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二人で過ごす二日目の夜がやってきた。一日目とは違い、部屋には奈津美のジーンズとスニーカーが干してある。
順番にシャワーを浴びて、ベッドに潜る。
「おやすみなさい」
奈津美は春真に声をかけ、照明を足元の間接照明のみを残し、落とした。
「ねえ、奈津美、これは私の独り言なんだけど……」
奈津美は目をつむる。春真の女性にしては低い声が、心地よく耳に響く。
「ここにね、私、新婚旅行で来たことがあるの」
とくん、と心臓が跳ねた。
「夫も画家だった。玄関の絵、玄関のこの湖を描いた絵は、夫が描いたものなの。出会ったときは、私は東京の美大の学生だった。学校で、現役の画家の指導を受けるという授業があって、そこで講師としてきたのが彼だった」
「……どんな人だったの?」
思わず口を挟んだ。春真が布団の向こうで微笑んだ気がした。
「どんなって、一言で言うのは難しいな。大人の男だった。それに、とにかく惹かれる絵を描く人だった。風景画で、決して今風でもなければ目を引くようなセンセーショナルさもないのだけれど、不思議な魅力のある絵を描くの。まず、私は彼の描く絵に惹かれた。それから、こんな絵を描く人はどのような人生を送っているのか知りたくなった」
「好きになった?」
「うん。好きになるはずなんてないと思ってたのに。だって、三十歳も年上だよ。恋愛感情が生まれるはずがないと思っていたし、生れた感情が受け入れられるはずもないと思っていた。相手は立派な画家で、私はただの学生に過ぎなかったし。でもね、私は彼のことを知りたいと思う気持ちが止められなかった。知りたいという気持ちが、恋する気持ちと同じだと気がついたとき、私はもう自分を止められなかった」
「それで、どうしたの?」
「あとはお決まりのパターン。告白して、付き合って、結婚した。周りは大反対だったけどね。画家という職業を外して考えれば、彼は三十歳年上のバツイチのオジサンだもん」
「親と絶縁してるっていうのも?」
「そう。結婚が原因」
うまく想像できなかった。周囲の反対を押し切って、一人の男との結婚を選ぶ春真の姿を。しかし同時にものすごく春真らしいと思った。自分には絶対に選べない自由。
閉じていた目を開く。静かに寝がえりをうち、春真の方を向いた。春真は天井を見ている。表情を見たいと思った。
「春真さんは、幸せだったの、結婚生活?」
思い切って聞いてみた。
「うん、幸せだった」
春真は躊躇なく、断定した。答えは聞かなくても分かっていたような気がした。
「ねえ、春真さん」
「何?」
隣の布団が動く。ずっと天井に向かい言葉を発していた春真が、奈津美の方を向いた。ぼんやりとした闇のなかで、二人の目が確かに合った。春真の瞳のなかに小さな輝きを見た。その輝きを認めた瞬間、奈津美のなかで何かが弾けた。言葉がすらりと喉を通る。
「私、春真さんのこと、好きです」
奈津美は静かに告白した。脈絡がないことは分かっている。でも、今、奈津美が言えることは、こんな一言だけだった。
「そう」
夜の向こうで春真が頷いた。
「春真さん、そっちに行ってもいい?」
さらに勇気を出して言った。しかし今度は、春真は小さく首を振った。拒絶。
「まだ、だめ」
喉がひきつった。春真の方へ伸ばしかけた右手が、力なく空を掴んだ。
「どうして……?」
哀願するかのような、奈津美自身も驚くほど情けない声が出た。その声に答える代わりに、春真はその場で起き上がった。
「春真さん?」
春真はするりと自らのベッドを抜け出した。そしてすぐ隣の、奈津美のベッドの上へと移動する。
奈津美が驚きに動けなくなっているうちに、春真は寝ている春真の上に馬乗りになった。自然と奈津美は春真を見上げる形となる。見たことのない角度で見上げる春真の表情は、どこか辛そうに見えた。
「ねえ奈津美」
春真がつぶやくように言う。二人の顔の距離はもはや三十センチも離れていない。春真の髪が奈津美の耳に触れている。直接は触れていないのに、春真の体温を感じる。熱い。体中が緊張し、心臓が早鐘のように鼓動を刻む。
至近距離で見下ろしながら、春真が言う。
「あなたの好きは、こういう好き?」
その問いに奈津美は答えることができなかった。
「私の好きはこういう好きだったの。ねえ、奈津美、貴女にちゃんと覚悟はある?」
春真の瞳から一筋の涙がこぼれた。その意味が分からないうちに、体の上から重みが消えた。急に夜の寒さを感じ、小さく身震いした。
春真は立ち上がると、また元の通り自分のベッドに戻っていく。奈津美の方に背を向けて丸くなる。
「春真?」
「ごめんなさい、変なこと言って。おやすみなさい、奈津美」
「春真さん、まだ私、返事をしてない」
「……ありがとう」
大人はずるい。黙りこんでしまった春真を見ながら、奈津美はぼんやりと思った。今しがた自分の身に起きたことが信じられなかった。春真に好きと告げたことも、そのあと春真がとった行動も、どこか夢の中の出来事のように思えた。狂うように高鳴っていた胸の鼓動は、いつの間にか静かになっている。
奈津美は、その夜が更けるまで、春真の頬を濡らした涙について考えた。それから問われた言葉について考えた。自分は何か、とんでもない間違いをしでかしたのではないか。春真を傷つけてしまったのではない。そんな気がした。しかしそのことを確かめる手段は残されていなかった。
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