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私の部屋
自転車で真っ直ぐに家へと向かう。午後の太陽が奈津美を照らす。どこにも行きたくなかったし、誰とも会いたくなかった。自分が惨めに思えて仕方がなかった。三岳と春真の親しげな様子が脳裏から消えない。
住宅地の同じような外観の建売住宅が並ぶ筋にある、代り映えのしない家のひとつが奈津美の実家だった。母親が在宅だったが、ただいまも言わず、玄関から二階の自室へと向かった。鞄とコートを床に落とす。ベッドに倒れこむ。
「はーあ」
自分に言い聞かせるように、声に出して溜息をついた。何やってるんだろう自分、とつぶやいてみる。
部屋の向こうから階段を上る足音が聞こえた。
「奈津美? 帰ったの?」
母親だった。
「帰ったよ。何?」
今は母親の相手をする気分ではなかった。何も考えたくない。もちろん母親にはそんな奈津美の気持ちなど全く通じていない。
「おばあちゃんがね、あなたの大学入学のお祝いに、どこかちょっといいところへご飯を食べに行こうって。ちょっとした食事会ね。今週末にしようと思うのだけど、何食べたい? お母さんは笹川寿司がいいんじゃないかと思うんだけど。あそこ、掘り炬燵だし」
ああ、面倒くさい。面倒くさい。
「えー、いいよ、食事会なんて。面倒くさいから、お母さんたちだけで行ってよ。留守番してる」
「何言ってるのよ、あなたの入学祝いなんだから」
「いいって。だいたい入学金とかお金かかるんだから、節約すべきなんじゃないの」
「そこは大丈夫。お母さんたち、あなたが東京や大阪へ進学してもいいように、一人暮らしのためのお金貯めてたけど、その分が浮いたから余裕があるのよ。ほんと、よかったわ。市立大受かってくれて」
その言葉にすっと心が冷えた。
「とにかく、私は行かないから」
母親はその後も言葉をつくし説得しようとしたが、奈津美は短い拒絶の言葉を並べた。最後には母親はわざとらしい大きなため息をついて折れた。
「あーもう、分かった。じゃあおばあちゃんに奈津美が行きたがらないって言うから」
母親が階段を下りていく足音を聞き、奈津美は母親に負けないぐらい大きな溜息をついた。
両親は、奈津美が、第一希望から第三希望であった東京の大学に落ち、第四希望である市内の大学に受かったことを心底喜んでいた。もちろんそのことは言葉にはされず、表面上は志望校に落ちた奈津美に同情し親らしく慰めてくれていたが、両親の内心が分からないほど奈津美は子どもではない。両親のその偽善性も含め、奈津美には許せなかった。もちろん東京の大学に進学することによる金銭的な負荷のことは奈津美にもよくわかっている。一人暮らしの仕送りの有無で、家計の状況が大きく変わってくることも。
確かに奈津美には大学で学びたいことはなかったし、特に行きたいと思える大学もなかった。であれば就職すればよいのだが、しかし学生の身分を捨てるにはまだ早い気がした。自分が何をしたいのか、何ができるのか、どのような人生を選ぶのか、まったくピンときていなかった。
だから奈津美は、たとえ多額の奨学金なり学生ローンを組むことになろうとも、都会の大学へ行きたかったのだ。ここではないどこかへ。とにかく、この街から出たい。
奈津美が直面したのは、両親は奈津美がどれほど家を出たがっているのか、都会へ行きたがっているのかを全く理解していないという現実だった。そしてそんな無理解な親の元で、少なくともあと四年間は生活していかなければならないという未来だった。十八歳の奈津美にとって四年というのはひたすらに長いものに思われた。
それに四年後だって、と奈津美は思う。きっとこの街で就職して、この街で生活しているのではないか。無難だがつまらない人生が続くだけなのではないか。想像した光景は絶望的で、しかし絶望的な想像に浸ることは特有の甘美さを伴っていた。
ふと、ジーンズの尻ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
画面を確認する。高校の友人、特に仲のよかった友人からのメッセージだった。
『奈津美、本当に卒業旅行行かないの?』
奈津美はすぐに『行かない』と四文字を並べる。しかし送信する前に思い直し、言葉を足す。
『すごく行きたいんだけど、家の都合とかいろいろで、どうしても予定あわないんだ。ごめんね』
もちろん予定なんてない。返信はすぐに来た。
『みんなに話したら、まだ予定調整できると思うよ?』
『いや、今更悪いし大丈夫。それにほら、私、これからも地元だからさ。県外へ行くみんなの都合を優先してよ』
『本当にいいの?』
『いいって。気を使ってくれてありがとう』
つい一か月ほど前までは、受験が終わればみんなで卒業旅行に行けることが楽しみで仕方がなかった。むしろそれだけをモチベーションに、勉強を続けていた。「大学生活」というものは未知数すぎてモチベーションに成り得なかったのだ。しかしいざ終わってしまえば、卒業旅行なんて行きたくもなかったことに気がついてしまった。
通っていた高校がそこそこの進学校だったこともあり、友人の大半は地元を出て、東京や大阪などの都会の大学に進学する。地元の大学に進む友人も、確固たる目標があってその大学や学部を選び、進学していた。SNS上では、一人暮らしのための部屋探しに上京しただの、一足先に大学の教科書を買いに行っただの、大学生活を楽しみにする友人たちの声に溢れている。
そんな友人のなかにおいて、一人置いて行かれたかのような寂しさと諦観を奈津美は覚えていた。やりたいことが分からないなどという子どもっぽい悩みを相談できる級友はひとりもいない。
きっと彼らとは、高校を卒業したらもうほとんど会うことはないのだろうという予感がしていた。今後会うこともなくなる友人と、わざわざ旅行へ行く意義が分からない。しかしそんなことを考えているのは奈津美一人だけらしく、仲間内のSNSのグループ名はいつの間にか「卒業旅行!」という名前になっていた。
奈津美は、そのSNSのグループからこっそりと退会した。
再びスマートフォンが振動した。退会に対する友人からのアクションだろうと思い、どのように返答しようかと顔をしかめたが、画面を見るとメッセージの送り主は春真だった。親や友人を相手にしていたときとは異なり、「新藤春真」という名前にきゅっと胸が痛む。
ゆっくりと大きく息を吐いてからメッセージを読んだ。
『漫画、忘れてるよ』
拍子抜けした。ふっと肩が落ち、それまで無意識に力が入っていたことに気がついた。
『ごめんなさい、今度取りに行きます!』
ああ馬鹿みたい、と小さく声に出しながら、メッセージを返した。独り言に返答はもちろんなく、奈津美は六畳の自分の王国でひたすらに一人だった。
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