彼女の部屋3

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「それじゃあ、春真さん、そろそろ帰ります」  春真がコートを脱ぎに一度寝室に消え、再びリビングに戻ってきたのと入れ替わりに、三岳は立ちあがった。 「え? 帰るの? おやつ買ってきたのに」  春真はコンビニの袋を持ち上げる。 「田ノ浦さんと食べてください」  引き止めにも関わらず、三岳はさっさと自分のコートを羽織ると玄関へと向かう。 「ごめん、わざわざありがとう。留守番までさせちゃってごめんね」 「いえ。またそのうち、小太郎に会いにきますんで」  三岳は、女二人に挨拶をし、最後に小太郎の頭を優しくなでた。  まるで春風のように、春真の義理の息子は去っていった。残された二人の間に、ふいに沈黙が訪れた。  奈津美はダイニングの椅子に座ったまま、春真を見上げた。春真は苦笑するかのような表情で、奈津美を見ていた。  あの夜の、ベッドの上で、春真から見下ろされたときのことが、頭によぎる。息の熱さを思い出た。ついで、春真の白い頬に流れた涙を思い出す。 「コーヒー、淹れるね」 「お願いします」  止まっていた空気が動き出した。やがてキッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。ブラックコーヒーで満たされた二つのマグカップがテーブルに置かれた。春真がコンビニで買ってきたプリンを食べる。奈津美は抹茶のプリンを、春真は普通のカスタードプリンを食べた。  食べながら、奈津美は聞いた。 「三岳さんが来るときは、スイーツ的なの用意することにしてるの? この前はケーキだったし」 「うん、なんとなくだけど。一応、母親だし?」 「気にしてる?」 「正直言うと、あんまり自分が母親って感じはしないんだけどね。歳も五歳しか違わないし」 「ふーん、そういうもんなんだ」 「なんか自分でもびっくりだよ。ほとんど歳の違わない義理の息子がいる人生を歩くことになるなんて。ほんと、人生って分からないもんだよね」  抹茶プリンが口のなかで溶ける。上品な苦みが広がった。「人生」、と春真が口にした言葉を舌の上で転がしてみる。  そしてふと自分がどうして春真の部屋を訪ねたのかを思い出した。 「春真さん、そういえば私、ついさっき高校卒業した」 「ああ、だから今日は制服なんだ」 「卒業証書見る?」 「うん、見せてよ」  黒い筒に入った証書を広げた。クリームがかった上質紙に、「卒業証書」の黒が映える。 「卒業証書。田ノ浦奈津美殿」  春真が証書の言葉を読み上げた。 「……全課程を修了しましたのでここに証します。奈津美、卒業、おめでとう」  春真の瞳が奈津美を映す。妙にくすぐったくなって、奈津美は笑ってしまった。 「ありがとう」  笑いながら言うと、春真は重ねて「本当に、おめでとう」と言った。 「うん、まだ、あんまり卒業したって実感はないんだけど」  本心だった。昨日までの自分と今日の自分が大きく変わったとは思えない。それでも今日からの自分は「高校生」ではないのだ。  奈津美は卒業証書の「卒業」の文字をそっと撫ぜた。 「そうだ、ねえ奈津美、これから時間ある?」  春真の声に我に返る。 「え? 別に暇だけど」  見上げると春真は何かを企むかのように目を細めている。 「じゃあ、ちょっとあの辺に座って。椅子持っていくから」 「え?」 「モデルになってよ。今日が最後なんでしょ、制服着るのも。高校生の奈津美を絵に残したい」 「何それ。それにモデルって」 「絵のモデルにされるのは画家の友達の宿命だよ」  春真はすでに立ち上がり、椅子を運んでいる。奈津美は迷ったが、春真の迷いのない様子に押され、おずおずとアトリエスペースの真ん中に置かれた椅子に腰かけた。春真はすでに大判のスケッチブックを広げている。 「うん、そう、リラックスして座って。姿勢は楽にしてていいから」  妙な気分だった。絵を描く春真の姿は何度も見ていた。モチーフを見つめる瞳の真剣さもよく知っている。けれどもその視線を独占するのは、変に緊張した。いやというほど春真の熱意を感じる。その視線の前では、奈津美の存在はただの画題に過ぎなかった。すべてが暴かれてしまうのではないか、という恥ずかしさに似た居心地の悪さ。その一方で、今の一瞬だけは、春真の世界は、奈津美という存在に占められているのだということに、優越感に似た心地よさを感じた。  時間は一瞬で過ぎる。  ふいに、春真の手が止まった。画家は小さく息を吐く。出来たのかと奈津美が問うと、もう少しで終わる、との答えだった。春真は再びゆっくりと手を動かしながら、口を開いた。 「ねえ、奈津美、この前の話なんだけど」 「この前の話?」 「ルームシェアの話」 「ルームシェア?」  そういえばそんなことも言ったなと、奈津美は思い出す。春真に卒業後の進路について聞かれ、はんばヤケになって提案したのだった。あの日からいろいろなことがあった気がする。 「ルームシェアがどうしたんですか?」 「どうしたんですかって、提案したのは奈津美じゃない。私は、奈津美とルームシェア、やっぱりしてもいいかもって、思ってるんだけど」 「え? ほんとですか?」  何を言われたのか、その言葉が何を意味しているのか分からなかった。頭のなかで春真の声を繰り返す。 「嘘でこんなこと言わない。もちろん無理にとは言わないし、奈津美がしたかったらでいいんだけど」 「したいです!」  即答したのは、春真の声音が決して冗談を言っているようには聞こえなかったからだ。そして春真が冗談で、こんなことを言う人間ではないことを、今の奈津美はよく知っている。  信じられなかった。驚きすぎたためか、頭に血が上っていくのを感じた。手足が、耳の先が、熱い。 「でも春真さん、どうして?」 「私も奈津美のこと、もっと知りたいと思ったの。これで、理由になる?」  充分だった。胸の奥がいっぱいになる。どんな顔をしてよいのか分からない。 「私、家事するし、家賃も払う」 「もちろんそこはちゃんとしてもらう」 「小太郎の散歩もする」 「うん」 「絵も習う」 「別にそこは無理しなくてもいいよ。でも、たまにはこうやって、モデルになってもらおうかな」 「うん、やる」 「二十歳になったらヌードも」 「えっ、ヌード?」 「冗談。今の奈津美、なんでもやるって言いそうだから」 「もう、やめてよ。冗談に聞こえなかった」 「ごめんごめん」  パタン、と春真がスケッチブックを閉じた。 「スケッチ終わり?」 「うん、モデル、ありがとう」  目が合った。春真の瞳は少し潤んでいるように見えた。その泣き顔と笑い顔が同居したかのような変な表情を、今までみてきたどんな表情よりも綺麗だと奈津美は思った。そしてそんな春真の表情を見ているうちに、泣きたくなって、笑いたくなって、自分でもよく分からなくなって、ああ、確かに自分は高校を卒業して、明日からは新しい毎日が始まっていくんだなとぼんやりと考えた。  期待なのか、あるいは不安なのか、よく分からないが、心臓のとくとくとくという音がやたらとうるさかった。そしてその音のなかに奈津美は、小さいけれども確かに存在する、未来への道しるべを見つけた。 二人の春は、奈津美の人生は、まだ始まったばかりだ。
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