(4-1) 幽霊の正体

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(4-1) 幽霊の正体

 八月十九日  昨日の夕立による水分補給で生気を取り戻した圭太だったが、水だけでは空腹は満たされるはずもない。かえって胃腸が動き出したために、より一層の空腹感と絶望感が圭太の身心を支配した。  日陰の貯水タンクの下は直射日光は避けられるが、日本海側独特のフェーン現象による不快な熱風が身体に纏わりつくようにして吹いてくる。昨日のような驟雨がくれば涼しくなるのだが、屋上からは大雨を産出する入道雲の存在は見当たらなかった。  夜になっても、湯気がたっているかのような湿気の多い温風が身体に吹きつけてくる。屋上のコンクリート床の上に寝そべる方が涼しさを感じるだろうと考えた圭太は、貯水タンクの下から這い出た。  夜空を仰ぎ見ると、初めて屋上に来た時に見えた三日月の姿は欠けて無くなっていたが、天の川がはっきりと目視できるほどに新月の闇夜には、宝石箱が引っ繰り返されたがごとく散りばめられた星屑が皓々と煌めいている。  仕事で忙しい日々を送っていた時、視線の先にあるのは、会議の参加者の顔か、パソコンと時計がほとんどだった。仕事を終えた後も、会食する人の顔と店内の様子しか見ていなかった。  夜の燭光といえば、銀座か赤坂あたりの店の看板を視認していたくらいで、星の流麗さに気づく心の余裕などなかった。 (上を向いて生きなきゃな)  圭太の心奥に、「生」への執着が生まれた。  と同時に、ビルの階段を上がってくる足音が聞こえてきた。  警官か警備員だろうか。屋上に不審者がいることに気づいた誰かが通報してくれたのかもしれない。 (助かる!)  屋上に来る前に訪れた神社の神様のおかげかもしれない。神頼みなんか存在しないと吐きつけるように神様に悪態をついたことを、圭太は心の中で詫びた。  足音は徐々に屋上へ近づいくる。圭太は、、エレベーター機械室の前で、鉄扉が開くのを待つことにした。  梯子を登ってくる音が聞こえる。複数名いるようだ。  ややあって、鉄扉がゆっくり開き始めると、扉と壁の隙間から顔だけ出した男が、左右を慎重に確かめるように屋上の様子を偵察した。そして足先をゆるりと突き出して、片足を屋上の床に着地させた。 「ユースケ、早く行け」  仲間の声が聞こえた。 「分かってるよ。ちょっと待て」  ユースケと呼ばれた男がスマホのライトを屋上に向けて照らしながら応えた。  会話の調子から、警官でも警備員でもないようだ。肝試しにきた若者なのかもしれない。いずれにしても、屋上から脱出できる千載一遇のチャンスがやっと訪れた。圭太は、事情を話すために、屋上に出てきたユースケに近づいていった。  すると、暗闇から突然現れた圭太に驚愕したのだろうか。ユースケは、息を吸い込むようにして声にならない戦慄の悲鳴を発した。 「どうした!?」  ユースケと同年代の男も屋上に出てきて、ユースケが指さす方――圭太へ視線を向けて、 「幽霊の正体は、貴様だったのか! メグちゃん、浮浪者が屋上に住み着いてたんだ。夜の呻き声はきっと、こいつのイビキだったんだよ」  と捲し立てた。 「なあーんだ。浮浪者だったんだ」  メグと呼ばれた女が鉄扉から顔を覗かせて、圭太を汚い物を見るように蔑視した。  ユースケは、急に居直って、 「まったく近所迷惑なヤツだぜ。おい、おまえ、ここは廃墟ビルだから勝手に棲み処にしていいかもしれないけど、イビキはやめろよな!」  と威迫してくる。 「正体が分かったから、もう帰ろう!」 「貴様は一生そこに住んでろ!」 「イビキやめてよね!」  彼らは、吐き捨てるように圭太へ罵声を浴びせながら、ビル内に引き返そうとして鉄扉を閉じ始めた。  彼らが言う事を圭太は理解できなかったが、今はそれは置いといて、鉄扉が閉じられてしまっては振り出しに戻ってしまう。  鉄扉が完全に閉まる前に、身体をビル内に滑り込まそうと、圭太が猛ダッシュしたその時、 「ケンカ売るのか、この野郎!」  と、ユースケが怒声を浴びせてきた。  誤解だ。ケンカを売るつもりなど微塵もない。むしろ屋上から脱出するチャンスを与えてくれたことに感謝したいくらいだ。しかし今は鉄扉が閉まるまでの寸刻を惜しんで突撃しなければならない。  圭太が閉まりかける鉄扉に手を伸ばすと、 「やるのか!?」  と、ユースケが再び鉄扉を開いて身を乗り出してくる。  圭太は、立ち止まって事情を話そうとしたその瞬間、スパークしたような発光が網膜にフラッシュした。視覚的ショックの寸刻後、骨髄に強烈な痛みが走る。  殴られて腰砕け状態になった圭太の身体は、屋上のコンクリート床に崩れ落ちてしまった。脳は客観的に己の事象を把握できているのに、身体は第三者の所有物がごとく自由には動かせすことができない。KOされたボクサーも同じような状態なのだろうか。  即効ストレートパンチを浴びたユースケは、既にビル内に消えていった。身動きできない圭太は、鉄扉がゆっくりと閉じていくのを傍観することしかできなかった。  無情に閉じる鉄扉の音が、命の終焉を告げるかのように、コンクリート床を伝わって鳴り響いた。冷たい金属音に反して、顔には生暖かい血が滴り落ちるのを知覚した。  圭太は、ゆっくりと目蓋を閉じながら、 (これで仕舞いか)  と絶念した。  すると、閉じゆく圭太の目蓋にシンクロするように、鉄扉がゆっくりと開き始めた。武器を持ってきた連中が、トドメを差しに来たのだろうか。  次の瞬間、閃光が圭太の網膜にフラッシュした。殴られた時は網膜に流れる血流が赤黒く光るフラッシュだったが、今回のそれは雷のような強い白色の光線だった。 (殺るなら殺れ!)  と思う一方で、やられっ放しで逝きたくないという野性的本能が湧いてくる。文字通り「死ぬ覚悟」で最後の一撃をくれてから息絶えようと心に決めた圭太は、俎上の魚のごとく、開き直って次の展開を座して待った。 (つづく)
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