湖畔にて

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 洋館の一階がレストランになっており、そこで夕食を食べた。春真はビールを頼み、ジョッキを美味そうにあおった。奈津美は炭酸水を飲む。 「ところで、小太郎君は旅行の間、どうしているの?」  食事もあらかた済んだところで、奈津美は春真に問うた。ヨークシャーテリアの老犬、小太郎のことを、春真がとてもかわいがっているのを知っていた。春真は何気ない口調で答えた。 「小太郎は預けたよ。翔君――えっと、この前奈津美も会ったでしょ、彼――三岳翔君のところに預けた」 「え?」  奈津美は思わず持っていたグラスを落としそうになった。何度目かの、あの疑問、三岳翔とは春真にとってどんな人物なのか、という問いが頭に浮かぶ。それでも直接的に聞くのはいまだに憚られたので、こんな形の問いとなった。 「小太郎君と三岳って人は仲いいの?」 「うん。私と小太郎との間より仲いいかも」 「そうなんだ。じゃあ安心だね」 「そうだね。でも、どうしたの? 奈津美、なんか元気ないんじゃない?」 「別に、元気だよ?」 「本当に? 疲れた?」 「大丈夫。ただ……」 「ただ?」 「私、旅行ついてきてよかったのかなって」  春真は奈津美の言葉を聞いてふきだした。 「なによ、今更。あれだけ行きたいって主張したのに」 「いや、私なんかより、その、彼氏さんとかと行きたかったんじゃないかなって」 「元は一人旅の予定だよ。仕事だし。そもそも私に彼氏がいないのは、うちにしょっちゅう出入りしている奈津美はよく知ってるでしょ」  彼氏なんていないいない、と笑う春真に、ついに三岳のことを聞く決心がついた。 「三岳って人は彼氏じゃないの?」  思い切って、一息に言った。春真は笑うのをやめ、代わりに目を丸めた。二人の目が合う。ふいに、沈黙が場を支配した。奈津美の喉はからからだった。とくとくとくという、早鐘をうつ心臓の音が聞こえていた。  春真が大きく息を吐いた。 「何勘違いしてるのか、知らないけど」  春真の言葉が、奈津美の耳に届く。 「翔君は彼氏じゃないよ。翔君は、私の息子」 「へえ?」  喉の奥から変な声が出る。今度は奈津美が驚く番だった。 「息子? 春真さんの?」 「そう。もちろん実子じゃないよ。義理の息子」 「義理の息子ってどういうこと?」  訳が分からなかった。 「知らなかったっけ。私、結婚してたんだ」  初耳だった。思わず春真の左手の薬指を見る。もちろん、そこには指輪などない。 「そうなんですか」  奈津美は相槌を打つのがやっとだった。しかし春真は、自分の人生の一大事を語っているにも関わらず、特に頓着せずに会話を進める。 「うん。翔君は夫の前妻の子ども」 「旦那さん、今は?」 「三年前に亡くなった。短い結婚生活だったよ。小太郎は元々夫の飼い犬で、翔君の犬でもあったの。夫が亡くなったあと、そのまま私が引き取る形で飼い続けているけど」 「……知らなかった。ごめんなさい、変なこと聞いて」 「ううん、別に。隠していた訳ではないし。それに、奈津美にはちゃんと知っておいてもらいたい」  春真はウェイターを呼び、水を所望した。やがて運ばれてきたグラスの水を静かに飲む。奈津美は春真にかけるべき言葉を探した。聞きたいことは確かに聞けた。しかし一つ聞けば、それ以上に聞きたいことがたくさん出てきた。 私は春真のことを何も知らない。奈津美は胸の奥に確かな痛みを感じていた。  夜。順番に部屋にある浴室でシャワーを浴び、ベッドに入った。学友と行く就学旅行では一番盛り上がるところではあるが、夕食時の会話が尾を引き、奈津美はとてもはしゃぐ気持ちにはなれなかった。春真は何を考えているのだろうか、と時折横顔を伺うが、いくら表情を覗いたところで何を考えているのかは分からない。春真は寝支度を調えると、さっさと布団のなかに潜り込んでしまった。日の出とともに、朝から絵を描くから、と言う。 「絵を描くの嫌だったら、適当に過ごしていていいから」 「ううん、私も描く」 「お、優秀な生徒」 「そりゃあ、優秀な先生がいるから」  春真のことはよく分からない。それでも、春真と少しでも一緒に過ごしたかった。  ベッドに入った時間が早かったこともあって、奈津美はなかなか眠りにつくことが出来なかった。羊を数えてみても、逆に頭のなかを無にしようとしてみてもだめだった。時間だけが過ぎていく。隣のベッドからは静かな寝息が聞こえていた。  遠くで鐘を鳴らすような音が聞こえた。  枕元の時計で時間を確かめると、日付が変わったところだった。奈津美は静かに起き上がり、ベッドのふちに腰かけた。 隣に眠る春真を見下ろす。春真は仰向けで、わずかに左に首をかしげるようにして眠っている。胸のあたりの布団が規則正しく上下している。失礼なことだと思いながらも、春真の寝顔を、息を殺して覗き見る。  間接照明とカーテンの隙間から差し込む月明かりのなかで、春真の肌が白く浮かび上がっていた。肌の色とコントラストを成す黒い髪が頬にかかっている。瞳は強く閉じられ、口はわずかに開いていた。寝顔は穏やかで、子どものようだ。  手を伸ばした。  頬にかかる髪に触る。かたくもなく、柔らかくもない髪。そっと持ち上げ、耳にかける。無防備にさらされた頬に指で触れる。人差し指を走らせる。肌の弾力を指先に感じる。 「春真さん」  小さな声で名を呼ぶ。 「春真」  もう一度。春真は起きなかった。穏やかな寝息が続く。深く眠る様子は、ひどく無防備だった。  その無防備さに奈津美は自らの心の奥の欲望を気づかされた。春真に触れたい。もっともっと彼女を知りたい。  しかし一方で、奈津美は不思議に穏やかな心持ちで、自らが至って冷静であることを自覚していた。だから、彼女の頬に唇で触れたのも、春真の深い眠りを確信していたからだった。  先で触れた柔らかな頬に、自らの唇をそっと重ねる。初めてのキスは、深い夜の匂いがした。
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