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春真が運転する、コンパクトカーの助手席に奈津美は収まった。両親以外の人が運転する車に乗るのは、考えてみたら初めてかもしれない。電車の席で隣に並んだときとは、また少し違う距離の近さに、奈津美は小さく緊張した。車という小さな密室に二人きり。ハンドルを握る春真の白い手を見る。心地よいエンジン音が二人を包んでいた。
ナビをセットすることもなく、春真は車を走らせた。
途中、蕎麦屋に寄り、昼食を食べた。ざるそばと山菜の天ぷらを奈津美は選んだ。ふきのとうの天ぷらの苦さに顔をしかめると、春真はおかしそうに笑った。親の話をしたときの気まずさは、いつの間にか消えていた。二人のドライブは続く。
まもなく車は山道へと入った。蛇行する道を運転する春真は楽しそうで、今にも鼻歌を歌いだしそうだ。
「もうすぐだよ」
大きなカーブを曲がった。すると目の前に大きな湖が広がった。思わず感嘆の溜息をつく。丁字路を右に曲がる。曲がった先の道は、湖畔にそって続いていた。やがて周囲にはコテージがぽつぽつと見えてきた。どうやらあたりは別荘地らしい。さらに進むと、一軒のこじんまりとした白い洋館が見えてきた。春真は車を洋館の前の駐車場に止めた。
「ここ?」
奈津美が問う。二階建ての木造の造りで、年代を感じさせる外観だった。
「そう、ここがホテル。荷物置いたらスケッチに行こう」
玄関を通るとすぐに受付があり、そこでチェックインをすます。客室は二階だった。螺旋階段を上がり、案内された部屋へと入る。
掃除が行き届いた、こざっぱりとした部屋だった。二つのベッドが並んで置いてあるのが、嫌でも目に入った。白いシーツがまぶしい。出窓があったので外を覗くと、木々の合間から湖が広がっているのが見えた。
春真はスーツケースから、電車のなかで使っていたのとは別の、青い表紙の大きなスケッチブックを取り出した。それから同じものをもう一冊。
「これ、使って」
差し出されたスケッチブックは新品だった。戸惑っていると、春真は呆れたように言った。
「私たち、スケッチ旅行に来たんでしょ」
「私も描くの?」
「鉛筆も絵の具も貸してあげるから」
奈津美は受けとったスケッチブックをぱらぱらとめくった。白い紙がどこまでも連なっている。スケッチなんて何時ぶりだろうか。中学生のころには美術の授業を受けたはずだが、何を描いたのか、もう覚えてもいなかった。
「まあ、お絵かき遊びだと思って、気楽にね」
春真はスーツケースから絵の具やら小さな椅子やらを取り出しながら言った。ふと、取り出された荷物のなかに、以前、三岳という男が春真に渡していた黒い袋であることに気が付いた。
「あ、それ、この前、男の人が持ってきてたやつ?」
「ああ、これ? 折りたたみ式のイーゼル。イーゼルは一つしかないんだ。ごめんね」
三岳も絵を描くのだろうか。奈津美は男の顔を思い出していた。
洋館の裏には、木立の間を抜ける小道があり、湖畔まで出ることができた。春真の先導でその道を辿った。小道の先は砂浜になっており、夏の間は水浴客で賑わうとのことだった。しかし今は春先だということもあり人気はほとんどなく、静かなものだ。湖に向かって右手奥の方には貸しボート屋があり、今も湖の上には二艘ほど手漕ぎボートが浮かんでいた。
初めてくる場所のはずなのに、奈津美は目の前の光景に強い既視感を覚えた。記憶をたどる。脳裏に一枚の絵が浮かぶ。
「春真さん、もしかしてこの湖って、玄関の絵の?」
「そう。よく分かったね。あの絵は、ここからの風景」
春真は水際近くにイーゼルを立てながら答えた。
「あの絵は夏の絵だから、今とはだいぶ雰囲気が違うでしょ?」
「あの絵、春真さんが描いたの?」
「まさか。私はまだ、あんな絵は描けない。あの絵は、私の……」
そこで春真は、言葉を選ぶように言いよどんだ。
「私の師匠が描いたもの」
つかの間の迷いが何を意味するのか、奈津美には分からなかった。奈津美はあいまいに頷いて、返事の代わりにした。
「さ、スケッチしよう。せっかく来たんだもの」
奈津美は春真の邪魔にならないように五メートルほど離れたところで、砂浜に直接座りこんでスケッチブックを広げた。しかしそこで手は止まる。スケッチってどうしたらいいのだろうか。白いページを前に固まってしまう。
湖を見る。光の加減で深い緑に見えたり、白く輝いて見えたりした。時おり吹く強い風が、水面を波立たせる。何か魚がいるのだろう、丸い波紋が水底から浮かんでいる。遠くから、鳥の高い鳴き声が聞こえた。
こっそりと春真の様子を伺う。真剣な眼差しだった。自室のアトリエで絵に向かうときとはまた違う真剣さを湛えているようにみえた。
再び視線を白いページに移した。鉛筆を握る。見よう見まねで線を引いてみる。線を重ねてみる。重なり合った線から、形が浮かび上がってくる。
いつの間には太陽の角度が変わっていた。影が長く伸びる。
「寒くなってきたね、そろそろ今日は引き上げようか」
春真の声に我に返った。強い風が吹きぬける頻度が増している。肌寒さを覚えた。スケッチブックを閉じ、立ち上がって伸びをした。固まっていた体をゆっくりほぐす。
「どう、スケッチの感想は?」
「ほんとに久しぶりだったから、なんだか懐かしかった。それに、ちょっと手首疲れた」
ぶらぶらと右手を振って見せる。
「力の入れすぎじゃない? そうだ、せっかくだし講評しようか?」
「え、いや、いいよ」
「そう? 教室のスケッチ旅行だと、一番盛り上がるところなんだけどな。今日なら無料だよ」
「いいよ、別に」
奈津美が胸にスケッチブックを抱えてみせると、春真は心底おかしそうに笑った。
スケッチ道具を片づけ、二人並んで小道を帰った。
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