『絵理(えり)なんて名前を付けたのは失敗だったかも』なんて話してるの聞いちゃって。お母さんは笑ってたけど」  それをここで言うかと思ったが、話せと言ったのは私だから仕方がない。 「私が見に行くしかないじゃんって思って」 「……馨、ダンボール開けて」 「いいの?」 「うん」  馨はすぐに私のサインが小さく書かれた画材入りのダンボールに近寄ってガムテープを剥がし、一番上に載っていた緩衝材の中からペンを見つけ出して持ってきた。 「はい、ペン。これで描けるよね」 「ありがと。すっきりした」  私は真っ白いスタイラスペンをペン立ての向こう側に差し入れた。 「でも、描かないよ」 「え……なんで?」  馨が懇願するように問う。 「今の生活に満足してるから」 「だって、あんなに好きだったのに」 「でも、趣味だから。時間ができて、描きたくなったら描くよ」  私は立ち上がった。 「そろそろ寝よっか。この週末は馨に現実的な生活のよさをじっくり教えてあげる」  釈然としない表情で俯く妹の脳天を視線で撫でながら、せっかく姉らしいことができそうな機会だから少しくらい無理しても罰は当たらないだろうと思った。
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