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日が西の山の端に落ちようとしている。
初は窓辺に拠り、薄れつつある斜陽の中、貸本屋で借りた書物を読んでいた。
その昔、京の都に産まれた貴族の兄妹が、互いの立場をこっそり入れ替えるという少し変わった物語である。
頁を捲った時、廊下の向こうから母の声がした。
「初、暖簾を仕舞っとくれ。あんた、こんな時間にまた本なんぞ読んでないだろうね」
はあい、と初は声をあげつつ書物を置く。彼女は京の都を舞台にした恋物語が好きだが、父も母も、そんなものを読むために娘に文字を習わせたのではないとぼやいている。初の家は、島田屋という旅籠である。
初は店の表へ向かう途中、奥の座敷の前を通る際に、つい歩を緩めた。
格子戸のわずかな隙間から、宿泊客の姿が窺える。
二人の従者らしき侍と向かい合って座しているのは、世にも美しい姫君。
すらりとした長身と雪のような白い肌を持ち、切れ長の双眸には夜空の星のような瞳が輝いている。絹のような黒髪が、鶯色の単衣の肩に流れている。
人知れずほうと溜め息を吐き、初は廊下を渡り、店の表へ出た。
この町で宿を取る客のほとんどは、これから西の伊久呆の峠を越えるか、東の富多川を渡る旅人である。あのご一行は三日前に東からやって来て以来、この宿に逗留している。
時折耳に入る話し声を聞くからに、どうやら追手を恐れている。西へ行かねばならぬが今外へ出れば瑞城の手の者が云々と、連れの武士二人が繰り返している。瑞城というのは、この辺り一帯のご領主である瑞城氏のことだろう。
この辺りの者たちは、特別に事情がなければ、こういう客をお上へ突き出したりしない。事情のある客は揉め事の種になりうる半面、高い宿賃を黙って払い続けてくれる上客である。
初は、あの美しい姫君に起きた物語をあれこれ想像するうち、ご一行が無事に西へ逃れてくれればよいと密かに肩入れするようになった。もしかしたら京で、彼女を慕う若君が待ち侘びているかもしれない。
通りに面した店の表へ出て、初は鍵棒を使い、暖簾を外す。
近頃は治安が芳しくなく、富多川で最後の渡しが終わる刻限になると、多くの旅籠が暖簾を仕舞う。既に周囲の店も、一通り閉まったあとである。
下ろした暖簾を戸口の中へ入れていると、薄暗い通りの向こうから、ばたばたと駆け足が近付いてきた。
「待て、待ってくれ」
太い男の声に、初は思わず振り返る。
大柄な、若い坊主がこちらへ向かって駆けてきていた。しかも、坊主はずぶ濡れである。富多川を渡った客だろうと初には想像がついたが、輦台から転げ落ちたのだろうか。
「一晩宿を貸してくれんか」
走ってきた坊主にそう言われ、初は目を瞬かせながら、頷いた。空き部屋はある。
しかし坊主ならば町の外れへ行けば、どこぞの寺が宿を貸してくれるのではないか。
「いや、助かった」
坊主は言い、背後を振り返って手を振った。
通りの向こうから、さらに二人の人影がこちらに向かって歩いてきていた。
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