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「げ」
「ひっさしぶりー! ももちゃーん」
「あ、どうも」
真っ先に声をかけてきた小豆川夫妻の前にはすでに山のごとくカキの殻が積まれている。来るんじゃなかった。
「前田先生! やりましたよ。興行収入ランキング! 入ったんですよ。トップテン!!」
この連絡を取ったのは深夜二時。一瞬何の話か分からず、三秒ほど黙った。
「『何なら今すぐ帰りたい』の!? わあ、おめでとうございます」
『何なら今すぐ帰りたい』は何年か前に私が書いた脚本である。スポンサーのご意向でお蔵入りになった脚本を金田監督が拾い、ほとんど私財を投げ打って映画にした。どうなることかと胸のつぶれる思いでいたが、じわじわと売り上げを伸ばし、ついに興行収入ランキングトップテン入りしたのだ。電話してきた助監督の福本くんは涙声である。
「来週、お祝いすることになったんですけど、先生も来ませんか。監督のおごりです」
「あーっと」
正直、締め切りが近い。
「いいじゃないですか。みんな先生に会いたがってますよ」
「そう? 嬉しいな。じゃあ、ちょっとだけ」
と言った自分を殴りたい。来るメンツぐらい聞いとけばよかった。
「ももちゃん来るなんて珍しいね。牡蠣につられたとか」
「あんたらじゃあるまいし」
私は監督をはじめスタッフたちに一通り挨拶すると、小豆川夫妻の斜め前に座った。小豆川晶――旧姓高畑晶と小豆川実生は『何なら今すぐ帰りたい』の原作者である。『何なら今すぐ帰りたい』は晶と実生が結婚前に共著として発表した。私とはいわゆる作家仲間と言うやつである。学生の頃からの知り合いだ。
「そう言えば、小豆川先生って新婚さんですよね!」
助監督の福本くんが興奮気味に言う。私はそれを無視して牡蠣とビールを頼んだ。福本くんはすっかり出来上がっている。
「どうですか。新婚生活は」
「ひとりが恋しい」
答えたのは実生。
「わかるわー。家帰る時に電気ついてるとなんかがっかりするよね」
同意したのは晶。
「新婚のセリフじゃねえ」
福本くんがぼやく。この夫妻にベタなシチュエーション求めたって無駄である。
「普通、一刻も早く顔見たかったとか思うもんじゃないんですか!?」
「毎日見てるし、代り映えないし」
「もう。晶さんたらツンデレ」
福本くんがんばる。
「ツンデレって。こいつデレどころかツンもねえけど」
実生は牡蠣に塩を振りながら言う。
「どういうこと!?」
「至って冷静だぞ。こいつ基本。キスの時目、つぶらねえしな。ばっちり目ぇ開いてしかも真顔」
そんなキスやだ。
「どんな顔してんのかと思って。ほら、作家たるもの常に冷静沈着に人間観察」
「俺を観察すんな。タダの嫌な奴だぞ。それは」
「嫌な奴じゃなきゃ、作家にはなれんでしょ」
「その理屈だとあんたもうすぐノーベル文学賞だよ」
福本くん。新婚の嬉し恥ずかしきゃっきゃうふふを聞きたいならこのふたりはミスキャストもいいところですよ。監督になりたいならもっと人間見た方がいい。
「家事とか分担どうしてるんですか」
「ほぼあたしがやってる」
「えー、意外。平等なのかと思った」
「いや、このひとがやるなって言うから」
「だって洗濯物の干し方はめちゃくちゃだし、料理させればひったすら散らかすし。仕事増えるんだもん」
「……こんなに口うるさいと思わなかった」
「口うるさい? ごっ冗談でしょ。人間らしい生活のための最低限のレクチャーよ」
「下着姿歩いて俺を跨いで自室に行くあんたに人間らしさをレクチャーされたくねえ」
「何事もオープンが長持ちの秘訣」
長持ちのためのオープンは下着姿でうろつくという意味じゃないから。
「じゃあ、お互い全てオープン隠し事ゼロ?」
「隠し事?」
晶はにまっと口角をあげた。合わせて細めた目が妙に艶っぽい。
「そりゃもう星の数ほど」
何事もオープンはどこへ行ったか知らないが、確かにこの流行作家はちょっと前まで冗談のように浮名をいくつも流していたのだった。流し過ぎて、普通の男が怖気を振るって近寄ってこないぐらいだった。実生には言っていないこともあるだろう。
「なにが星の数ほどだよ。それあれだろ。ヘソクった金で高級プリン食ったやつだろ」
「え、何で知ってんの」
思っていたのとだいぶ違うな。
「ゴミ箱にプリンのカップ捨ててあった」
「ゴミ箱除くなんて悪趣味」
「ゴミ箱にそれしかなかったら見るだろあほか」
「実生さんは? 隠し事」
福本くん、露骨に方向転換。
「俺だって星の数ほど」
「どーせ、あれでしょ。こっそり高級寿司食ってアニサキスにやられてこっそり治したことでしょ」
「おい、誰だチクったの!?」
「馬鹿なの? 電話でべらべら喋ってたでしょうが。ご自分で。締め切りの言い訳に」
「盗み聞きなんてタチ悪いぞ」
「何が盗み聞きよ。一緒の家で仕事してんのよ。ドア開けっぱなしで喋ってて聞こえない方が変でしょうが。武士の情けで聞いてないふりしただけありがたいと思ってよ」
「あ! だから高級プリン買ったのか。どこが武士の情けだよ。きっちり元とってんじゃんか」
「プリンと寿司全然値段が違うでしょうが!」
「一個千円近いプリン、一〇個食えばもうどっこいだろうが!」
始まったよ。この年だけアラフォー直前小学生カップルを誰か止めてくれ。
「もういいです。プロポーズの言葉は」
めげないなー。福本くん。
「俺ん家一〇階だからどお?」
「はい!?」
ぶっ。ビールが気管に入った。
「先生大丈夫ですか」
「大丈夫」
他のスタッフが背中をさすってくれた。
「なんですかそれ!?」
福本くんごもっとも。でもそれ事実。
「なんだっけえ」
「忘れた」
「あー! 隠しましたね今」
「あ、牡蠣追加! 生ガキ、蒸し牡蠣四つずつ」
「俺焼き牡蠣五つ」
「教えてくださいよ」
真相はこうだ。
晶はとある俳優と付き合っていたのだが、そのせいで相手のファンに嫌がらせを受けていた。自宅の窓ガラスに石を投げられたのを皮ぎり嫌がらせはエスカレートしていった。晶は耐えた。珍しく晶はその俳優に本気だったのだ。だが、相手は自分のファンの嫌がらせがエスカレートした途端あっさり晶を捨てた。嫌がらせは止まることはなく、俳優は逃げっぱなしで何もしようとはしなかった。元々暗かった晶の作風は更に暗くなっていた。皮肉なことに晶の作品は順調に評価されていき、流行作家とまで言われるようになったが、私は少しも喜べなかった。
「いやあ、参った。晶ちゃん失敗の巻き」
私がしつこく誘ってようやく来た作家仲間たちとの飲み会で彼女はそう笑い飛ばした。だが、晶の目は怖いほど遠くを見ていて、一緒に笑うことなどできなかった。
「いやもう、ネットなんか見なきゃいいだけなんだけどさ。窓ガラスは困んのよ。ガラスって高いんだわ」
声は場違いなほど底抜けに明るいのに視線は遠いままだ。何とか話題を変えようと焦ったその時、いままで黙っていた実生が言った。
「俺ん家一〇階だからどお? クレーン車でも借りない限り投石で窓ガラス割られるなんてないぜ。セキュリティばっちりだからポストに変なもん突っ込めねえし」
「そうだなあ。そうするか」
晶はぼんやり笑った。
「ついでに結婚しない? 俺は嫌がらせぐらいじゃあんた捨てたりしない。小説のネタになるし」
「あれ、あたしつけ込まれてる?」
いつの間にか晶は真っ直ぐ実生を見ていた。実生は目をそらすことなく無表情に言った。
「まあね。でも、あんたがつけ込まれたとして、そんなのつけ込まれるのが悪いだろ」
晶は笑い出した。そして次の日に結婚。目の前で一連みせられた私の身にもなって欲しい。嬉しくなんかない。断じてない。
「えー、教えてくださいよ」
「言ったでしょ」
晶は何人もの男を魅了したとびっきりの笑顔で言った。
「隠し事は星の数ほどって」
あーあ、隣の無表情を装った男の顔ったら! だから二人そろった飲み会なんて行きたくなかったんだよ。私と会う度に遠回しに惚気やがって! もう、胸やけしそう。
「前田先生は知ってるんでしょ。教えてくださいよ」
「いや、知らない」
教えてたまるか。いつか脚本にして世界規模で恥かかせてやる。
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