9. Manonの記憶

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9. Manonの記憶

 母の再婚相手は、詐欺師だった。  実父は警察官で、幼い頃に殉職(じゅんしょく)した。周りはみな父を英雄だと称えたが、母はその死に深く傷つき、嘆き悲しんだ。……その心の傷に巧みにつけ込んだのが、あのクソ野郎だった。  父が遺したものはそれなりに多く、クソ野郎はそれを狙ったのだ。  義父となってすぐ、奴は本性を現し、家の金に手をつけては放蕩(ほうとう)を繰り返した。一つ下の妹はそれに呆れ果て、海外に留学したっきり帰らなくなってしまった。  母は、それでも義父を信じようとした。今は荒んでいるだけ。いつか以前のように支えてくれると、何度も何度も自分と私に言い聞かせ……日に日にやつれていった。  ある日、酔って帰ってきた義父は私に酒臭い息を吐きかけ、「キミは可愛い。何より、若くて美しい」と……反吐が出るような言葉を告げた。  殺すしかない。  その時、確かに思った。  でも、あんなクソ野郎のために私が罪に問われるなんてバカバカしい。  母が盲信せずに離婚を切り出せたなら全てが終わるのに……そう、鬱屈した思いを溜めながら日々を過ごしていた。  *** 「隣、いい?」  ある日、大学のカフェテリアで派手な女が隣に座った。気合いの入ったファッションや、高価なアクセサリーがきらびやかに彼女を彩っていた。 「カレシを待ってるんだけど、暇で」  濃く、深みのあるグリーンに染めた髪をいじりつつ、女は言った。 「後、わたしカフェオレが飲みたい。頼んでくれる?」 「えっ? 私が?」 「良いじゃない。頼むだけだし、お金はわたしが払うから」 「そんなの自分で」  頼めば? と言おうとして、 「わたし、髪をセットしないといけないし」  なんて、遮られてしまった。 「……はぁ?」  仕方ないから、頼んでやった。  とびっきり苦いって有名なエスプレッソをね。  ……それが、後に友人となるエレーヌ・アルノーとの出会いだった。  エレーヌは、とにかく自分勝手な女だった。  遊びに行く時も何かを食べる時も、何でもかんでも自分の思い通りにしようとする。  だけどどこか明るくサッパリしていて、憎めない部分もあった。……まあ、だからどれだけ取っ替え引っ替えしても新しい「カレシ」ができるんだろう。 「……また、髪の色変えてる」 「今のカレシ、この色が好きらしくって」 「いい加減トラブルに巻き込まれるよ」 「別に、構わないわ。それはそれで楽しいもの」  多くの人に恨まれもするけど、多くの人に愛されもする。  それがエレーヌだった。  私は恋愛なんてまっぴらだと思っていたから、エレーヌの「恋愛を楽しむ」生き方を羨ましいとも思わなかった。  自由気ままに振舞っている……という部分には、少しだけ妬ましいと思ったところもあるけれど。  母の方はというと、いつまでも義父から離れようとしなかった。  ……父と似ても似つかないのに、どうしてそこまで盲信するのか、私には分からない。ただ、そこにあるのが愛のみだとは思えなかった。  母は、きっと置いて逝かれたくなかったのだ。だから、愚かにもあんな男にいいように扱われ続けてしまったんだろう。  ***  エレーヌの髪が栗毛に変わった頃、最悪の進展があった。  ……ついに、義父が私への情欲を隠さなくなったのだ。  きっぱり「これ以上は警察に言う」と告げれば、母が泣き喚きそうな顔で私に縋り付いてきた。 「やめて! 今はお仕事が上手くいっていないだけ! 本当はいい人なの!! 私から……私からその人を奪わないで!!」  父は……  父なら、母がこんな姿になることを決して望まなかった。  ……「助かった」と言わんばかりにそそくさと部屋を出ていくクソ野郎を見て、心の底に殺意が渦巻くのを感じた。  ストレスと警戒心で、安心できない日々が続いた。  当時のエレーヌはカレシと気が合っていたらしく、機嫌が良かった。……だから、義父への愚痴もある程度零すことができたけど、あのクソ野郎への嫌悪感はそれじゃ収まらなかった。 「大丈夫? つらそうな顔、してるわよ」  そんな時、同じ学科の先輩に声をかけられた。  紫の髪とワインレッドの口紅が印象的な、背の高い男。……いや、女、と言うべきなのだろうか。  名前はノエル・フランセル。ちなみに、本名じゃない。 「相談ならいつでも乗ったげるわ!」  その「ポーズ」に胡散臭さを感じて、最初は断った。よく人の相談に乗ってる人らしいけど……私は、どうしても信じきれなかった。  そのうちエレーヌはまた違う男と付き合い始めて、今度は亜麻色の髪になった。 「……あの人、なんか怖いんだよね」  ある日、ノエルについてエレーヌに聞いてみた。 「何が? 確かに個性的だけど……」 「うーん……。なんか目が笑ってないし……。それに、この前、スッと真顔になるのを見ちゃったんだけど……びっくりするほど冷たい顔で……」 「たまたま疲れてたんじゃないの? 気にしすぎだって」  エレーヌは特に気にしていない様子で、「そうかな……」とぼやくしかなかった。 「何かあったら相談に乗ってくれる人らしいし、疲れることだってあるんじゃない?」  そう言われて、とりあえずは考えないようにした。  ……そう。そのまま疑っていれば良かったんだ。  あんなやつを信じなきゃ、私の運命はまだマシだった。  ああ、クソ、また腹が立ってきた。  ド畜生が、勝手に死んで楽になりやがって。  私がどれだけ生き地獄を味わったと思ってんだ。くたばる程度で終わらせてたまるかよ。ついでにあのクソ義父も「こっち」にいるんなら、一緒に…… 「……ッ、おい、止めろ! 私の中を勝手に覗いてんじゃねぇよッ!!!」  ***   「……ッ、おい、止めろ! 私の中を勝手に覗いてんじゃねぇよッ!!!」  マノンの叫び声で、我に返る。  今のは、何……? 一体、何が見えたの? 「覗いたんじゃねぇよ。お前さんから溢れ出したんだ」  レニーが冷静にたしなめる。 「……ッ、本っ当に訳のわかんない空間……!」 「おうよ、俺らもまだ解明しきれてねぇ。とにかく落ち着きな。カッカしても悪いことしかねぇさ」  マノンははぁ、はぁと肩をいからせながら、その場にへたり込んだ。 「お前さんが、ノエルに復讐したくて来たってんのはよく分かった」 「……止めようとしたって無駄だよ」 「おいおい、俺に口出しする義理があると思うかい? 復讐したいなら好きにすりゃいいさ」  レニーは冷静に告げ、呆然と突っ立っている私達の方を見た。 「お前さん達を帰す算段(さんだん)は、残念だがまだついてねぇ。……けど、そうだな……帰りたくねぇって思ってるままじゃ、ちっと危ういか」  エメラルドグリーンの瞳が、私達をぐるりと見回す。 「……よし、そうなりゃ仕方ねぇ。一人ずつ、正直に願いを言ってみな」  ポールは「えっ」と目を見開き、マノンは訝しげにレニーを睨みつけ、レオナルドは大きなあくびをひとつ。  私は、「願い」という言葉に気を取られていた。  確かに、  確かに、存在したはずなのに。  私の「願い」は……どこに、消えたの? 「叶えられるモンなら叶えてやるぜ。それで仕事が早く終わるんなら、俺にとってもお得だしな」  どうしても、叶えたい願いが私にはあった。  絶好の機会が目の前にある。……けれど……  記憶に空いた穴の大きさを前に、私は立ち尽くすしかできなかった。
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