(1-1) 新人女性記者

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(1-1) 新人女性記者

 八月十八日  全日新聞下越支局の新人記者・大和理紗は、怒声をあげる支局長・玉脇文雄が殴打する壁面をビクつきながら眺めていた。  支局員二人――玉脇支局長と理紗支局員だけが常駐する二十平米ほどの手狭で雑然とした事務所内に、小太りな玉脇の胴鳴りした甲高い声が響いている。 「ここに貼られた各地元紙のトップ記事は、『下越駅前郵便局廃止』だが、なんでうちだけは『素麺流し始まりました』なんだ?」  上司と部下という立場の差を笠に着て、玉脇は恫喝にも似た態度で理紗の書いた記事を責め立てながら、自社の新聞記事を拳で叩いた。 「全国紙さえ地方面のトップ扱いしているのに……。たしか、うちも全国紙だったはずだが、なぜ一行の記事にもしなかったのか、理由を述べよ!」  東京の国立大学を卒業後、半年の新人研修を経て、下越支局に着任した理紗は本社採用のエリート組だが、下越支局へ赴任してから十年も異動がない玉脇は、支局に着任した新人をいびり倒すことで、己の鬱憤の捌け口にしていた。  化粧っ気はないが、報道記者に似つかわしい清楚で怜悧な風貌の理紗に対して、草食動物を捕らえた肉食獣のような形相で、玉脇は容赦なく理紗を恫喝している。 「こういうのを『特ダネ』の反対で、『特オチ』って言うんだ。記者として一番恥ずべき行為だ。あーあ、出張なんか行って、おまえに地方面の記事構成を任せるんじゃなかった」  大袈裟に頭を掻きむしりながら罵倒を続ける玉脇を、理紗は不服そうな表情を浮かべて一瞥した。  梨紗の不満げな態度を見た玉脇は、足元にあったゴミ箱を蹴り上げて、 「ん? なんか言いたそうだな……なんだ? 言い訳したいのか? 言ってみろ、大和理紗記者」  と、理紗を侮蔑した口調で質した。 「そのネタは通信社から配信されたネタで、各紙が記事で報じているように、まだ検討段階です。検討ということは決定ではないので、うちは載せない……という判断をしました」  と、理紗は自らの見解を述べた。 「通信社がスクープしたということは、ほぼほぼ決定なんだよ。最終決定、つまりお偉いさんが最後の最後の判子押す直前だってこと。だから、検討という文言を使ったまでのことだ」  玉脇は鼻先で笑いながら、役所の慣習を説明した。  新人記者が修業期間として支局で研鑽を積む人事システムは理解できるが、取材の仕方や慣習などを碌に教えもしない上司の下では成長は見込めない。 (なんでこんな上司に当たってしまったのだろう)  と、理紗は不服に思った。 「ん? なんか文句あるのか? 記者というのは実践の中から学んで熟練していくものなんだ。地方における郵便局の役割り、ステータスをもっと勉強しておけ!」  身勝手で自己チュウな玉脇は、語気が強めながら、教育方針を述べた。  理紗は、納得はいかないが、 「はーい」  と、その場を取り繕うためだけの返答をした。  理紗の心奥を見通した玉脇は、舐めるように理紗の顔を見ながら、 「東京のいい大学出て、全国紙の新聞社に就職。最初の数年は本社で基礎研修を受けてからの、支局で下積み奉公。それからまた本社へ戻る……それがうちの記者のお決まり出世コースだが、『特オチ』は記者にとっては大きなマイナス査定だってこと、覚えておけ!」  と、叱咤した。  大嘆息とともに自席に腰を下ろしながら、玉脇は厭味を続けた。 「おまえはまだいい……失敗が許されるまだピヨピヨのヒヨコ記者だからな。だが、おまえの上司たる俺の査定落ちは決定的だ……ったく! これで俺の東京本社復帰が遠のいた。おまえの責任だぞ!」   「申し訳ありません」  理紗は、心にもない謝意を述べた。  理紗の発した言葉がこだまするかのように、遠雷が聞こえてくる。  雷鳴のタイミングで、音楽が転調するように、玉脇は急に猫撫で声になって、 「あ、そうそう、役所の記者クラブだけど、明日からうちが輪番の幹事だから、よろしくな、大和!」  と告げた。 「よろしくって、私は何をすればいいのでしょうか?」  理紗は、玉脇の業務指示が理解できなかった。 「明日、俺は警察OBとゴルフだから、朝六時に役所に直行してくれないかな?」 「え、私が、ですか?」 「私が? って、支局は俺とお前の二人。つまり、お前しかいないだろ? それと、先月の役所広報からの報道資料をまとめて、各社に配布しておいてな」 「いつまでにですか?」 「だから、明日の朝六時までに」 「今から準備しろってことですか?」 「すまん、言うの忘れてたんだ」  親と上司は選ぶことができない。この世に生を授けてくれた親には感謝の念が存在するが、毒親ならぬ毒上司に当たった時の憤懣やる方ない思いは、人生観までをも左右しかねない。  ひと昔前であれば、上司は、「俺の背中を見て仕事を覚えろ」と、徒弟制度のような仕事の教え方で良かったのだろうが、今はマニュアルとコンプライアンスに則って、効率良く仕事を承継すべき時代のはずである。  情報文化の最高峰となる新聞社であればこそ、最先端の業務遂行を率先して実行すべきと思うのだが、悪い意味で長い歴史を積み重ねてきた老舗新聞社は古風な慣習から脱却できないでいる。  情報を伝達するスピードは、新聞よりもネットニュースの方が早い。しかし情報の精度は新聞が勝っていると思うし、世論を動かすだけの論説をもって市井に情報を届けるのが新聞の使命であると考えて、理紗は新聞社への就職を志望した。  その大義も、玉脇の身勝手な振る舞いによって何度も挫けそうになる。玉脇の言うように、数年でここから異動するという通常の人事制度が発令されれば耐えることもできようが、三年以上も玉脇と上下関係で過ごすことは無理ゲーの領域だ。  牢名主。十年も異動しないままに下越支局に居続ける玉脇は、この支局を仕切る牢名主だ、と理紗は思い為した。  玉脇が全てを円滑に仕切っているのであれば、本社の優れた人事考課なのだろうが、牢名主と化してしまった玉脇をずっと支局長――もっとも二人だけの支局だが――に据えているのは、本社人事部の目が節穴なのか、あるいはこの支局は窓際人事なのではなかろうか、と理紗は穿った見方をするようになっていた。 (このまま私もずっと辺境の支局勤めなのだろうか)  理紗の人事考課は、上司である玉脇が本社へ報告していることを鑑みれば、玉脇がまともな報告をするとは思えなかった。  だからこそ、本社に自らの仕事ぶりを評価してもらうためには、特ダネが必要だと常日頃から思っている。特ダネは主観的な勘に頼るところが大きいが、特オチは客観的に事象を判断した結果からのミスによって生じる。  各社一斉に報じた駅前郵便局廃止の記事について、理紗は通信社からの一方通行なネタを疑いなく信じはしたものの、郵便局関係者の裏付けを取った後に、財政的背景や廃止されては困る市民の声をリサーチして、記事に起こすつもりだった。 (特オチを気にするあまり、信頼性のある確かな情報と今後の道標となる記事づくりを蔑ろにしてはいけない)  理紗は、新聞社の使命と自らの人事考課のために、玉脇を反面教師としながら自己研鑽していくことを心に決めながら、明日配布の記者クラブ用報道資料をまとめ始めた。  遠くで鳴っていた雷は、その音量を高めながら、市街地まで近づいてきているようだ。雨音も急に激しくなっていた。  ふと窓外を見やると、世界が一瞬白黒の世界になったかと思われるほどの閃光が走り、寸秒も隔てずに爆雷が投射されたような轟音が鳴り響く。  大粒の雨が事務所の窓を機銃掃射のように打ちつける音に呼応するように、消防車のサイレン音がリズミカルに近づいてくる。  窓際で外の様子を窺っている玉脇につられて、理紗も窓際にやってくると、複数の消防車が、けたたましいサイレン音とともに事務所前を通過していった。 「おい、何ボォーッと見てんだ? 火事か事故だろ? 今すぐ、現場へ飛べ!」  玉脇が語気を強めて言い放った。 「あ、はい!」  慌ててカメラやICレコーダーなどの取材道具一式の入った鞄を肩に掛けた理紗は、一目散にドアへ向かった。 「大和!」玉脇が理紗を呼び止める。 「はい」理紗が振り返る。 「他社と同じ記事をつくるなよ。特ダネじゃなくてもいい。自分で直接見たもの、直接聞いたもので独自ダネをつくれ!」 「はい!」 (つづく)
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