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彼女の部屋
「また来たの?」
マンションのドアを開けながら、春真は呆れたように言った。客人である奈津美は「来たよ」と短く答えると、自分の部屋へ入るがごとく遠慮のない足取りで玄関へ進み、靴を脱ぐ。春真はゆっくりと首を振ると、回れ右して廊下を引き返す。
その背を追いかける前に、奈津美はちらりと、靴箱の上に飾られた、マンションの玄関口には大きすぎる油絵を見た。どこかの湖を描いた風景画。森の緑のなかに広がる青。何度も春真の部屋には通っているが、そのたびに圧倒される。
玄関のドアが閉まると、途端に油絵具特有の匂いが鼻につく。家主の春真は画家であった。廊下とリビングをつなぐ扉は開かれており、新聞紙がひかれたリビングと、その上に立てかけられたイーゼルが見える。春真は絵の具に汚れたジーンズに長袖のTシャツに、デニム地の茶色のエプロンという出で立ちだった。彼女は訪ねてきた奈津美を構う気はさらさらないらしく、何事もなかったかのようにキャンパスに向かっている。
「忙しいの?」
リビングのソファーに座りながら奈津美が訪ねた。
「別に。でもかまえないよ」
「いいよ。漫画買ってきたから。五冊」
紙袋から漫画本を出してソファーに並べた。春真はちらりとも漫画を見ない。自分の描いている絵に向かって目を細めたり、見開いたりしている。
代わりに奈津美を迎えたのは、ヨークシャーテリアの小太郎であった。十一歳という歳であり、加齢により口の周りの毛が白っぽくなっている。それでもリズミカルな足取りで奈津美の足元までやってきては、小さな尾を精いっぱいに振る。あごの下を指先でなぞると、ことん、と腹を見せる。片手でわしゃわしゃと撫ぜると、黒く濡れた瞳が嬉しそうに奈津美の姿を映した。
「小太郎だけですねー、私のこと歓迎してくれるのは」
「歓迎してほしいなら事前に連絡くらいしてよ。だいたい漫画なら、家で読めばいいじゃん」
「ここの方が本屋から近いし」
「そういえば学校は? 平日でしょ」
「春休みって言ったじゃん」
「あー、だから私服か。そういやもう高校卒業したんだっけ」
「そう、あとは卒業式だけ」
「ふーん」
「春真さん、興味なさそう」
軽い気持ちで口にしたのだが、その言葉が春真の鼓膜に響いた瞬間に、すっと空気が変わった。思わず息をのむ。ずっとキャンパスしか見ていなかった春真の二つの黒い瞳が、まっすぐに奈津美を見ていた。
「なに、興味持ってほしいの?」
真顔だった。春真は美人だと奈津美は思う。卵型の輪郭に、すっきりとした鼻筋。切れ長の浅い二重に、少し薄い唇。癖のない肩までの黒髪を今は無造作に一つに結んでいる。真顔の美人に真正面から見つめられると、特にやましいことがなくても動揺してしまう。
「そりゃあ」
奈津美が口ごもると、春真はにっと笑った。空気が解ける。
「そうなんだ」
「えっと、だからあれ、今はモラトリアムってやつなの」
無理やり話題を戻すと、春真はすでに再び自らの絵画に向き合っていた。すでに奈津美の方を見ようともしない。
大人はずるい。こういうときほど、奈津美が自分と春真との間の歳の差を実感することはない。
「こんなところで漫画読んでないで、バイトでも卒業旅行でもしたらいいのに」
「別に私が春休みに何をしようと、私の勝手でしょ」
「はいはい、お好きに過ごしてください」
私も好きに過ごすから。春真は黙って絵筆を動かし始めた。
春真が自分の世界へと入って行ってしまったことを確認し、奈津美は心の中でゆっくりと息を吐いた。そして買ってきた漫画を開く。
春真は二十八歳。奈津美よりも十歳ほど年上だ。奈津美の祖母が通っていた市民絵画教室の講師だった。三年前、市民会館で開かれた生徒の作品展示会の場で二人は出会った。出会い、そして、奈津美が一方的に春真を見初めた。
何かと理由をつけて、祖母が通う絵画教室に顔を出した。忘れ物を届けに来ただの、傘を持って来ただの、と。機会を見つけては春真に話しかけた。絵画教室は年配の人間が大半で、たびたび訪ね来る学生の奈津美はそこでは明らかな異端だった。しかし異端であるのは、春真も同じ。市民絵画教室の生徒たちは全員、講師の春真よりも二十歳以上年上で、大半は三十歳以上離れていた。
相対的な若者である二人は、奈津美の努力の甲斐もあり、友人とすら言えるほどの仲になった。高校生の奈津美にとって同年代以外の友人が出来たのは生まれてはじめてのことであり、年上の友人との付き合い方も知りはしなかったので、ひたすらに距離を詰めた。春真は奈津美を拒絶しなかった。
春真の存在が、奈津美のなかで特別な位置を占めるようになるまでに時間はかからなかった。今では二人は、春真さん、奈津美、と下の名前で呼び合っている。
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