弐 海の涙

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弐 海の涙

弐. 『海の涙』 十年前の大城戸(おおきど)  それは十年前のことだった。  満月の夜、俺はある友人に会いにキギスの地を踏むことになる。しかしそこは友人から聞いた話とは全く違う真っ暗で陰湿な土地だった。ともかく俺は港から出てすぐに友人からもらった手紙の裏面に描かれた地図を辿って目的地に向かった。    そこには燃え尽きたばかりの焚き火の跡と四方に散らばっているまだ血も乾いていない相当の数の死骸(しがい)が見えた。不安になった俺はもしものことを考え、死骸に友人が混ざってはいないか、まず死骸の顔を一体ずつ確認した。    腕や脚が一本ない死骸はもちろん死骸の一部は首を斬られていたので頭部を探すのに少し時間を取られてしまった。目ん玉や五臓六腑を抉り取られた見るに耐えない死骸もある。俺は死骸を一体ずつ運んで地面に並べた。 「二十四体目…。これで最後か。」  血生臭い匂いで淀んだ空気の中で最後の死骸の顔まで確認を終えた俺はそこに友人がいないことに気づく。亡者たちの前で失礼だとは思っているが俺は内心ほっとしていた。俺はすぐにその場から離れて煙が上がっている他の野営地に駆けつけた。 ——嫌な予感がする。まさかここで戦闘が起きていたとは…。このままだとみんな殺されてしまう。どこだ。どこにいるんだ、アヤメ…!  焦燥感が極限に達した俺はアレを使うことにする。刃のぶつかり合いで鳴り響く鋭い音にだんだん近づいている。まだ誰かが応戦しているようだ。俺は一人も死なせたくない気持ちで腰に差していた刀を右手でぎゅっと握り全力で走った。そして視界から見えてきた住民の方へ跳躍し刀を持った兵士の斬撃から住民を守った。 「どなたかは存じませんが、ありがとうございます。」  住民は怯えながら俺にお礼を言った。 「そうしている場合じゃない!モタモタしないで早く逃げろ!今は自分の身の安全だけを考えるんだ!」  俺は住民を逃し、力で押さえていた相手の刃を左に流す。そして相手の刃に反動を起こしそのまま弾き飛ばした。その一振りで距離を取った俺は相手の目的を訊く。 「何やつだ貴様らは。なぜ無辜(むこ)の住民を殺戮(さつりく)してやがる!」 「はぁん?無辜の住民だと?あいつらは生まれたこと自体が大罪なんだよ。出来損ないの欠陥品どもめが…。この国の陰で虫みたいにこそこそと村なんか作りやがって!」 「俺を貴様らの頭のところへ案内しろ。会話で解決する。」 「おいおい、今誰に指図してんだ?イソトマ様がお前なんぞに顔合わせするはずがないだろうがよ!」  俺はこれ以上話にならないと判断し、刀を振って距離を詰めてくる相手を居合で斬り倒した。多少の返り血が袖に吹き飛んで滲んでいく。 「く、クソが…。」 「もういい。他をあたる。イソトマか…。」  その瞬間、隣の森の方から女性の悲鳴が聞こえた。 ——この声って、まさか!  不穏な予感が迫ってくる。俺はすぐに悲鳴が聞こえたところへ向かった。生い茂る森の木々を潜り抜けると、そこには血塗られた異国の袴を着た女性がうつ伏せで倒れていた。俺はすぐに駆けつけて女性の体を起こす。そして顔を上に向けると彼女は俺の友人アヤメだった。暗くてさっき遠くから見たときは気付かなかったが、近くで見ると腹部を深く斬られ大量に血を流していた。 「おい、しっかりしろ!アヤメ!一体この村で何があった!」 「オルくん、来てくれたのね…。ごめんね。せっかく遠いところからキギスまで来てくれたのに…。」  彼女は声を出すことすら自由にできないくらい衰弱していた。 「無理するな。出血が酷すぎる。とりあえず傷口を塞ぐぞ!」  俺は慌てて着ている羽織の袖を引きちぎって彼女の手当てをしようとした。しかし彼女は俺の手を止めて小さい声で話した。 「あなたらしくないね…。ゴホッゴホッ…。あのね、オルくんに一つお願いがあるの。」  彼女は口から血を吐きながら俺に頼んだ。 「浜辺に…。浜辺に赤ちゃんがいるの。」  確かに彼女からの手紙には会わせたい人がいると書かれていた。さぞ、久々に会う俺にその赤ちゃんを見せたかったんだろう。 「それってお前の子か?」 「そうよ。私の力で結界を張って守っているんだけれど、このままじゃあの子が危ないわ…。」 「ここから浜辺までどれくらいかかるんだ?」 「七町(約700m)はするところよ。私はいいから置いて行きなさい。早く…。」  俺は彼女の言葉に即答できなかった。何を優先すべきなのか、俺には分からない。突然遭遇したこの状況が俺の思考回路を遮り、まるで足に重い鉄枷がはめられたように一歩も動くことができなくなっていた。 「オルくん…!早くいくのよ!」  その瞬間、裏藪がざわめき、まもなく周辺が謎の人影に囲まれていた。アヤメの声にはさっきよりも切実さが増している。 「お願い…。あの子だけは死なせたくないの。」 「親のいない子供がどうやって育つんだ!お前が死んだところで元も子もないんだぞ!!」 「でも今あの子を助けないと後できっと後悔しそう…。」  彼女の口癖だったあの言葉を聞いた俺は無意識に彼女を持ち上げた。アヤメは俺の行動に動揺する。 「何を…?!」 「お前がそこまで言うなら子供は助けてやる。でもお前を見殺しにできるほど俺は 無情者じゃねえ。ちょっとだけ我慢しろ。飛ぶぞ!」  俺は足に力を集中させて空へ跳ぶ。そして差し迫ってくる影を掻い潜り、急いで浜辺に向かった。後ろにはおよそ四、五人の追手が付いたようだった。浜辺までの距離が七町とはいえ人を抱いて走ることで大変体力が消耗される。しかし、相手が人族(じんぞく)である限り足を止めてはすぐに捕まってしまうだろう。 「しっかしまずいな、この状況は。こっちはだいぶ体力使っちまったっていうのに、あやつらはピンピンしてやがる…。」  俺が汗を掻いて走ると俺に抱かれているアヤメが目を閉じたまま言う。 「追手は五人よ…。」  そういえばアヤメは周辺の水蒸気の流れを利用して空気の流れを読むことができるんだった。 『紫眼(しがん)の涙』  彼女はいきなり神才(しんさい)を唱えた。 「お、おい!その体で神才はやめろ!」  一瞬彼女の神才により草木に結んだ露が一か所に集まり直径六尺(約180cm)はある水玉が形を作っていく。その水玉は紫色に染まり二人の追手を閉じ込めた。その二人は水玉から逃れようと頑張って足掻いたが水玉は二人の動きに合わせて空中で形を変えながら動いていた。 「あれは溺死(できし)だな…。」 「殺さないわよ。気を失わせるだけ…。」 「お前は甘いんだよ。まだ三人もいるぞ。」  いつの間にか追手との距離は縮み、その三人の一人は木の上から俺に刃を向けて飛び降りてきた。両手を使えない俺は反撃することすらできず追手が仕掛けてくる攻撃をいちいち避けなければならなかった。それが気になっていたんだろうか。アヤメがまた神才を使う。 『梅雨波(つゆなみ)』 「おい!それはこっちもまずくなるぞ!」  彼女は海の加護を受けた神族(しんぞく)。しかし海がない地帯でも梅雨や水蒸気を大量に凝縮して巨大な波を作ることができる。威力は言うまでもない。が、味方まで波に巻き込んでしまうのが問題だ。俺はすぐに木の上に跳躍して波から逃れた。束の間、追手の三人は巨大な梅雨波に遠くまで流されて視野から徐々に消えていく。俺は木の上を飛び渡って浜辺に向かった。するとだんだん潮の香りが濃くなっていく。 「アヤメ、大丈夫か?もうすぐ浜辺に着くぞ。もう無理しなくてもいいんだ。」 「ありがと…。」  俺も大分疲れが溜まって肩で息をしていた。汗を流しながら森を潜り抜けると、水平線の向こうから吹いてくる夜風が顔に当たって熱で火照った体を冷ましてくれる。俺の目に映った浜辺は満月に照らされ、まるで自分が海の中の世界にでもいるような幻想的な雰囲気を醸し出していた。しかし、そう突っ立っていたのも束の間、俺はすぐ正気に戻って彼女に子供の居場所を訊いた。 「おい、アヤメ。子供はどこだ。」 「あそこよ…。」  彼女は子供の居場所に指を差した。すると、潮が一部宙に浮き強烈な光を放った。清く綺麗な水色の光から小さな赤ん坊のシルエットが見えてきた。そして赤ん坊の身を包んで渦巻いていた潮が和らぐと赤ん坊が姿を見せる。俺は海に足を踏み入れて赤ん坊が浮いているところへ近づいた。 1dafad6b-11ca-4fcf-ba6e-cbef7f480a32 「その子の名前は海時(カイト)。いつ、どんな時でも海のように広い心を持った優しい男であれ、という意味で付けた名前よ。誰かさんみたいにはならないように、と思ってね。」 「余計なこと言うな!お前はいつも一言多いんだよ!ったく…。それより…、海時か…。」  俺は海時に手を差し伸べた。すると海時は小さな手で俺の人差し指を掴んだ。彼の水縹(みはなだ)の髪と瞳を見るとまるで海の妖精にも見える。俺は海時を抱いてアヤメの方へ戻ろうとした。このままだと彼女の命も危ないからすぐに手当てをせねば、と思うところだった。その時、森の方角から一発の矢がアヤメの方に飛んできた。 「危ない!」  咄嗟(とっさ)に体を動かし戻ろうとした俺は飛んでくる矢の速さには勝てず、ただその矢を見据えることしかできなかった。矢はアヤメの背中を突き刺さり、その勢いで矢先が彼女の腹を貫いて地面に刺さった。彼女は涙を流しながら俺の方に顔を向けた。そして、そのまま膝から崩れ落ち地面に倒れる。 「アヤメ!!!」  俺は慌てて彼女のところへ駆けつけて声をかけたが、すでに彼女は頬に涙を流したまま永い眠りについていた。 「クソ!くそったれが!!」  俺は人間に対する怒りが増して憤怒にわなないた。いや、これは人間だけの話ではない。神も同じだろう。  その時、矢が飛んできた方から男の声が聞こえて来る。 「クソ(あま)が、やっとくたばったな。白々しい神め。」  さっきの追手の者たちだった。さっきより数が増えて十二人もいる。ここで俺が為すべきことは、彼女が命がけで守ったこの小さな命を最後まで守り抜くこと。俺は海時を暫くアヤメの隣に居させて、怒りに震える左手で鞘を握り警戒を怠らなかった。 「貴様らだけは許せない…。」 「おい、もう断念しろ!お前もすぐにそいつと同じところへ送ってやるからよ!」 と、俺を囲い込んだ兵士たちは一斉に刀を抜き、俺に飛びかかろうとした。その瞬間、突然アヤメの体が発光して眩しい水色の光を放つ。俺と兵士たちは一瞬動きを止め目を塞いだ。 「なんだこの光は!危うく目を持っていかれるところだった!あの神め、最後まで俺たちの邪魔をしやがって!」  暫くそのまま周囲が白く光ると、今度は巨大な津波が俺たちを襲いかかる。兵士たちは津波に呑まれ全員姿を消していた。しかし俺と赤ん坊はなぜか波に呑まれずその場に残っていた。アヤメと海時のところに目を向けるとアヤメの光は徐々に弱まりアヤメの体が小さな光の粒になっていく。すると波に溶け込んだような声が耳元に響いた。 「オルくん。人間を憎まないのよ。」  アヤメの声だった。彼女の光は少しずつ光を失っていく。 「アヤメ!俺は…俺は!これからどうすればいいんだ。いつものように答えてくれよ!……。」  彼女の光から声が聞こえる。 「自分でその答えを見つけ出して。私はあなたを信じている。」 という言葉だけを残して散り散りになった彼女の光は海へ帰ってしまった。  浜辺には俺と海時二人だけが残された。気がつくと、海時の隣には青く光る石ころの大きさの水晶が落ちていた。俺はそれを右手で握り、黙々と今宵を照らしている満月を見上げながら頬に涙を流す。 「この世界はなんの罪もない人たちをここまで残虐に殺める。彼らは、ただ幸せな生活を送りたかっただけだ。しかし、彼らは時代が変わってもいつもこの世界に踏みにじられる。だからこの世界はもうダメなんだ、アヤメ。調和も和協も和解も知らないこの世界でお前が言うその答えが見つかるはずがないんだ…。」  そうやって月影を背にした俺は赤ん坊の海時を抱いたままトボトボと森の中へ姿を消す。 「今やらなければ後で後悔する気がするんだ!」  海時のやつがあの言葉を口にした時、俺はまるでアヤメを見ているかのように一瞬彼女と重なって見えた。 「あ、アヤメ…?」  つい俺はアヤメのことを口に出してしまい、慌てて蘭茶を飲む。  俺はあの事件があった以来、この世界を恨んで生きてきた。無論、彼女が残したあの言葉も水に流したまま十年が過ぎていたのだ。しかし、海時のあの言葉で少し分かった気がする。この子はその答えを見つけようとしているのではないかと。俺は今まで隠していたアヤメのことを海時に話すことにした。 「そういや、今までお前に両親のことを教えてなかったな。」 「両親?なんだそりゃ。」 「両親ってのはお前をこの世に生んでくれた人のことなんだよ。父さんと母さんのことさ。二人が互いに愛し合ってお前はこの世界に生まれてきたんだ。」  海時は意外そうな表情で俺に訊く。 「え、俺にもいるの?父ちゃん母ちゃん。」 「ああ、遠いところだけど、お前にも母ちゃんと父ちゃんはいる。」 「どこにいるの?」  その質問に俺は死ぬ前のアヤメの顔を思い出してしまった。 「この崖から見える海の向こうかな。」 「そうなんだ。帰っては来ないの?」  俺は深入りしようとする海時にしらを切って言う。 「さあ、どうなんだろうな。随分遠いところにいるからな。」 「じゃあさ、俺が強くなって外界へ出たら母ちゃんにも会ってくるよ!」  俺はその言葉を耳にして紡ぐ言葉を失った。 ——これ以上はやめておこう…。  俺は食事が済んだ卓袱台を片付けた。そして洗い物をしながらいろいろと考え事をする。その結果、俺があの子を強く鍛錬させるという結論に至った。俺は洗い物を終わらせて手を拭いてからボウッとしている海時に言う。 「じゃあ、明日から覚悟しろよ。」  俺は海時にその言葉だけを残して部屋に入り灯りの元でニヤッと微笑んで日記を書く。
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