53人が本棚に入れています
本棚に追加
奈津美は寝不足で朝を迎えた。
翌日の春真は驚くほどいつも通りだった。何事もなかったかのように二人は朝食を食べ、そして各々の荷物を片づけた。
車に乗り込み、湖を後にする。湖畔での二泊三日は夢のなかの出来事のように思えた。風景が次々と後方へと流れていく。二人の間に会話はなかった。沈黙は奇妙な緊張感と穏やかさをもって、二人を包んでいた。
駅で特急列車に乗りこむ。車内は暖房が聞いており、生暖かい空気が眠気を誘った。思わずうとうとしてしまう。奈津美は眠気に抗うように口を開いた。
「春真さん、これは私の独り言なんだけど」
「うん」
春真は車窓の風景を見つめている。スケッチブックは取り出していなかった。
「私、春真さんと仲良くなれてよかったと思っている」
「そう?」
「春真さんみたいな大人の人、初めてだったから。子どもの私がしつこく付きまとっても適当に流してくれるし、普通に会社で働いてないし」
「それって褒めてるの?」
「なんだか、春真さんって自由だなって」
「自由?」
「うん、自由。私なんて、普通に学校行って、普通に就職して、普通に生活して、死んでいくだけだもん。でも、春真さんと一緒だと、私ももっと何かになったりすることができるんじゃないかって思うんだ。今の私じゃなくて、なんていうか、もっと確固とした私、みたいな」
「そう」
「だから、私、もっと春真さんのこと、知りたいと思う」
「それが、昨日の答え?」
奈津美は頷いた。
「春真さん、どう思う?」
「独り言なんでしょう?」
ずっと窓の外を見ていた春真が振り向く。
「そうだけど……」
「私は、今のじ奈津美も、ユニークで面白い存在だと思うけどね」
わずかに口元を緩めながら、春真は言った。その言葉の意味を考えているうちに、奈津美の頭はゆっくりと重くなり、そのまま眠ってしまった。
気が付いたときには、最寄り駅に停車する直前だった。夢から覚めたかのような、さっぱりとした気分だった。座席で小さく背中を伸ばす。隣ではその様子を見た春真が。小さく笑っていた。
二人の小さな旅の終わりだった。
最初のコメントを投稿しよう!