3. 発端

1/1
前へ
/46ページ
次へ

3. 発端

 記者とは、情報を伝える仕事だ。  正しく、質のいい情報をより多くの人に届けることが私の役目。  ……それに、背いたことがないわけでもない。  生きていく限り、綺麗事ではやっていけないのが世の中だ。  そうやって歩んできた生に不満がないとは言えないけど、自分がそこそこ恵まれている方だとも理解している。それでも……どこかで空虚な感情を抱いていた。  本音を言えば、つまらない日常を変えられるだけの「何か」を欲していたのかもしれない。  ***  ロデリックの家に押しかけ……じゃない、行くのは初めてだった。  向こうは極度の出不精で、喫茶店で話を聞くとなるとかなり予定を遅らせてくる。……電話でササッと済ませる手もあったけど、ネタすら固まらなかった以上、実際に顔を合わせてじっくり聞き出すしかない。ついでに言えば、ロデリックにも多少ネタを考えてもらいたかった。ほら、あいつ、作家だし。 「……あれ、ロッドのお客さん?」  マンチェスターにある彼の家に向かうと、玄関先で見知らぬ青年と鉢合わせた。中性的な顔立ちで、なかなかの美男子だ。左目の泣きぼくろがセクシーな感じもする。身長は男性にしては少し低めで、(あたし)より少し高いくらい。  家事手伝いサービスの職員にしては格好がラフだし、友人……かな? ジョギングかウォーキングでもしていたのだろうか。 「取材させてもらいに来ました。サンダースって言えば通じると思います!」 「サンダースさんね。ちょっと待ってて、呼んで来るから」  そう言うと彼はにこりと笑って、家の中へと入っていった。  しばらくして、ロデリックが寝ぼけた顔で出てくる。この前会った時よりだいぶ痩せているけど、あまりに痩せすぎてて逆に心配になる。それなりに男前な顔つきだろうに、無精髭に野暮ったいメガネはわざとなんだろうか……? 「早かったな……」 「早めに来たら奥さんにも会えるかなって」 「……じゃあ良かったな。早速会えたじゃねぇか」  ロデリックの視線の先で、さっきの青年がきょとんと首を傾げる。  ……もし『City of(はいしゃ) Loser(のまち)』に書かれた出来事が実話……でないとしても実話を元にしたものだとするなら、彼の妻が中性的なのも納得できる。  っていうか、この外見でアラフォーって方が納得できない。どこからどう見ても20代前半じゃん……? 「アン、彼女はオリーヴ。……って、知ってるか」 「……誰だっけ」 「……俺のメル友で……まあ、この前ちょっと騒ぎあったろ」  ロデリックの妻……アンドレアは長い間半死半生の状態にあり、生きながらにして亡霊のようになっていたらしい。  そこが実話だと有り得ないって言われてるんだけど、この際信じておこう。その方が面白いし。 「……?」 「忘れてんならそのまま忘れとけ」 「えっ、何だよそれ」 「いいから」  2人の会話は、傍から見ても「仲が良いんだな」とわかるくらいテンポが噛み合っていて、お似合いの夫婦だとよくわかる。 「へぇ……」 「んだよ」 「幸せそうじゃん」  私がそう言うと、ロデリックは顔を真っ赤にして「……うるせぇ」とぼやいた。  隣で奥さんが微かに笑ったのも見える。……死の淵から帰ってきた、ロデリックの愛しい人。 「つか、そんなに毎日運動して身体大丈夫かよ」 「少しぐらいは鍛えた方がいいだろ。筋肉ってすぐ衰えるし」 「……すげぇな……」 「ロッドも一緒にウォーキングする?」 「そ、それは……その……」 「……嫌なんだな」 「うっ」  楽しげに語らう二人を見ていて、うっかり、記憶の蓋が緩んだ。  ──オリーヴ  嫉妬するなんて間違っている。そんなこと、わかっている。……わかっているのに。  ──まだ、死にたくないんだ  どうして、あいつは帰って来ないの?  バカな感情だって、自分でも思う。  くだらない、幼稚な妬みでしかないって……痛いほどわかってる。  だけど……だけど、私だって彼に帰ってきて欲しい。もう一度会いたい。もう一度、触れ合いたい。 「サンダースさん?」  ハッと顔を上げる。  ターコイズブルーの瞳と目が合った。 「大丈夫?」  アンドレアは死者の世界から帰ってきた。  ……もし、死者の世界に行けば、……その世界に向かえば、私も「彼」に会える? 「……俺、飲み物取ってくるわ」 「わかった。じゃあ、見ておくね」  ロデリックの提案に、アンが頷く。  些細な掛け合いにも信頼関係が見えて……「絆」を感じさせる。   「す、すみませんボーッとしちゃって! でも、もう平気です!」  口ではそう言いながらも、私のドロついた感情はなかなか収まらない。  ──ねぇ、おいで  その時、「何か」の声が聞こえた。  まるで、私の欲望に呼応したかのように……目の前で闇が渦巻く。 「……え?」  何ひとつ状況が理解できないまま、呑み込まれた。  深くて、暗くて、何も見えない闇の中、本能が絶えず警笛(けいてき)を鳴らし続けている。  ──危ない!  聞き覚えのある声が私を止める。  抗おうとしたけれど……為す術もなく、私の意識は暗闇に取り込まれて行った。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加