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彼女の部屋3
卒業式が終わった。お決まりの別れの言葉、お決まりのハグ、お決まりの写真撮影。うっかり感動しそうになり、奈津美は強く目を瞑る。
「じゃあね」
さんざん騒ぎ、声を張り上げてから、友人たちとは校門で別れた。友人たちは当たり前のように大きく手を振って奈津美の声に答えた。桜が満開だった。
翌日以降使うことはないであろう紺色のスクールバッグには、筒に入った卒業証書が入っている。家に帰って両親に見せるべきなのだろうが、奈津美はまずそれを春真に見せたいと思った。子どものように無邪気に、「卒業したよ」と告げたかった。ああ、浮かれているな、と冷静な部分の奈津美は思う。
「おじゃまします」
そのドアを開けるのは、小旅行以来はじめてのことだった。鍵は開いていたので、遠慮なく家のなかへと進む。
靴を脱ぎながら、玄関に飾ってある湖の絵を見上げた。つい先日、春真と過ごした湖の風景を絵画に重ねてみる。「新婚旅行で来たことがあるの」と言った春真の声が、耳の奥で聞こえた。
春真の愛した三十歳年上の男の姿を想像してみる。うまく想像がつかなかった。「幸せだった」。再び幻聴。その言葉を発したときの春真の表情は暗闇で見えなかったけれども、きっと絶対的な確信を持った穏やかな表情をしていたに違いない。
「あれ、えっと、あんたは……」
奈津美を現実に戻したのは、男の声だった。リビングの扉を開け出てきたのは、春真ではなく、春真の義理の息子、三岳であった。奈津美は驚きのあまり、一瞬声を失った。慌てて頭を下げ、挨拶をする。
「急にすみません。あの、春真さんは?」
「ちょっとそこの郵便局に行ってる。急ぎの仕事。えっと、春真さんの友達の……」
「田ノ浦です」
「ああ、そうだった。すみません。それにしても、高校生だったんだ」
「卒業しました」
「ああ。そんな時期か」
二人の会話を聞いたのだろうか。リビングの向こうから、小さな足音と共に犬の小太郎がやってきた。ちょこまかと愛想を振り向く小太郎が、ほぼ初対面で気まずい二人を自然と笑顔にする。奈津美が小太郎の頭を撫ぜてやる。三岳が、小太郎は愛想だけはいいんですよ、と言う。
「立ち話もなんだし、奥にどうぞ。まあ俺の部屋じゃないけど」
二人は連れ立ってリビングダイニングに入った。小太郎が二人の背を追う。リビングには嗅ぎなれた油絵具の匂いが満ちている。
「三岳さんも絵を描くんですか?」
ダイニングテーブルを囲う椅子に腰かけながら、奈津美は訪ねた。
「いや、俺は絵はやらない」
「この前、持ってきていた折りたたみのイーゼルは?」
「イーゼル? ああ、あれは親父のだよ」
「そうだったんですね」
奈津美は小さく息をついた。三岳の父親、玄関の湖の絵を描いた人、そして、春真の元夫。目の前に座る三岳の顔の造りのなかに、春真の愛した男の面影があるのだろうか、と奈津美は思う。
そんな奈津美の思惑を露とも知らぬであろう三岳は、ごく自然な流れで奈津美に問うた。
「田ノ浦さんはどんな絵を描くの?」
「いえ、私も絵は描きません」
奈津美は苦笑して見せた。
「あれ、春真さんから聞いたんだけど、二人でスケッチ旅行、行ったんだよね?」
「はい。まあ、スケッチ旅行というか、私は、春真さんと旅行したかっただけで……」
語尾を濁す。三岳は一瞬、不思議そうな顔をしたが、うつむき気味に視線を反らす奈津美を見て、小さく頷いた。
そのとき、玄関の扉を開ける小さな音がした。
小太郎が玄関に駆けていく。
「ただいま」
春真の声に、奈津美と三岳は顔をそろえて、玄関の方へ振り向いた。
「おかえりなさい」
奈津美と三岳の声が重なった。春真は目を丸くして二人を見た。
「あれ、奈津美、来てたんだ」
「おじゃましています」
シャツにジーンズという普段通りのラフな格好の春真を見ると、ふいに胸が暖かくなった。奈津美は自然と笑顔になる。二人の様子を見て、春真は息を吐いた。
「二人ともいつの間に仲良くなったの?」
「つい今しがたです」
三岳が奈津美に笑いかける。奈津美も三岳に笑顔で答えた。
「なんだか、嫉妬しちゃう」
春真もにっと口角を上げた。春真の足元で、小太郎が楽しそうに匂いを嗅いでいた。
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