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東京駅のタクシー乗り場は、その日もすっきりとしていた。
人が来ては車を出し、車が戻れば人を乗せ、赤血球じみたサイクルを毎日繰り返しているようだ。地元の仙台ではタクシーが溢れるほどに並んでいたのだが、東京に来て、それがないことに驚いた。きっと使う人が多いから、いくらタクシーがあっても困らないのだろう。
黒光りするそれに近付く。先頭は、少し大きめの車種のタクシーだった。あのランプを頭に乗っけたような、覆面パトカーならぬ覆面タクシーみたいなやつだ。
「荷物、どこに置けば良いですか」
開口一番に私は訊ねた。車通りが多く、エンジン音がうるさいから、自然と大声になる。
「ああ、ちょっと待ってください」
運転手も大声で言い、すぐに降りてきた。二十代後半ぐらいの若い男だ。慣れた手つきで私のスーツケースをひょいと持ち上げる。
「うちはトランク使えないので、後部座席でも大丈夫ですか?」
私が頷くと、彼は「ありがとうございます」と頭を下げ、後部座席へとスーツケースを押し込んだ。一瞬、こんなに若い人がタクシー運転手をやってるなんて、と意外に思うが、東京ならば暇も無さそうだし、ドライブ好きにとっては良い仕事なのかもしれない。
中に乗り込んでドアを閉めると、先程の喧騒が嘘のように小さくなった。行き先を伝えると、車はすぐに走り出す。
「東京に来るのは初めてですか?」
少しして、運転手がそう言った。
「はい。実は初めてで」
「そうなんですか」彼は少し驚いたように言う。それから少し声色を明るくした。「楽しいですよ。色々あって」
「そうですか。いやまあ、仕事で来たので何とも言えないですが」
「あ、そうなんですか」
運転手が苦笑した。「そんなに大きいスーツケースを持っているから、てっきり」
仕事で来るのが初めてだなんて、なんともつまらない話である。私も苦笑いしてスーツケースを見た。中身は半分ほど仕事の資料だ。
「じゃあそうですね、何か困ったこととかないですか?」
「ああ、道が入り組んでいて難しいこととか」
私はすぐにそう口にする。これまでにも何度か迷子になっていた。仙台はどこもかしこも真っ直ぐで、簡単に目的地に着くのだが、東京ではそうもいかない。ここに来て、私の中の方向音痴が本領を発揮し始めていた。
「ここだと運転、大変じゃないですか?」
「そんなことないですよ」
彼は笑って言う。「今の時代、カーナビがありますから。素人にだって務まる仕事です」
なるほど、と相槌を打つ。だから若い人も多いわけだ。むしろ年の行った人よりも、機械慣れしている若者の方が向いているのかもしれない。
しばらく沈黙が流れた。
不意に肩に鈍い重みを感じて、大きく伸びをする。仕事の疲れが溜まっているのだろう。肩を回すと小さく骨がなり、私は顔をしかめた。
腕を下ろそうとした時だ。
座席に放り出した手に、何かピトリと濡れたものが当たった。その気持ちの悪い感触に、思わず小さく声をあげる。反射的に手を引っ込めた。
「え」
右手を見て、心臓がどくんと揺れるのが分かった。
手のひらに、何か赤黒い血のようなものがくっついていたのだ。
「なに、これ」
「お客さん」
運転手が静かに言うのが聞こえた。「もしかして、血ですか」
「え、あ、はい」
「そうですか。血がありましたか」
彼は取り乱してはいなかったが、どこか少し考え込むような様子で、ハンドルを握っていた。そして、呟くように言う。
「あれが乗っていきましたか」と。
「どういうことですか」
私は動揺で上手く体を動かせないまま、訊ねる。触れてしまった右手がまだ濡れていて、空気でそこが冷える度に、鳥肌が立った。
「幽霊ですよ。最近、この辺では有名な話です」
運転手は言った。「神隠しに合い、見つけられずに死んだ人間が、どうにかして家に帰ろうとタクシーに乗るんです」
「か、神隠しってそんな」
「いえ、嘘ではありませんよ。この辺りでは実際、失踪事件が相次いでいますから」
「本当にそんなことが」
「すみません、まだ血はついていますか?」
運転手に言われ、私は震えた手でトランクを自分の方へ寄せる。座席は依然、じっとりと赤黒かった。
「まだ、濡れてます」
「そうですか」
そこで運転手は息を着き、「落ち着いて聞いてください」と何度か言った。そして、カーナビに逆らうようにしてハンドルをきった。
「そこの座席、まだ濡れているのであれば」
彼は忌々しげに続けた。「まだ乗っているんですよ」
「な」
全身に鳥肌が立つのが分かった。金縛りにあったように、全く横を向けなくなる。
「そんな。どうしたら」
「一度下りましょう。少し山手ですが、タクシーが止まっている場所が近いので、そこで下ろします。お代はいいです」
運転手は早口で言った。普段よりだいぶ飛ばしているように感じる。私は一向に消えない不安を抱えたまま、頷くことしか出来なかった。少しづつ、街の明かりが消えていく。
◇◇◇◇
山奥の空き地に車を止めた。ここにはいつも通り誰もいない。鈴虫の鳴く声だけが延々と響いていた。
「危ねえ、拭き忘れてた」
男はそう呟き、座席に残ったシミを拭き取る。前の客のものだったが、今日はあまりにも気分が良く、勢いに任せて、うっかりすぐに車を出してしまったのだ。
「全く、いらない荷物が増えたな」
タバコに火をつけ、ため息と共に煙を吐き出した。後部座席に転がったままの死体をどうやってトランクに押し込もうか考えていたのだ。トランクには先客が居る。文字通り先客が、なんてつまらないことを頭に浮かべながら、男は車の上のランプを外した。服を着替え、白い手袋を外す。
血まみれの女を一瞥し、「お前、化けてでるなよ」と冗談口調で言った。
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