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どこかから打鍵音ががちがちと響いていた。
そんな音に気がついたのは海人ではなく、そのすぐ隣に居た見知らぬ女子生徒だ。
「なんだろう。この音」
彼女があちこちを視線だけで見回しているのに対し、海人はそれを特に不思議にも思わず混乱していると判断しただけのようだった。
先程よりも足音と振動が大きくなっているのに、講堂に集まった生徒たちは騒ぐ様子もなくただただ雑談を続けている。
その危機感のなさは別段不思議でもないけれど、しかし本質的に臆病である人間にとってはあまりに歪に見える光景なのだろう。そこかしこで頭を抱えたり顔色を悪くして蹲っている生徒が散見される。
海人はそれらをどこか他人事のように捉えているのだろう、ほとんど表情を動かすことなく棒立ちのままぼんやりとした視線で虚空を見ているだけだった。
「ん、んー」
細かい振動に酔ってしまったのか、脳髄の奥が奇妙な痺れを覚えている。
だからといってそれは不快な感覚ではなく、現実を実感を生命を震わすようなよく解らない波動がどこまでも深く染み入っているのが自覚できる。
「とはいえ、だ。いつまでもこんな場所でうだうだとしていられるわけもないんだがな」
無用な時間が、無為な空白がそもそも好みな感覚とは言えないらしい彼にはなかなかつらい時間な様子だった。
滔々と溢れる何かが窓に触れて燐光を発している。
それが何を意味しているのかが今ひとつわからないけれど、しかし今まで蓄積していた知識から「霊力」に似た何かだとはうかがい知れた。
それはどちらの「遠田海人」の知識なのかは判然としなくとも、今更そんなことを気にしたとて何の意味もないことは知っている。
ゆえに根本を問うような行為は早々に打ち切ってしまおうとしていたのだけれど。
ど、ずん。
そんな重低音が横隔膜を震わせると同時に、瞬間的に断ち切られた思考と入れ替わりに何か不思議なものが視界の横に入ってきた。
「…………っ⁉」
今度は心理的なインパクトによって、反射的に息を詰める。
窓に貼りついていたのは人間の腕だ、と認識するも。
しかし二階部分の小さな窓に当たっていたそれはすぐに剥がれて落下していくので、ほとんど誰の目に留まることもなく消えていく。
それでもそこに残留する血液は鮮やかな朱色を保ったままそこにへばり付いて、ゆっくりと滑り落ちていく。
海人の脳内の一部がどうしようもなく停止しているのは自覚できているものの、その機能を動かすのはまだ早いと考えつつ。それでも次に何をするべきかをなんとなく考え始めているのには驚きもなく。
「…………だからって何もしないわけじゃあない」
そんな声が当たり前のように漏れ出しているのには意識すら向くこともなく。
ゆらゆらと取り留めない思考の奥底が、何かの行動を指示していることにすら自覚的ではないので、彼はただ何となく足を動かし始めていた。
「ふ、ぅ……」
ただこうやって講堂を出ていくそれだけの行動は、しかしその場で特に咎められることなどなく、単に待機中に用を足すくらいの意味合いしかないのでは目をつけられるなんてこともありえはしないのだ。
どうしようとも、そこで止められないのならば。
何をしようとも自由だろうと、彼の未熟な思考は言っている。
玄関ロビーには人影は見当たらない。
そもそもこういう状況で暢気に席を立てる人物の方が希少なのだと海人だって知ってはいるのだけれど。
「知っておきたい、ただその好奇心で身を滅ぼすことになろうとも―――」
自殺願望があるわけではないのだと知っている。
生きたくないわけではない。死にたくないと思っているだけだ。
だからこそ、その身を限界まで消耗させてまで生き延びることを選択できる。
だが。
だからこそ、自分自身を省みない無茶な決断を出来てしまうのが海人自身の愚かさだろうと、昔々に言われていたはずなのだけど。
でも、それを誰に言われていたのかが思い出せない。
とても大事なはずの誰かのことが、記憶の底に沈んだままだ。
「だからこそ、それを思い出したいと望むこともまた間違っているとは言いがたいというだけのことなのだけれど」
どうだろうね?
誰に問うでもなく、独り言の筈だが。
「言いがたいというだけで、言えないという訳ではないだろう」
聞き覚えのあるはずの聞き覚えのない声が、そんな風に応じてきたのに、虚を突かれたように行動を一瞬だけ止めていた。
海人は黙ってその声の方向に向き直る。
「いや、お前に関してはどうにも解らんのだが」
「別にフォローなんざ入れなくたっていいんだけど」
銀髪の少年が海人の目を見据える。鋭くも落ち着いた、やはり銀色の目が何か異様なものを見るように細められているのに対して、しかし海人は特に意味もないだろうと判断して問いかけることもしなかった。
「自死を望むようなら気絶させてでも止めるところだったがな、その気はなさそうだな」
「まあな。別にオレだって死にたくて生きている訳じゃあない」
矛盾する言いようでも、それはどこかで存在しているはずの人間の在り様の一つだと推測できれば、別にいちいち否定する理由もないと少年は頷いた。
「で、京太。学年委員長の一人がこんな所で何をしているんだ」
問うてみた言葉に対し、織俵京太は特に理由があるわけでもないんだがねとひどく曖昧な回答を寄越してくるので。
「言えないことか」
「そうかもな」
鎌をかけるでもなく推測に過ぎない声に、特に否定もされず。
そしてそれでいいのだろうと納得する海人に向かう視線が、何故か疑念の色を含み始める。何か、異様なものでも見るような不可解を薄く表情に刻んでいるのは海人には好ましいとは思わせない。
どうかしたのかと思ってその表情を眺めていると、京太は今度は不思議がるような視線を向けているけれど。一体自分の何が彼のそう思わせているのかを考えるのは、無駄な気がしていた。
「まあいいさ。取り敢えずお前は早急に戻っていた方がいいだろう」
「それより、聞かせてくれないか。……この学校、迦光学園は一体何と競り合っている?」
学年委員である彼であれば、当然のように知っているはずだ。そもそも、そんなことを知らずに行動できるような権限しかないのならば、その立場にすら立てる理由もない。
そう思っての質問に、しかし京太はどういう訳か嫌そうに視線を逸らした。
「…………どうして俺がそれを知っていると践んだんだ」
「――――どうしてその程度の想定すらできないと思ったのかを訊き返したいがな」
海人の思考からすれば、当たり前のように想像できることなのに。何をそんな意外そうにしているのか……いくら何でも馬鹿にしすぎだろうと憤りかねないくらいの心外な態度だ。
「いや、別にお前を甘く見ているという訳ではないんだ。ただ、内部の生徒全体には敵について詳細不明だという情報しか出していない。いくら何でも、敵の情報を教えたところで」
「迦光市街で無用な戦闘行為に及ばれては困るから、かな」
その通りと肯かれた。
校内規則ではなく、国内の法律として。
非常時以外の異能戦闘は禁止されている、という現実。
それはこの世界の海人にも判るし、向こうの世界の法律に照らしても理解はできる。
暴行、傷害。迷惑行為、殺人、決闘に関する件。
現時点において、表の世界に属している異能者にとっては逃れられない現実だ。
「不用意に敵対している相手を教えてしまうと、街中で戦闘になりかねない。でも」
そう、と京太はその先を言わずとも理解していた。
「相手がそういう自制的な行動を取るとは必ずしも言い切れない……ゆえに」
周囲の人間。街の住人に危害が及びにくい場所で迎撃するのが現時点での策でしかない、ということで。
ただ、それは安全策とは到底言いがたいものでしかなく。
その作戦は単に受動的な在りよう、弱腰としか言えないものだろう。
「……そりゃあ、間違っているとは言えないけど。だからといって正解だとも言えないのは解っているんだろ?」
「当然。この状態ではどう動いたところで排除しきることなどできやしない。こっちから打って出ない限りは泥仕合にしかならないさ」
それで、と海人はピッチを変えて問いかける。
「現状はどうなっているんだ? まさか劣勢とか」
「どうだろうな、こちらとしても相手の全容が量れない以上は希望的な観測をするわけにもいくまいて」
そうか、と頷くも。
しかし、と考えは続く。
「だとしても、裏に属する存在であるのなら。そもそも然るべき機関が動いているんじゃないのか? 別に異対だとかぬるいことは言ってないんだけど」
解っていると京太も応じていた。
地下組織のような存在はいくらでも見つけられるのだから、そういうものに対して動くのはもっと大規模な組織。現時点で知られているなら、AL-teregoやら公安やら政府の専門組織だろう。
まあ、最後のものに関してはほとんど噂レベルの曖昧な話でしかないけれど。
「……、まあ動いているんだろうが。俺の耳には入ってこないな……その辺りは本当に執行部の中心メンバーでしか共有されていないのだから」
中央委員程度では一枚噛むことすら難しいのさ、とはっきりと言い切られた。
別に意図したわけでもないだろうに、その口調が不必要にニヒルな印象を与えてしまう。だからといって、その内心まで虚無に侵されているとも思えない。
「……知らぬが仏とは言うけどさ、だからといって差し迫った危機に対して静観を決め込むのも難しいとは思わないか?」
正直こんな所で問答をしているほどに暢気に構えてなどいられないのはどちらも解っている。
こうしている今も、外の方からは細かい振動が地面を伝って全身を痺れさせている。
別に存在するだけで何もかも終わらせてしまうような人間など存在しえないのだから、誰かが一撃で全て決めてしまうようなことがありえないからこそ、目立った損害が出ていないとも言える。
「どこまでいっても大部分の人々は傍観者でしかないんだよ。全員が世界に存在している以上は誰もが当事者であるはずなのにさ」
戦争なんて大概そんなもんだろうと思っても、どちらも口にすることはない。
単なる立場と視点の違いでしかないものに、いちいち文句をつけるのもおかしな話でしかないからだ。
「戦争ねえ……。オレからすればどうしてかジャメヴを覚えるんだよね」
「無意味に慣れきってんなあ。別に緊張感を持てるのならば悪いとも思えないけれどな」
単に麻痺しているんじゃあないのかと思うけれど、という本音は言わないでおいた。
で? と海人は首を軽く傾げる。
誤魔化されるつもりはないのだ。
こういう態度をやや憔悴している様子の京太に向けることには、あまり乗り気ではないのだけれども。
だからといってここで問うておかなければ、最後まで有耶無耶にされてしまいかねない。それだけがなんとなく業腹なのだ。
「Them。この通称しかないらしいな」
「…………へえ、そいつは奇妙だね」
そうは言ってみたものの、しかし名前の無い団体などこの世にはいくらでも存在するのは当然の道理だ。別にそれ自体は咎めることでもないだろうし、寧ろ通称が存在する時点で判りやすくなっているのならば好都合だろう。
ただ、それは外部から見ただけの話でしかなく。
内部、つまりその組織に属している当人からしてみればそんな呼称すらどうでもいいものでしかないだろうことは推して察せられる。
そんな返答を京太は軽口と受け取ったのか、どこか剣呑な視線を投げてくる。
だからといってそれに動じるほど敏感な精神をしてはいないからか、海人の表面的な態度には何も色が浮かばない。
しているとそれに対しても不可思議を感じたらしく、矯めつ眇めつしながらしばらく無言で観察していた。
それも二分を過ぎ、いい加減痺れを切らしたのかどうかは解らないけれど。
「…………ん、外に何かあるな」
声を出さずに呟いていた。よく観察してみれば、京太の右の眼球にモニタらしき光が浮かんでいるのが確認できる。おそらくは視界にオーバーレイする仮想ディスプレイを入れているのだろう。
そんなものが実用化されていることには驚くしかないけれど、それでも「そんなものもあるんだな」と思うくらいで。どうしてか感銘のようなものは起こらなかった。
未知のもののはずで、しかしこの世界においては既知のものでしかなく。
その二つの相反する認識の齟齬に、思考のバランスが不快に傾いでいく。
「何だその顔。具合でも悪いのならなおさらここには居ない方がいいだろう?」
そんなんじゃねえよ、となんだか噛みつくような口調で返答していたが、海人自身はそこに意識を向けてはおらず。
何かを不快に感じているらしい表情を全く隠していないだけのことだった。
ともかく、と京太は戻るように促してくるものの。
「嫌です」
海人はそれを一言で拒否してしまった。
別に想定していた返答というわけでもないだろうに、それでも無意味に気色ばむこともない精神も海人には不思議に強いなとは感じてしまう。
うんざりと溜息を吐きながら、まあいいさと首を振っている京太の後ろから他の誰かが声を掛けているのを見て取った。
しかし向こうはこちらには意識を向けていないらしく、全く言及しない。
そういえば昔にも、戦場に自分から向かっていった生徒が居たらしいことは聞いている。その誰かが最終的にどうなったかというのは知らないものの、それは隠すべきと判断したからなのか。
離れていった誰かを見送ることもなく、京太は向き直って。
「見たいのならば好きにすればいい。だが、無用なことは……無闇なことはしないでもらいたい」
いったい何をどうして無闇と判断するのかは解らないけれど、それには別に反論する理由もないので素直に頷いた。
どこへ向かうなどと問う必要もなく、すぐ傍に開いている玄関から速足で出ていく。
しかし―――学校へ攻めてくるような異能者たちがどうしてか校内へ侵入してこないのも不自然だと感じている。相手側の目的がどういうものであれ、内部を壊して制圧するのが当たり前の手段だと感じてしまうのは自身の想像力の問題なのだろうか?
訊いてみれば、侵攻してくる相手の勢力自体はそこまで大きいものではないらしい。
彼らがどれほどの全体像を持つ組織であっても、リソースを一ところに集中させられないから、落としきれず。
しかもこちら側も人死にを出すことができない以上、どうやっても戦力を削ぎ落すことができない。結局は停滞する戦況を打開する手段がないのが問題なのだ。
「それだけを聞いていれば、どちらにも致命的な損害はなさそうだけど」
「こんなことの対処で時間を取られるのも損害だがな」
解っているよ、と返すしかない。
慢性的なダメージとなると流石に見過ごすことも難しくなるのは当然だ、教育機関が無意味な諍いを放置していては、それこそ公的機関としての意義が揺らぎかねない。
実際に放置しているわけがないのは解っているけれど。
それでも現状何も変わっていないのを目の当たりにしてしまえば、不信感は多少にでも積もるだろうか。
「どこへ行けばいい」
「こっちだ」
京太の進むほうへ、彼の真似をして足音を抑えながら進んでいく。まあ地面がアスファルトであるならば抑えきれるようなものでないのだから、単純な真似でしかなかった。
校舎の裏側、グラウンド側の通路まで出てくると、そこかしこに血痕のようなものを見られる。僅かな生臭さに眉をひそめながら、ちりちりと肌を焼く熱気に怖気が走るのを感覚した。
不可思議な気分の悪さ。
臓腑の奥にわだかまるそれを制御する時間も無く、先を行く京太に話しかける余裕も見当たらない。
その大きな背に続いて踏み出す瞬間、破裂音に似た衝撃に耳を奪われる。
しばらく続いた耳鳴りの薄れに意識を移し、それでも視線を前に向けていたのに。
地面に血の跡を伸ばして動かない、見知らぬ誰かの倒れ伏す姿に逡巡してしまう。
自分の血ならともかく、他人の血液など見たくもない。海人の抱いた本能的な嫌悪感が間違っているとは思えないものの、それを否定も肯定もされた記憶がないのが不思議だ。
存在しない記憶がどちらのものかは判別できないけれど、結果としてないものはないとしか言えないのならばどちらでも同じことだ。
「生きているよな」
「死の気配はないから、今のところはというだけだが」
捨て置く気もないけれど、しかし悠長に助けている暢気さもないだろう。
常に緊急事態というのが、なんだか気味の悪い環境だと思うけれど。それでもどうしてか海人の心境は特に沈みもしない。
いやに慣れきってしまっている。
先程も指摘されてはいたけれど、不自然なジャメヴ。
そして同時に不快なデジャヴを拭いきれない。
矛盾しているが、しかし両立している事実は覆りはしないので諦めるしかないだろうか。
首を捻っている海人に構うことなく、京太がさっさと先へ進んでいってしまう。変に声を掛けたりしないのは最終的な自己責任論とは意味が違っているとは聞いていたけれど。
喉が詰まっている自覚を無理に呑み込むこともなく。
緊張に圧されているだけであるなら、責め立てることもできやしない。
(オレだって同じだろうが)
頬を軽く引っ掻いて、その痛みに僅かな覚醒を得た。
ぼやけた意識を引き戻しても、頭の回りが早くなることもないだろうが。
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