32. 月の啼く聲

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 孔蔵は峠道を十馬と歩いている。  宋十郎や伊奈、豊松などに見送られて深渓を出たのは、少し前のことだった。  先ほどまで孔蔵は、冬の間に読んだ書物の話や、寺で養っている孤児の話をしていた。色々と話しているうちにふと思いつき、口を閉じると十馬に訊ねた。 「なあ、ちょいと前から気になってんだけどな。あんたが俺と会った時、なんて名前だったっけ?」  前を歩いていた十馬が彼の方を向く。 「おれが、自分を鳥だって言ってたって話?」 「そうそう。そん時あんた、何か別の名前を名乗ってただろ。度忘れっつか、すこんと抜け落ちちまったんだけど、なんて名前だっけ」 「それ、みんな忘れちゃったって言うね」  孔蔵は首を捻る。 「そうなんだよなあ。確かに二十日足らずのことだったけど、一応その名前であんたを呼んでたんだが」  十馬の声が軽やかに喋る。 「思い出せないなら、それでもいいんじゃないかな。忘れちゃえば、なかったのと同じだよ」  むむむと孔蔵は唸った。 「なかったことにはならねえだろ。けど、まるでそんなふうになっちまうな」  すると、十馬は柔らかく笑い、歩きながら言った。 「孔蔵さん。おれ、思い出せなくても平気だよ。なかったことにはならないけど、今この時がすごく幸せだから」  その言葉を聞いた孔蔵は、一度黙って考え込んだが、ふと顔を上げた。 「……ちょっと待てよ。あんた今、あんた自身も忘れちまったとは、一言も言ってねえな」  えへへへと、十馬は悪戯を見つかった子供のように笑った。  孔蔵は眉を上げた。 「あんた、憶えてんじゃねえか」 「憶えてるっていうかね、今思い出したんだよ。最近、色々、少しずつだけど思い出すことがあるんだ」 「何で黙ってるんだよ」  責めるわけではなく、孔蔵は単純に疑問を口にしたが、十馬はどこかばつが悪そうに答えた。 「言うと、もっと思い出しちゃいそうだから」  つまりそれは、思い出したくないということだ。  確かに十馬は鬼になりかけていたのだから、その頃の記憶など思い出したくもないだろう。思い出すということは、頭の中でもう一度体験するようなものだ。 「……なるほどな。余計なこと聞いて、悪かったな」  素直に、孔蔵は謝った。 「ううん。おれも話せなくて、ごめんね。でもきっとそのうち話せるようになると思う。忘れたくないこともたくさんあるし、これから楽しいこともいっぱい増やしていくから」
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