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湖畔にて2
翌日は、春真と共に、一日中湖畔でスケッチをして過ごした。気候もよく、存分に絵に没頭することができた春真は、上機嫌だった。無邪気とすら言える態度で、楽しそうにスケッチブックに向かっている。そんな春真の様子を見ては、春真が上機嫌なのはうれしい、と奈津美は思う。
奈津美は、今まで以上に春真の顔色を気にしている自分に気づいていた。
もちろん原因は、昨晩の会話で発覚した春真の過去と、夜中に気づいてしまった奈津美のうちにある願望である。
春真のことをもっと知りたい。でも、知りたいと思うことで嫌われたくない。
もしも春真に嫌われてしまったら、奈津美はこの先どのようにして生きていけばよいのか分からなかった。過去の友人とは決別したつもりであるし、両親は無理解の塊だ。春真は、いまや奈津美の生における唯一のよりどころとなっていた。そのよりどころを壊すわけにはいかない。壊さないためには、現状維持する必要がある。しかし奈津美は思ってしまった。もっともっと、春真を知りたい。春真の方へ近づきたい。
寝不足気味の頭も相まって、なかなかスケッチに集中することができなかった。気がつけば春真が絵を描く様子を眺めていた。そのくせ、春真がちらりとでも奈津美の方を見れば、その視線に捉えられたら終わりだとでもいうように、大げさに視線を反らした。
奈津美は自分でも不自然な態度をとっていることは分かっていた。だけど、どうしようもなかった。真夜中の冷静な自分はどこにもいなくなっていた。鼓動が早い。体は常に緊張している。春真の瞳の色を確かめたくてたまらなかったが、その目線を受け止めることなど不可能なことに思われた。
奈津美の不自然さはやがて春真にも伝わってしまう。夕方、広げた道具を片づけながら、春真が問うた。
「今日のスケッチ、どうだった?」
「どうって?」
奈津美も片づけながら答える。
「全然集中していなかったでしょ」
「分かるの?」
奈津美は少し驚いて、スケッチブックを閉じようとしていた手をとめる。スケッチをしていた湖の絵は、中途半端な出来だった。その代わりスケッチブックの別のページは、円やジグザグ線の落書きでいっぱいだった
「私、一応、絵の先生だからね。どうしたの? やっぱりつまらなかった?」
春真の聞き方は優しかった。その優しさがどこから来るのか知りたかった。嘘でもいいから、自分にだけ向ける優しさだと思いたかった。でも、もちろんそうではないことを、奈津美は知っている。
「別に」
思わず親に対するような口の利き方になってしまう。その答えに、春真も思春期の子どもを前にした母親のように溜息をつく。
「別に、って……」
春真は奈津美の手元のスケッチブックを覗きこもうとした。別に隠すほどのものではなかったのだが、反射的に胸元に押し付けるようにして隠してしまった。
「見せてよ」
春真の右手がスケッチブックに伸びる。奈津美はその腕を思わず拒否してしまった。払いのけられた右手を、春真は驚いたように見つめている。
そのとき。一陣の風が吹いた。
湖へ吹き抜ける強風だった。
「あっ」
風が、春真のかぶっていたつばの広い帽子をさらった。薄いベージュの帽子が夕暮れの空に舞う。何かを思うより先に、足が動いていた。奈津美はスケッチブックを放りだし、帽子を追って走り出した。
「奈津美!」
後ろで春真の声が聞こえた。聞こえないふりをして、ひたすらに帽子を目指す。帽子は、湖の方へと流されつつ、高度を落としていった。もう少し。手を伸ばす。しかし、まだ遠い。砂浜を駆け、靴越しに湖の冷たい水を感じた。足首が濡れるのも構わずに進む。もう一度手を伸ばす。触れる。触れただけで掴むことができない。さらに数歩進む。次はしっかりとつかむことができた。両手でしっかりと胸に抱える。
「奈津美!」
春真の声に振り向いた。春真は水際に立ち、奈津美を見つめていた。その両目は、暮れつつある太陽の色を反射しているせいか、不思議な色を帯びていた。その日ずっと避けていた春真の視線を正面から受け止める。春真は何かを言いたそうに小さく口を開いた。しかしその口から言葉が発せられることはなかった。
どのくらい見つめあっていただろうか。沈黙を破ったのは、奈津美の小さなくしゃみだった。水を吸って重くなったジーンズの冷たさに気がついた。
「春真さん、帽子!」
奈津美は両手で、春真の帽子を頭の上に持ち上げて見せた。
「ありがと、奈津美。ほら、早く上がって。風邪ひいちゃう」
歩く度にスニーカーがぐしゅぐしゅといって、気持ち悪い。ゆっくりとした足取りで湖から上がる。抱えていた帽子を、しっかりと春真にかぶせた。
「ありがとう」
春真は小さな声で告げた。二人の間を風が吹き抜けた。今度は、春真が帽子をしっかりと押さえたので、再び飛んでいくようなことはなかった。
それから二人は片づけをすると、洋館の方へと小道を戻っていった。
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