彼女の部屋2

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彼女の部屋2

 奈津美はよく眠れないまま、次の朝を迎えた。その日は、一日中自分の部屋にこもっていた。何も考えたくない、と考えていたら一日が過ぎた。何も考えないだけでは、何も解決しない。何を解決したいのかも分からなかったが。  さらに翌日。思い切って、部屋を出た。できるだけ大人っぽい服をクローゼットから引っ張り出して身に着けた。春物の薄手の萌黄色のニットに、白のパンツ。黒のトレンチコート。向かう先は春真のマンション。春真に、大切な友達に、聞きたいことがあった。言いたいことがあった。  インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。春真がいつも通りの顔でそこにいた。 「いらっしゃい。あがってくでしょ?」  奈津美は無言でうなずき、部屋へとあがった。玄関にかかった風景画が、いつもよりずっと大きく見えた。 「はい、これ」  持ち帰りやすいように、紙袋にまとめられた漫画を渡された。ありがとう、と口のなかで、もぐもぐと言う。 「この前は急に帰っちゃうから驚いた」 「ごめんなさい。誰か来るなんて知らなかったから」 「奈津美って案外、人見知りなんだね」  別にそういうわけではないけど、と奈津美は思うが、口には出さなかった。  そんなことよりも、聞きたいことがいっぱいあった。しかしここに来るまでに心のなかで練習してきた言葉は春真の顔を見た途端に霧散し、今や一つの言葉も残っていなかった。仕方なく部屋を見回したりしてみる。すると、部屋の隅に大きなスーツケースが置いてあることに気がついた。 「どこか行くの?」  伝えたいと思っていた言葉の代わりに、そんなことを聞いた。 「うん、明後日から旅行。一人旅で取材を兼ねたスケッチ旅行だけど」  春真の言葉が妙に奈津美の心を動かした。 「私も行きたい!」  頭で考えるより先に、口から言葉が出てきた。 「春真さん、お願い、私も連れて行ってよ!」  お願いされた春真は、漫画の登場人物のように分かりやすく顔をしかめた。それでも奈津美は、本能的にここは引いてはいけないところだと直感した。重ねてお願いと言う。 「どこへ行くのかも言ってないのに、よく言うね」 「どこ行くの?」 「信州の方」 「いいじゃん、信州。何泊するの?」 「二泊三日」 「信州に二泊三日。了解」 「え、本当に行くの?」 「ダメなの?」 「ダメじゃないけど、絵を描くだけだよ。観光しないよ」 「私も描く」 「奈津美、絵、描かないじゃない」  春真はため息をつく。奈津美はもう一押しだと察し、戦術を変えた。 「お願い、私、友達との卒業旅行も、予定が合わなくて行けなくなっちゃったんだ。高校最後の思い出作り、春真さんと一緒じゃダメかな?」  案の定、春真は小さく首を振った。しかめっ面のまま、しょうがないな、とこぼす。 「分かった。宿の予約、確認してみる。でも、ちゃんとご両親に許可はとってよ」 「やった、ありがとう、春真さん!」  半ば騙すような形になってしまったことに、後ろめたさはなかった。昨日までの憂鬱な気分はどこにも残っていなかった。  その日の夜。春真からメッセージが来た。 『残念ながら、宿の予約、取れました。同室しかなかったんだけど、よかったかな? まだキャンセルできるから嫌だったら気にせず言ってね』  自然と顔がにやけた。もちろん嫌なわけがない。 『嫌じゃないです! 旅行、楽しみ!』  メッセージを送ると、奈津美は嬉々として旅行の荷物をまとめた。とはいっても持ち物は着替えくらいなので、たいした量ではない。就学旅行のときに使ったボストンバックにポンポンと荷物を詰めていく。  ただし上機嫌は長くは続かなかった。お風呂上りにリビングに寄ったときに、母親から、旅行のことを聞かれたのだ。もちろん奈津美からは旅行についてはまだ一言も話していなかった。春真が電話したのだろうと直感した。絵の先生の新藤さんと旅行に行くんだってね、という母親の問いに、そうだよ、と短く答えた。 「そうだよって、お母さん、何も聞いてないんだけど」 「これから話そうと思っていたところなの。別にいいでしょ。プロの画家とスケッチ旅行のチャンスなんだから」 「まあ、別にいいけど。絵画教室のスケッチ旅行で、新藤先生の引率なら安心だし」  奈津美はふと、母親は今回の旅行を絵画教室のグループ旅行だと勘違いしているのではないかと思った。勘違いを訂正する気はなかった。それに、少なくとも奈津美は嘘をついてはいない。 「そういえば、あんた、高校の友達と卒業旅行も行くんでしょ」 「卒業旅行はなくなった」 「そうなの?」 「みんな、春から一人暮らしだから忙しいの」 「みんな大変ねえ。ほんと、あんたはうちから通える市立大でよかったわね」  奈津美の心に、また一陣の冷たい風が吹いた。しかし、ここで下手に反抗したら、春真との旅行がふいになってしまう可能性がある。奈津美は何気ない顔をして麦茶を飲んだ。 「まあ、気を付けていってらっしゃい」 「はーい」  それでもその夜、奈津美は全体として幸福だった。春真と二人きりで旅行に行くのだと思うと、母親との会話でささくれ立った心も、すっと静かになった。
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