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二冊目漫画を読み終わり、三冊目も半分ほど読み進めたところで、春真が絵筆を置く気配を感じた。
「今日のお仕事、終了?」
奈津美が尋ねると、春真は頷いた。
「終わり。ケーキあるんだけど、食べる?」
「ケーキ? 食べる食べる」
「すぐ片づけるからもう少し漫画読んでて」
奈津美は漫画を読む代わりに、春真が手早く片づけるさまを、眺めることにする。
一人暮らしにしては広い二十四畳のリビングダイニングの半分以上がアトリエとして使われており、絵の描かれたキャンパスや未使用のキャンパスロールやツールボックスが雑然と並んでいる。もう一方の側に、奈津美の座るソファーやダイニングテーブル、犬の小太郎のためのベッドが置かれているが、どちらかといえばアトリエが主で、リビングスペースが従である部屋づかいである。2LDKの間取りで、残りの二部屋の一室は寝室で、もう一室は書斎兼物置部屋というが、奈津美はそちらには入ったことはなかった。
「飲み物、コーヒーでいい?」
片づけ終わり、作業用のエプロンを脱いだ春真が言う。
「うん、ありがとう」
奈津美は素早く視線を漫画に移し、何気ない様子で答える。
「ブラックでよかったっけ? 牛乳入れる?」
「ブラックで大丈夫」
やがてキッチンからコーヒーメーカーの稼働音と、コーヒーの香りが立ちのぼる。
「奈津美、悪いけどこれで机拭いて」
「了解」
ダイニングテーブルを、青と白のギンガムチェックの台ふきでさっと拭く。母親に頼まれるとムッとするようなことでも、春真に言われると素直に聞けるのが不思議だった。
「拭いたよ」
「ありがとう。ケーキ、四種類あるから選んで」
春真が冷蔵庫から出しテーブルの上に置いた洋菓子店の白い箱のなかを覗きこむと、苺のショートケーキにレアチーズケーキ、チョコレートケーキにフルーツタルトの布陣だった。
「うわあ、どれも美味しそう」
「駅なかの新しく出来たお店で買ったんだ」
「先に選んでいいの?」
「いいよ、私はどれも好きだから」
奈津美は四つのケーキの上に順繰りに視線をやりながら、それぞれの色艶を十分に吟味し、やがて決心した。
「決めた、フルーツタルト」
「おいしそうだよね。じゃあ私はレアチーズにしようかな」
二人が選んだケーキは皿に盛られ、マグカップに注がれたコーヒーと共にテーブルに並んだ。
「いただきます」
奈津美は律儀に手を合わせてからフォークを手にした。そして大きめの一口大にしたフルーツタルトを口に運ぶ。
「あ、美味しい」
二口め。みずみずしいフルーツと甘いクリームとサクサクのタルト地が口のなかでひとつに溶けあう。次いでコーヒーも一口。ケーキで甘くなった口に、ほろ苦さを転がす。少し苦めのコーヒーだが、甘いケーキにはぴったりだ。
「レアチーズも美味しい。甘すぎなくていい感じ」
「ほんと? ね、春真さん、一口交換しよ」
「いいよ」
奈津美は差し出されたレアチーズケーキにフォークを入れ、一口分を口に運ぶ。濃厚なチーズの香りが満ちた。後味には柑橘系の酸味が広がり、いくらでも食べられそうな気がした。
「これも美味しい」
「タルトも美味しい。ごめん、イチゴのところ食べちゃった」
「えー」
「ごめんごめん、チーズケーキ、もう一口食べていいから」
「やった。いただきます」
レアチーズケーキをもう一口食べたあと、再び皿を交換し、各々ケーキを食べ進めた。
「ああ、美味しかった」
あっという間にケーキ食べ終え、奈津美は満足げに溜息を吐いた。
「さっきから私、美味しいしか言ってない」
「ほんと奈津美、美味しそうに食べるよね」
「だって美味しいんだもん。それにしても春真さん、ケーキ用意してるなんて、やっぱり私がこうして部屋にくるの期待してたんでしょ」
奈津美は最後の一口を今にも食べようとしている春真を上目遣いに見ながら笑った。
「別に。そういうつもりじゃない」
春真は奈津美の視線を受け流す。
「ふーん。照れなくてもいいのに」
「あのねえ、大人をからかわない。そういえば奈津美、もうすぐ卒業なんだよね」
奈津美は上目遣いをやめ、コーヒーに手を伸ばした。少し冷めたコーヒーは苦さを増していた。
「そうだよ」
あまり触れてほしくない話題だった。しかしもう春休みだ。今後も春真と「友人」を続けるのならば、避けては通れない話題だった。
「卒業したらどうするんだっけ? 受験したって言ってたよね?」
「したした。春から一応大学生。市立大」
「そうなんだ。おめでとう」
「うん」
これはお祝いのケーキだね、と春真は笑顔を作った。奈津美も顔中の筋肉を調整して笑顔を作る。
「学部は?」
「えっと、社会文化システム学部?」
「なんの勉強するところ?」
「さあ? よく分かんない」
正直に話すと、春真は「分からないって、何それ」と笑った。ほんとうによく分からないんだもん、と奈津美が言うと、「それを勉強しに行くんだね」と春真は一人で納得していた。
「奈津美が大学生、しかも市立大。じゃあ、すぐ近くだね」
「ここから自転車で十分くらいでしょ?」
「うん。そのくらいかな」
「思った通り。そもそも春真さんの部屋にも寄りやすくなるから市立大にしたって言ったら?」
「嘘でしょ?」
「嘘だけど」
奈津美は空になったマグカップをテーブルに置いた。市立大は第四希望だったとは言えなかった。
端的にいえば、受験は失敗だった。とは言っても、そのことに対し、たいして後悔はしていない。どの大学も、浪人してまで行きたい大学ではなかった。ただ、とてつもなく残念だと思う。
第一志望から第三志望の大学は、東京にあって自分の学力で受かりそうなところという基準で選んだ。第四志望学校であり、四月から通うことになる大学は、いざというときのためのすべり止めという意識しかなかったので、県内の大学の偏差値と予想倍率の表から適当に選んだものだった。
もちろん春真の家との距離など、志望校選びにおいて一切考慮はしていなかった。しかしあまり志望度の高くない進学を前にして、確かにそのことはひとつの慰めだった。
ふと奈津美の脳裏に素晴らしいアイデアが浮かんだ。
「ねえ、春真さん。ルームシェアしない?」
「ルームシェア? 何言ってるの?」
「ね、一緒に住もうよ。この部屋広いし、私は大学に通うの楽になるし」
「私のメリットは?」
「家賃は払うよ、もちろん。小太郎の散歩もするし、家事もする」
「却下。そもそも家から通えるでしょ」
「そうだけど」
もちろん思いつきが実現するとは思っていなかった。それでも、二人で住むことができたら素敵だなと奈津美は思う。
さらに食い下がろうかどうしようか迷い、言葉を選んでいると、インターホンのチャイムが鳴った。そこで会話は立ち消えとなる。春真がインターホンに応答し、ちらりと時計を見てから、玄関へと向かう。
春真が戻ってきたとき、一人の男が一緒だった。奈津美が初めて見る顔だ。男はまだ若く、背は高くないが広い肩幅をしていた。大きく細長い黒い袋を片方の肩に背負うようにして持っている。奈津美は思わず立ち上がった。
「あれ、お客さん?」
黒い袋を部屋の片隅に置きながら、男が春真に問うた。快活そうな声だった。
「うん、友達。田ノ浦奈津美さん。奈津美、こちら、三岳翔君」
「あ、えっと、三岳です。初めまして」
「こちらこそ」
奈津美は急な展開に戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「翔君、わざわざ持ってきてくれてありがとう」
「春真さんの頼みですし。このくらいいつでも言ってください」
「すぐに見つかった?」
「物置の方に。意外とあっさり見つかりましたよ」
二人の間の会話を聞きながら、どうにもいたたまれなくなった。三岳と名乗った男の顔と春真の顔を順番に盗み見る。男は丸顔に大きな耳と大きな目、口角の上がった口を持っており、春真とは気軽そうに話している。ふいに、先ほど食べたケーキはこの客人のために春真が用意していたものであったことに気がついた。
「あの、春真さん」
二人の会話に割り込むように言葉を放った。二人の視線を一斉に感じ、思わず息をのむ。意を決して、勢い込んで口を開いた。
「すみません、私、もう帰ります。ケーキご馳走様でした。お邪魔しました」
「えっ、もう帰るの? ゆっくりしていけばいいのに」
と、春真。隣では大きな丸い目をさらに丸くした三岳が奈津美を見ていた。
「いえ、もう時間なので。失礼します」
逃げ帰るように部屋を出た。玄関でつっかけるように靴を履くと、小太郎がやってきて、なぜか嬉しそうに尻尾を振った。散歩じゃないよ、と小さな声で言い聞かす。
「お邪魔しました」
ドアを開けて、だめ押しのように別れの言葉を放った。閉まったドアの向こうから「気をつけてね」という春真の声が聞こえた。
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