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孔蔵は峠道を十馬と歩いている。
宋十郎や伊奈、豊松などに見送られて深渓を出たのは、少し前のことだった。
先ほどまで孔蔵は、冬の間に読んだ書物の話や、寺で養っている孤児の話をしていた。色々と話しているうちにふと思いつき、口を閉じると十馬に訊ねた。
「なあ、ちょいと前から気になってんだけどな。あんたが俺と会った時、なんて名前だったっけ?」
前を歩いていた十馬が彼の方を向く。
「おれが、自分を鳥だって言ってたって話?」
「そうそう。そん時あんた、何か別の名前を名乗ってただろ。度忘れっつか、すこんと抜け落ちちまったんだけど、なんて名前だっけ」
「それ、みんな忘れちゃったって言うね」
孔蔵は首を捻る。
「そうなんだよなあ。確かに二十日足らずのことだったけど、一応その名前であんたを呼んでたんだが」
十馬の声が軽やかに喋る。
「思い出せないなら、それでもいいんじゃないかな。忘れちゃえば、なかったのと同じだよ」
むむむと孔蔵は唸った。
「なかったことにはならねえだろ。けど、まるでそんなふうになっちまうな」
すると、十馬は柔らかく笑い、歩きながら言った。
「孔蔵さん。おれ、思い出せなくても平気だよ。なかったことにはならないけど、今この時がすごく幸せだから」
その言葉を聞いた孔蔵は、一度黙って考え込んだが、ふと顔を上げた。
「……ちょっと待てよ。あんた今、あんた自身も忘れちまったとは、一言も言ってねえな」
えへへへと、十馬は悪戯を見つかった子供のように笑った。
孔蔵は眉を上げた。
「あんた、憶えてんじゃねえか」
「憶えてるっていうかね、今思い出したんだよ。最近、色々、少しずつだけど思い出すことがあるんだ」
「何で黙ってるんだよ」
責めるわけではなく、孔蔵は単純に疑問を口にしたが、十馬はどこかばつが悪そうに答えた。
「言うと、もっと思い出しちゃいそうだから」
つまりそれは、思い出したくないということだ。
確かに十馬は鬼になりかけていたのだから、その頃の記憶など思い出したくもないだろう。思い出すということは、頭の中でもう一度体験するようなものだ。
「……なるほどな。余計なこと聞いて、悪かったな」
素直に、孔蔵は謝った。
「ううん。おれも話せなくて、ごめんね。でもきっとそのうち話せるようになると思う。忘れたくないこともたくさんあるし、これから楽しいこともいっぱい増やしていくから」
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