32. 月の啼く聲

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 十馬と孔蔵が発つ前の晩のことだった。  宋十郎は、兄と連れだって宵の深渓を歩いていた。  村の人々が、行き過ぎる彼らにお辞儀や会釈を送る。それを返しながら、彼は兄と小道を歩いた。  少し歩こうと声を掛けたのは彼である。  何を話すわけでもなく、まだ稲のない田や芽吹く前の畑、その間に転々としている民家などを眺めながら、彼らは歩いた。  彼は十馬に、旅の間も深渓を憶えていてほしかった。それだから、旅立つ兄に故郷を見せようと思ったのかもしれない。  ふと、宋十郎は沈黙を破った。 「旅に出られたら、次はいつ、戻られますか」  十馬が彼を振り返った。考えるように天を見上げ、また彼の顔へ目を戻す。 「どうだろう、よくわからないよ。旅先での都合もあるかもしれないし。でも、冬に寒くなって困った時は、深渓に帰ってくるかも」  そう言った兄が微笑んだ。その控えめな笑顔を、宋十郎は見つめた。 「季節に従って空を渡る鳥も、翌年に同じ巣へ還るといいます。どうか行き先が見つかっていたとしても、時折深渓を訪ねてください」  頷いた兄が、目を細めて笑う。  その向こうで、藍色に染まりつつある空に、薄く白い月が映えていた。  彼は、兄と月を眺めながら訊ねた。 「兄上――月は、どのように鳴くのですか」  すると、十馬は黒い瞳を瞬きさせ、振り返って月を仰いだ。  兄の顔が、彼から背けられ、そしてまた彼の方を向く。  十馬は可笑しそうに笑った。 「月は、鳴かないよ。宋は時々、面白いこと言うね」  そして兄は、変わらぬ足取りで歩き始めた。  宋十郎が呆気に取られたのは、一瞬のことだった。  軽やかに、十馬は進んでゆく。  その後ろ姿が、空を見上げながら喋った。 「ねえ宋、これは夢だから、きっとずっとは続かないだろうけど、いつかこんな穏やかな日が、ずっと続くような世の中になったらいいのにね。誰も殺し合わずに、妬み合わず憎み合わずに、許すことで幸せになれる、そんな人間と、そんな世界になったらいいのにね。  でも世の中は複雑だし、人間は簡単に痛みを忘れられないし、そんな世界が来るのはずっと先だろうから、おれは起きている間、できるだけ何かを愛して生きたいよ。いつ終わるかもわからないしその間にまた辛い思いをするかもしれないけど、今のおれが終わって眠る時まで、生き続けるよ。  宋はその間、宋の好きなものを守ってね。お前がお前でいてくれることがおれには嬉しいし、お前の勇気が、おれや、他の人の勇気にもなると思うから」 <終>
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