春を泳ぐヒカリたち

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春を泳ぐヒカリたち

             1  ――おかしな話なのだ。  ()()()()はいう。 「今日のぼくのジャケットはねぇ、フランス製で三百ユーロもしたものなんだ。ユーロってわかるかな? でもぼくはいまいちだと思うんだよね。ふふん。色がね、もう少し濃いブルーでもよかったのかなぁって、そうは思わない?」  花ノ井小学校、六年二組の教室。  ネクタイの周りには男女、五、六人の友達が集まって、みんな、羨望(せんぼう)と尊敬の眼差しで、ネクタイを見ている。みんなは、似合ってるわよ、かっこいい、これでも満足できないなんて信じられない、と賛称する。  また、ネクタイはこんなこともいう。 「きのうは百グラム三千円ほどのステーキを食べたんだけど、とてもおいしかったよ。マミィーの作る料理は素材自体の味を大切にしてるからね。風味が違うんだ」  ネクタイは自分のお母さんのことを、「マミィー」と呼んでいる。お父さんは「パピィー」。カタカナ英語ではなく、ちゃんとした英語で発音する。まるで自分が外国で育ったような口ぶりだ。  周りの友達は、この話にも大いに感心したようで、うらやましい、すごくおいしいのでしょうね、一度でいいから食べてみたい、等々しゃべっている。    ぼくは、冷ややかな目でそのグループを見る。  ぼくは、表にこそ出さないが、心の内ではネクタイをいやなやつだと思っている。  だって、いつも鼻をぷっくりふくらませて、今みたいに、今日着てきた服がいかに高価で貴重なものか、きのう食べたご飯がいかに僕らと違って高級なものか、自分がどんなにお金持ちで偉いかという話ばかりしている。  トンチンカンなことをいうんじゃない!  確かにネクタイの服は、上品でかっこいいし、食べ物だっておいしそうで、とてもうらやましい。  でもだからといって偉いってことはない、尊敬に値するっていう法はない。物やお金が人を偉くするなんて本当にばかげていると思う。  だってそれだったら、持っている物やお金の量とその人の偉さは比例してしまう。たとえニュートンが認めたって、ぼくはこんな方程式、断固認めない。  大事なのはいつだって気持ちとか心がけとかだと、ぼくは思う。  ネクタイというのは彼のあだ名である。  彼は月に二、三度、ネクタイをして登校するので、みんなこう呼ぶようになった。ネクタイをしてくるときは、大人みたくスラックスのズボンに、キッチリとしたジャケットをまとっている。こうした日は、学校の帰りに家族と街にいって買い物をしたり、外でご飯を食べるのだそうだ。  ネクタイというあだ名は、良い意味でも悪い意味でも、満場一致だと思う。というのは、普通にもしくは尊敬の意でネクタイという子の他に、『ネクタイ!』とわざと大仰に、嫌味っぽくいう子がいるからだ。  ただし、本人はそんなこと全く気にしていない。嫌味とわかっていても、堂々として全くひるまない。どんな意味でいわれようと、ネクタイと呼ばれることは、自分がみんなよりも大人であることの証であり、敬称である、だからそう呼ばれるのは至極(しごく)当然なのだ、というふうに。  本名は伊集院 大河(いじゅういん たいが)。  名前からして、いかにも偉そうだとぼくは思う。              2    ――ああ、でも、本当におかしな話しなのだ。  おかしなことの上に、またおかしなことがあるのだ。  ほくの大好きなべにちゃんは、こんなネクタイのことが好きなのだ・・・。 「伊集院くんてすてきよね。・・・なんというか大人っぽくて落ち着いていて、貫禄があるわ。そうしたものってやっぱり家柄や育ちの良さが大切なのかも」  大人っぽくて落ち着いていて、貫禄がある? 違うよ、あれはふてぶてしいっていうんだよ!  なんだいべにちゃん、家柄や育ちの良さ?それならクリーニング店を開いている、お父さんとお母さんから産まれたぼくは、生まれながらにして、すてきにはなれないっていうの!? ぼくんちに家柄なんて大そうなものはない。育ちも時折クリーニング店のカウンターに立つこと以外、普通の子の変わらないと思う。  べにちゃんは、いつもこんな風にぼくにネクタイのことを話す。憧れと羨望と尊敬の話し。  ぼくの耳は、千万本の矢をぶつけられたようにイタい。そのたび、心の中でべにちゃん反発するのだ。  ――べにちゃんのわからずや、おたんこなす! ネクタイなんてだめだめだよ! いいとこなんて本当はこれっぽっちもないのだから! 早く気づいて!  でもけして口には出さない。出せない。なぜならそんなことをいったら、べにちゃんは、きっとひどく悲しむと思うから。それにぼくを嫌いになるかもしれない、それだけは絶対の絶対にいやだ。 「うん、ネクタイは男から見たって、魅力的だよね。べにちゃん見る目あるね!」  僕の舌は、けして天国へは行けないだろう。うそ千万回の罪で、閻魔(えんま)さまに千万回、舌を抜かれるだろう。  でもいいんだ・・・。  こうしていれば、べにちゃんは五月の木漏れ日を浴びているみたいに、朗らかな笑顔を見せてくれるのだから。  これくらいの嘘は、なんでもないと思った。 「さっすが、たけちゃん!わかってるねー!!」  たけちゃんというのは、ぼくのことだ。  ところでぼくのべにちゃんは、ぼくんちの狩野(かりの)クリーニングの隣にある、小竹(こたけ)書店の一人娘である。  狩野 竹春(かりの たけはる)。  小竹 紅緒(こたけ べにお)。  ぼくらは幼なじみってわけさ。             3  ある春の日のことだ。  ぼくは、しくしく泣きながら目覚めた。  夜中だった。  穏やかな夜だ。とても静かで、どこかさみしい。  春がそこかしこにいるのが感じてとれた。ちょっと冷んやりする、ちょうどいい温度。春の始めの、夜の温度だ。  部屋の窓は真夜中の群青色に染まっている。外の木立が揺れているので、群青色は薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。カーテンは両端に結われている。  あれ?ぼく、泣いているの?  はじめはそう思ったのだ。そしてその理由がわかったとき、ぼくは唇をすぼめ眉を寄せ、もう一度小さく、えーんと泣いた。  べにちゃんの夢を見た。  べにちゃんが悲しみのどん底から、立ち直ったときのこと。  ぼくがべにちゃんを、いとおしくて、守ってあげたくて、特別な存在になったときのこと。  べにちゃんがネクタイのことを嬉しそうに話す日には、必ず決まってこの夢を見るのだ。  ――二年半ほど前の穏やかな秋の日、べにちゃんのお父さんが脳卒中で亡くなった。  そしておじさんが煙となって空へ昇っていった日から三十五日間、べにちゃんは夢遊病になった。三十五日間、べにちゃんは学校へいかなかった。  夜中にパジャマのまま玄関を開け、外に出かけていってしまうのだ。  はじめは近所の人たちが夢遊病だといい、次に病院にいくと医者の先生も夢遊病だといった。  でも本当は違うんだ、ぼくだけは知っている・・・。  なぜなら、ぼくもべにちゃんと一緒に真夜中に出かけていたからだ。 「夜、とてもさみしいの。お父さんのあたたかな声や大きな背中、穏やかに笑っている顔が、すぐそこにありそうで・・・。でもやっぱりないんだと気づくと、死んじゃたんだなと思うと、とてもたえられなくて・・・。それでここにきちゃうの・・・」  羽衣川(ころもがわ)のほとりに、天が原(あまがはら)セレモニーがある。火葬場。  辺りを田畑と、アシの大草原に囲まれた、おだやかな地。  小竹おじさんが、昇っていった地。  べにちゃんは夢遊病だと診断された後も、二階にある自分の部屋に黒色のスニーカーを用意して、雨どいを伝って地べたに下り、こっそり天が原セレモニーに通いをつづけた。スニーカーはべにちゃんから相談され、ぼくとべにちゃんとで買ったものだ。  夢遊病ではないけれど、あのときのべにちゃんは普通じゃなかった。  真上にあった月が、地平に沈むまで泣きつづけていたこと、「もう生きていたくない。」と、何度も口にしたこと、「帰れ、あんたなんか大嫌い。」といって、ぼくをぶったこともあった。  あの頃のべにちゃんは気持ちが壊れていたのだと思う。  ぼくは、べにちゃんを助けてあげたくって、冗談をいってみたり、映画に誘ってみたり、望遠鏡を探し出してきて星を見ようといってみたりとした。  ・・・でもなにをしても、べにちゃんを助けることはできなかった。  きっと、誰もそんなことできやしない、べにちゃん本人でさえ。  べにちゃんは、自分なりにお父さんの死をのり越こようと、お父さんのいない世界を受け入れようと、本当にもがいて、もがいて、もがきつづけていた。  誰にもどうにもできないことがあるんだって、ぼくは思い知らされた。ぼくにできることは、ただそばに居ることだけだった。  唯一、助けられるものがあるとすれば、それは時間だ。  三十五日目。  いつものように真夜中に家を出て、朝までここにいた。  ぼくはあの日の朝をけして忘れない。  東の空からばく大なヒカリがやってきた。空は高く青色を広げ、一帯のアシは風に吹かれて緑色の大海原となり、羽衣川の水色は止まることなく海を目ざしている。  そして夜は明け、べにちゃんの長い長い夜も、いつの間にか明けていた。  いつの間にかって、とても大事なことだ。  大いなる、やさしい、時の流れだ。  べにちゃんはゆっくりと立ち上がった。ヒカリというヒカリを一身に集めていた。朝という朝を身体いっぱいに受け取めていた。  べにちゃんは世界を眺め、世界にまみれ、世界と楽しげなことでも話しているように見えた。だってべにちゃんは、微笑んでいたから。  ひと月ぶりの笑顔だ。  こんな小さな身体でべにちゃんは、目の前の世界を受け入れていた。小竹おじさん、べにちゃんのお父さんのいない世界を。  そしていったんだ。 「・・・世界ってすてきね。お父さんはこの世界にいないけれど、わたし、生きていけるんだ。たけちゃん、わたし達、この世界をあますことなく、生きていけるんだね。」  ぼく思わず、泣いてしまった。べにちゃんに感動した。  べにちゃんを守ってあげたいと思った。  べにちゃんを愛おしいと思った。  べにちゃんとずっと一緒にいたいと思った。  こうしてぼくは、べにちゃんに初恋をした。  この日以来、天が原通いはなくなった。  ーーふたたび群青色の窓を見た。変わらず、群青色は薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。  眠りながら泣いたのはあのときのべにちゃんを思い出したからだけど、次に泣いたのは自分のため、片恋のせい。  ぼくはこんなにもべにちゃんが好きなのに、べにちゃんの好きな人は、ぼくではない。  べにちゃんは、ネクタイのことが好きなのだ。              4  春はときおり、日中にしか顔を見せないことがある。  朝晩はまだ寒い日があり、暖房が必要なときもあった。  今朝がそれで部屋の中でも、息がほぅっと白くはき出されて、空中で霧散(むさん)している。  ぼくは学校にいく準備を始めていた。  準備を始めるとすぐにべにちゃんが、迎えにきた。いつもより十五分も早い。 「たけちゃん!迎えにきたよー!」  ぼくらは幼稚園の頃から、毎日一緒に通園・通学している。  べにちゃんの声は、いつもより大きくはずんでいる。上機嫌のときの声だ。 「はーい!今行くねー!」  窓から顔を出してべにちゃんにいう。  急いで教科書や筆箱を鞄に入れ、階段を下りる。 「今日は早いんだねー。」  玄関で靴を履きながらいいドアを開けると、べにちゃんが、いつも通りに笑って立っている()()だった。  あれ?  ひと目見た瞬間にそう感じた。  今日のべにちゃんはいつもと違う。  答えはすぐにわかった。  笑顔。  いつもの笑顔とずいぶん違う。  朝のヒカリに負けないくらいの、新鮮でまばゆい笑顔。瞳の奥深くに、はっきりとした輝きを宿し、口元はかすかに笑って、見るもの全てをとりこにしてしまいそうな笑顔。  その通り、ぼくは、見とれてしまった。  そして、べにちゃんはこういい放った。 「たけちゃん、わたし、きのうの夜、決心したの・・・。わたし今日、伊集院くんに告白するわ!いつまでこうして遠くから眺めていたって、なんにも変わらないもの。早くたけちゃんに話したくてこんな時間にきちゃった!」  べにちゃんは左の胸を両手でおさえていた。きっと、トクン、トクンと心臓が激しく脈打つのが苦しいからだ。 「・・・・・・」  ぼくはこんなべにちゃんを、素直にきれいだと思った。こんなきれいな表情を浮かべられるのは、べにちゃん以外にないと思った。  ・・・でも、きれいだと思う分だけ、ぼくの胸はぺったんこにしぼみ、キューと悲鳴をあげる。  べにちゃんは、ぼくの気も知らず、次々と話しつづける。・・・ぼくの気も知らず。でもそれは自分勝手だ。そうさせているのは、ぼく自身の嘘に始まりがあるのだから。  きのうの夜に、告白を決心するまでの経緯。ラブレターを書くのに十二時間もかかったこと。内容はいくらたけちゃんでもすぐには教えられない、恥ずかしいから。いつか必ず話すから、それまで待っていてほしい、等々いつまでも話しつづけた。  耳に千万本の矢が、次々に突き刺さる。ひっきりなしだ。千万本かける千万だ。ぼくは、たまらなく苦しい。涙が出そうなのを必死でこらえた。 「それで、たけちゃんにお願いがあるの。」  ・・・いやな予感がする。 「・・・え?うん。なあに?・・・なんでもいってよ。ぼくできることならなんだってするからさ。」  ぼくは一生懸命に()()()()()。 「わたし、伊集院くんに、手紙を書いたの。・・・わたしの初めてのラブレターよ。それで、この手紙をたけちゃんから伊集院くんに渡してもらいたいの。わたし、とてもじゃないけど、自分で渡すなんてできそうにないから。ほかの人に知られるのもいや。でもたけちゃんにだったら頼めると思って。だめ?」  ぼくは、まかせて、と短く返事をした。声が少し震えていたと思う。  ぼくはたくさんの嘘をついてしまっている。ぼくがべにちゃんに嘘をつくときは、決まってぼくの胸がぺしゃんこになるときだ。  べにちゃんは、鞄の中からうす桃色の封筒を取り出して、ぼくに差し出す。  ぼくは受け取るよりほかない。  今まで、べにちゃんの恋を応援するようなことばかりいっていたのだから。  受け取ると、うす桃色の手紙はブラックホールのように重たく感じた。                5    学校。いつもより十五分前にぼくは教室につく。べにちゃんとはクラスが違うので、ぼくは朝から、大いに悩むことができた。  授業なんてそっちけ、給食に出た大好きなミートボールも残し、みんなから「調子が悪いの?」「早退する?」という言葉に、「ううん」とか「大丈夫だから」としかいえなかった。  ぼくはずっと鬱々(うつうつ)としていた。顔面蒼白(がんめんそうはく)とは今のぼくの表情のことをいうのだろう。  べにちゃんから渡されたうす桃色の手紙。これをネクタイに渡したら、ぼくとべにちゃんは、どうなってしまうのだろう。  どうしたって、よくなるということはないと思った。    ーー放課後。  とにかくぼくは、ネクタイを屋上へ呼び出した。 「ふふん、なんだい?竹春が僕に用だなんて、なにごとだろうね?」 「・・・・・・」 「うん?なんなんだい竹春、変な顔して?ぼくはキミらと違っていそがしーんだから、早くしてくれないかなぁ、ふふん」  ぼくはべにちゃんのうす桃色の手紙を持った右手を、ゆっくり持ち上げる。  うす桃色の手紙は、やはりブラックホールのように重たくて、ぼくは本当に一生懸命持ち上げた。 「なんだい、これ?くれるのかい?」  ぼくは黙って顔を上げる。  ネクタイはひょいと手紙をひったくるようにして受け取ると、表を見、そして裏を見た。  ネクタイのまゆ根がより、ゆるんだ顔で、口元を持ち上げる。うすら笑い。  そして、ポイッと手紙を放りなげた。  うす桃色の手紙は、コツンとぼくの胸にあたって、音もなく屋上の地べたに落っこちる。べにちゃんの想いが地べたに捨てられる。 「困るなぁこういうのキリがなくて、竹春、てきとうに断っておいてくれる。小竹さんだなんて、ぼくちっとも興味がないらさぁ。」  ネクタイの言葉がやけに遠くできこえた。  神経が逆立ち、気づいた時には、ぼくは手を出してしまっていた。 「コノヤロー!読みもしないで、ふざけるな!!」  両手で思い切り、ネクタイを突き飛ばした。  ネクタイはしりもちをついて、始めはびっくりしたようにぼくのことを見ていた。  ネクタイは、ずるがしこい。ずるがしこいというのも、かしこさのうちのひとつに違いなく、つまりネクタイはこの一瞬に、ぼくの気持ちを理解したのだった。  ネクタイは尻もちをついたことを恥じるように、ズボンをはたきながら立ち上がる。そしてぼくを鋭くにらみ返した。 「ぼくが小竹さんをどう思おうと、ぼくの勝手さ。きみのそれはただのジェラシーさ。ふふん、みっともない!」  ネクタイは軟弱ではない。  伊集院家の男子たるもの云々で、小さな頃から色々な武道に通じている。  ネクタイの右手がふっと見えなくなったと思った瞬間、左頬に強烈な痛みを感じた。  空手の正拳突きだ。そして、いち!に!と中段づきが、ぼくのみぞおちをきれいにとらえた。ぼくはぐっと痛みをこらえる。 「・・・うぅ、ちくしょう、みっともなくったってしょうがないじゃないか!!ちくしょう!!」  ・・・この取っ組み合い、ぼくが悪いっていうことはわかっているんだ。  でも、どうしようもなかった。  ぼくはネクタイのげんこつをよけもせず、いいようにもらいながら、ネクタイに自分のげんこつをぶつけ続けた。  さわぎを聞きつけた生徒が輪を作り、やがて先生が止めに入った。 「なにをやっている!離れろ、離れなさい!いい加減にやめないか!」  先生が、ぼくらの間に割って入った。  ぼくの顔はあざや鼻血で、ひどいことになっていた。  ネクタイも左目のまわりに紫色の丸を作り、口元を少し切って血を流していた。  ネクタイは、肩でゼイゼイと息をしながら、ぼくを睨みつづけている。  ・・・ぼくはネクタイを見ることができず、げんこつを硬く握ってうつむいているしかなかった。 「おまえら!いったいなんだって、こんなになるまでけんかしたんだ!?」  ネクタイは口元を持ち上げ、首を軽くふって見せる。憎らしいほど、余裕の仕草。 「なんでもないですよ、ちょっとした意見の相違ですから。もう決着はつきました。ねぇ竹春?ふふん、それじゃあぼくはかかりつけの病院にいかないと。じゃあね、みなさん。」  それだけいうとネクタイは、さらりと去っていった。  去りぎわ、鞄を拾うとき、ネクタイは床に落ちていた、うす桃色の手紙を拾っていった。  このときのぼくは、そのことに気づけなかった。  怒りが先に立ってどうしようもないありさまだったのだ。  ・・・ちきしょー!! ちきしょー!! ちきしょー!!  ぼくは胸の内で、大声を張り上げた。ぶつけようのない怒り。だって自分で自分はなぐれないから。  ネクタイのいったことは正しい。  ぼくはネクタイに嫉妬(しっと)しているのだ。  先生がけんかの理由を聞いているときに、ぼくは少し冷静になれた。するとすぐにうす桃色の手紙に思い当たった。  あの手紙はどうしたろうか?まだ落ちている?誰かが拾ってしまった?  なんにしても、べにちゃんからの預かりものだ、しかもとてつもなく重要な。無くしたではすまされない。  先生のことを気にしている余裕がなくなり、ぼくは這いつく張るように、みんなの足元をかき分け、手紙を探した。そしてすぐに思い当たる。思い出した。  ネクタイだ。ネクタイが去り際に、確かに鞄と一緒に手にしたものがある。あれは確かにうす桃色の手紙だった。  べにちゃんが初めて書いたラブレター。  なんでネクタイが?一度は放り投げたくせに・・・。  べにちゃんの笑顔が思い出される。  ぽくは、もうたまらず泣き出してしまった。              6  あのあとは先生に、家に帰ってからはお父さんとお母さんに、こっぴどく叱られた。  でも、そんなのなんでもなかった。  先生にもお父さんにもお母さんにも、 「こめんなさい、ぼくが悪い。もう二度としません。」  これだけを繰り返しいい、あとは黙っていた。  ぼくが最も気にしているのは、べにちゃんだ。  べにちゃんになんて話そう。べにちゃんは、ぼくのことひどく怒ると思う。・・・それだけならまだいい、このことを知ったら、べにちゃんは、ぼくのことを嫌いになるかもしれない。  そう思うと、とたんに顔が真っ青になる。  手紙を渡してくれと頼まれたのに、取っ組み合いをしてきてしまったのだ。  そしてべにちゃんはふられてしまった・・・。ネクタイははっきりと、べにちゃんには興味がないといったのだから。  色々考えて、考えれば考えられるほど、ぼくはべにちゃんに嫌われるに違いないと思った。  夜、ぼくは枕に顔をうずめて、えんえん泣いた。  顔中、絆創膏だらけ、まくらにうずめると痛かったが、そんなの気にはならなかった。悲しみと後悔の方がよっぽど痛く胸をえぐった。  えんえん、えんえん、止めどもなく泣いた。  うずめた枕の向こうに真っ暗闇が見え、ぼくはその底、さらに深い闇を目指して沈みつづけた。  真っ暗闇のなかで、ぼくは嫌な気持ちに襲われた。  ーーみんな全部、なくなってしまえばいいと思った。べにちゃんの恋心もぼくの片恋も、なにもかも、なくなってしまえばいいと思った。              7  石が崩れる音がしたように思えた。  ぼくはうつ伏せになっていて、ゆっくりと目を開けた。すると目の前に、確かに石が崩れている。  もう少し顔を起こして見ると、そこには子ども達と鬼がいた。  川辺である。  子ども達は川から石を持ってきて積み上げる。そして子どもが、これでできたという顔をすると、鬼がやってきて、せっかく積んだ石ころを蹴飛ばしてしまう。  そのたび子どもは泣いたが、やがて泣き止むと、また川にいき、石ころを探しにゆく。  どうやはここは、賽の河原(さいのかわら)であるようだ。だとすれば川は、三途の川ということになる。  立ち上がって周りを見るとぼくはギョとせずにはいられなかった。  お釈迦さまとイエスキリストさまと閻魔さまが、ぼくを取り囲んでいた。三者は、ぼくを中心とした正三角形の各頂点に立っていて、どうあってもぼくを逃がさない、という強い意志が感じられた。  さらにその周りには、鬼や妖精や人間が群集となって取り囲み、ワーワー、ギャーギャーと、ぼくになんだかわからないーーしかし非難だとははっきりわかるーーうめき声を上げていた。  遠くに針の山がそびえ、空は赤黒く広がっていて、どれもぼくを見下ろし、睨んでいた。  お釈迦さまがぼくの頬をひっぱたく。  イエスキリストさまがぼくのお尻を蹴っとばす。  閻魔さまがぼくの舌をひっこ抜く。  そして、三者は声をそろえて、ドスン!といい放った。その声たるや、隣に雷でも落ちたみたいな大きさだ。 『お前が小竹紅緒と、相思相愛になることは決してない。お前のひとりぼっちは永遠だ。おまえは小竹紅緒に嫌われたのだ。心あたりがあるだろう。小竹紅緒は下らない伊集院大河が大好きだ。伊集院大河には、小竹紅緒の良さがこれっぽちもわからない。お前らの恋はなんにもならない、傷ついて終わりになるだけだ。なんにしてもおまえの恋が一番みっともない。どこへのいき場もない、どうしたって小竹紅緒にぺちゃんこに潰されておしまいだ。ぶざまぶざま!ワッハッハッハ、ワッハッハッハ、ワッハッハッハ!』  ぼくは何度も何度も、頭をひっぱたかれ、お尻をけっとばされ、舌を抜かれた。  わーっ!  声を出してぼくは起き上がった。  汗をびっちりかいていた。  ガラス窓を見て、確かめる。揺れる群青色色。  ここはぼくの部屋だ。  ぼくは夢を見ていたのだ。  頭とお尻と舌が痛いような気がした。もちろん何事もないが、どうしたって、()()が残っている。  夢の中のことを思い出すと、ぼくはまた泣いた。今日、三度目の涙。 『おまえは小竹紅緒に嫌われたのだ。』  その通りだと思ったから。                8  よく朝ぼくは、べにちゃんが迎えに来る前に、家を出ていった。  こんなこと、ぼくとべにちゃんとの通園・通学人生、始まって以来のことである。  学校へはいかなかった。  学校へいけば、べにちゃんと会わなければならない。  ぼくは、ぼんやりしてあてなく朝の町中をうろうろとさまよった。  誰も通らないような横っちょに入り、取り壊しが終わって誰もいないビルディングの敷地を横断し、誰も入らない湿った林を通り抜けた。終始うつむき、ただただ歩いた。  まるで夢遊病だ。  べにちゃんがいないところだったら、どこでもいい・・・、この世界にはべにちゃんがいる、だからぼくは、この世界の外にいくしかないのだ。  何も考えてなかったのに、気がつくとそこへたどり着いていた。世界の外というわけではなかったが、ここは生きている者と亡くなった者との中間点といえる。  羽衣川のほとりにある、天が原セレモニー。  小竹おじさんが昇っていった、おだやかな地。  ここはとても落ち着く。  水田と畑、あしの大草原、羽衣川を見渡して、ぼくは草の上へ座り込んだ。  あのときのべにちゃんは、こんな気持ちでいたのだろうか?ぼくは二年半前のべにちゃんを思った。  いや、違う。べにちゃんはあのとき戦っていた。ぼくは逃げてきたのだもの・・・。  春が、いごごち良さげに、居すわっているのが見てとれた。あの田の上にも、あのアシの上にも、あの雲にも、天が原セレモニーの建物にも。春色のやさしい日光で包み込んでいる。  でも春は、けしてぼくのところへはやってこなかった。ぼくの方でも、春になんの興味も覚えなかった。  それから太陽が、東から西へ、大きな弧をスローモーションで描きながら進んでゆく。  そしてろうそくの火が消えるように、辺りはふっと暗くなり、気づいたときには、まん丸の月が東の夜空に浮かんでいた。  いく千の風が、ひっききりなしに渡っていて、アシの大草原は、愉快気に銀色の波をつくっている。  風はぼくのところへもやってきたが、髪をゆらすだけで、やっぱりぼくは、ちっとも愉快にはなれない。  世界は、ぼくをすっかり見捨てて、進んでいるようだった。              9  ・・・ウォー、タ・・・。  遠くで何かきこえた気がした。きこえるかきこえないかの、すれすれでそれは耳に入る。  本当にかすかに。空耳だろうか?  しばらくするとまたきこえる。  ・・・おおー、・・・い・・・お。  少しずつ大きくなっていて、ぼくは耳をかたむける。  なぜだかその音は、とてもなつかしい感じがする。忘れてはいけなかったもののように思う。  それが、人の声らしいとわかった瞬間、はっきりとこんな声がきこえた。 「おーい、たけちゃん!やっぱりここだと思ったわ!」  視線を動かすと、黒いスニーカーが見えた。  見上げると、目の前にべにちゃんが立っている。  とてもびっくりした。すごく驚いた。  ぼくは思わず、ピョコンとバッタが飛び跳ねるように立ち上がっていた。 「ど、どうしたの、べにちゃん!」 「どうしたじゃない!それはこっちのセリフよ!みんな大騒ぎしているわよ、いったい今までなにをしていたの!?」 「今まで・・・、あ、あれ、もう夜なの?なんで、、」   ゴチン!!  べにちゃんのぐーの手が、ぼくのアタマに落っこちた。その一撃は朝から夢遊病に取り憑かれ、向こう側にいたぼくを、いっぺんにこちら側へ引き戻した。いとも簡単に。 「とにかく早く帰るわよ、おばさん、泣きながら警察に連絡する、警察に連絡するって、すごく心配してるんだから!ほら、早くしないと本当に警察がきて怒られちゃうわよ。」 「・・・うん。」  ぼくは、恐る恐るゆっくりと、べにちゃんの顔を見た。  べにちゃんは怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えなかった。・・・少しだけ安心した。  ただ、ぼくはべにちゃんの顔を見るのが、すごく久しぶりな気がした。年という単位。一年とか三年ぶりにべにちゃんと再会したように思われた。  ぼくはうれしくなった。だって、何年かぶりに会えたのだもの、嬉しくないはずはないのだ。 「・・・ありがとう、べにちゃん、ぼくを見つけてくれて。」  べにちゃんでなければならなかった。べにちゃん以外の人だったら、ぼくは朝からつづいた夢遊病から覚めることは、なかっただろう。  そしてわかった。  ああ、やっぱりこっちだ。片恋でも、たとえ嫌われたとしても、べにちゃんのいるこの世界の方が、断然いい。  帰り道。  ぼくは、べにちゃんに、どうしても話さなければいけないことがあることに気がづいた。それは今でも話したくないけど、べにちゃんに嘘をつくことはできない。  どうやって話すべきか考え、三百秒ほどたったあと、意を決して話し出す。 「べ、べにちゃん、・・・ネクタイは、あの、その、手紙を・・・」  ネクタイがべにちゃんをどう思っているか、話そうとした。  するとべにちゃんは、一度立ち止まった。  そしてこっちを見ずにいった。 「・・・うん。わたしふられちゃったね。伊集院くんから、気持ちは嬉しいけど今は受けられないって、丁寧な手紙をもらったわ。・・・でも、わたし、あきらめない。中学だって同じだもの、いつか、振り向いてくれるかもしれないじゃない・・・。」  それからべにちゃんは五歩進み、今度はしっかり振り向いていった。  「それよりたけちゃん、伊集院くんと取っ組み合いのけんかをしたでしょう?伊集院くんにきいても、わたしには関係ない男と男のけんかをしただけだって、ちっとも取り合ってくれないのよ。」  ん? 「・・・ネクタイのやつ、ぼくの悪口、なにもいわなかったの?」 「うん、ちっとも。それどころか感心してた感じよ。あいつは偉い、あいつは偉い、ぼくは大事なことを教えてもらったんだ、って。・・・でもそれならなんでけんかするのかなぁ?わたしにはちっともわかんない。」  ・・・意外だ。 「ネクタイがいったことはそれだけ?」 「あと、かわいそうだって。でも、なにが偉くてなにがかわいそうなのか、これもまったく話てくれないのよ。本当はね、たけちゃんにもきいちゃいけないっていわれたの。でもわたしとたけちゃんの間に隠し事なんて、やっぱりできないもの・・・」  心の底から驚いた。あのネクタイが、そんなこというはずはないのだ。  ぼくは、なにもいえなかった。 「今日のこともそれと関係があるんでしょう?学校さぼってあそこにいるだなんて、ただ事じゃないわ・・・。いいたくないのならしかたがないけど。わたし達の間に隠しごとがあるなんて、なんかやな感じー。わたし、隠し事ってきらいよ。」  べにちゃんはぼくの顔を見る。眉根を寄せて、唇をとがらせ、いかにも不服だという顔。正直に話せと問い詰めている表情。  でもやはりそのときは、なにも答えることが出来なかった。いろいろなことがいっぺんにありすぎて。 「ごめん、べにちゃん。いつか必ず話すから。その、今は、どう話していいかわからないんだ。」 「んー、・・・まあいいわ。必ずよ、必ずいつか話してね、私たちに隠しごとなんて、一切認めないんだから。」  念を押すように、じっとぼくを見つめるべにちゃん。  頭を縦にふったが、ぼくは別のことを考えていた。    ネクタイのことを考えていた。  伊集院 大河。いじゅういん たいが。  ネクタイって・・・。             10    帰ってからぼくは、きのう以上にてひどく叱られた。  でも、ぼくはきのうよりもさらにお説教に耳を傾けることができなかった。  叱られながら、どうしてもぼくは、ネクタイのことを考えずにはいられなかったから。  翌日、学校にいき、イスに座ろうとしたときだった。  ネクタイがぼくのところへやってきた。まだ手に鞄をもったまま。ネクタイは教室に入るなり、自分の席にはいかず、直接、僕のとこにきたようだ。  なにごとかと警戒するぼくに、ネクタイはいった。 「ちょっといいかな、竹春。ふふん。」  ネクタイと屋上にいく。これで二度目だ。朝日がまばゆく、屋上の地面に、フェンスの影が、面白いカタチとなって落ちている。春のわた雲が青空のなかを流れていた。 「・・・そのぅ、なんだい、竹春、ふふん。・・・いや、一昨日はどうも悪かったねぇ。ついカッとしちゃって。ぼくが悪かったよ。手紙はしっかり読んで、小竹さんにはちゃんと返事をしたよ。ふふん、これでいいかな?ぼくを許してくれるかい?」 「・・・・・・」  ああ、なんていうことだ。 「ふふん、きみになぐられて、わかったんだよ。・・・その、えーと、小竹さんがどんなに真剣に、ぼくに好意を寄せてくれているっていうことが。ふんふん・・・、それときみの気持ちも。だからちゃんとしなくちゃいけないと思ったんだ。」  まったく、なんてことだろう。  ぼくはぼくのの過ちがはっきりとわかった。  カミナリにでも打たれたように、ネクタイの一語一句がぼくの全身を貫抜いた。 「・・・許すもなにも、ぼくも悪い。・・・ううん、本当はみんなぼくが悪かったんだ。ごめん・・・。」  ぼくはネクタイに頭を下げた。 「あ、そう?ふふふん、ほんとぅ?ほぅ、それは良かった、ふんふん。」  ネクタイの顔には、ぼくが初めて見る表情が浮かんでいた。ほっとしたような、やわらかな笑顔。嬉し気な笑顔。 「・・・ふふふん、ぼくも謝らなくてはいけないね。それだけのことを竹春にも、小竹さんにもしてしまった。」  そして紳士然とした風貌で、右手を胸におき、深くこうべを垂れた。その仕草が、いかにもネクタイぽくってぼくは笑ってしまった。  そして思った。  こいつなんていいやつだろう!  ネクタイの上辺しか見てなかったのは、べにちゃんじゃない、ぼくのほうだったのだ。  べにちゃんは、ネクタイのいいところが、ちゃんとわかっていたんだ。ちゃんとネクタイを見て、好きになったのだ。             11  この日の学校からの帰り道、ぼくは、べにちゃんにネクタイとのけんかのいきさつを話した。また、今までの嘘をすべて話した。  本当は今日までは、ネクタイを、いやなやつだと思っていたこと、手紙を渡すのが怖く、気持ちがたかぶって取っ組み合いになってしまったこと。  そして、べにちゃんが大好きだということを。  べにちゃんは話せば話ほど、目をまん丸にして驚いていた。  べにちゃんにずっと嘘をつきつづけるなんて、できやしない。そんなのは、ぼくとべにちゃんなんかじゃない!  今のぼくの気持ちのなんと澄んだことか!ぼくに嘘はない、これだけでぼくの気持ちのなんと誇らしいことか!  その夜、ほくは群青色の窓を開けて眠った。  すっきりとした、春の夜気を感じたかった。  部屋を春でいっぱいにしたかった。  澄みわたる青空のもと一帯に群衆を集め、ぼくは目の前に並んでいる、お釈迦さまとイエスキリストさまと閻魔さまに、べにちゃんがいかにステキか、ネクタイのやつが鼻につくところもあるけれど、どんなにいいやつかということを、得意げに説教している光景だった。  目覚めてそれが夢だとわかると、ぼくは自分の横柄(おうへい)な態度に、笑ってしまった。  窓を開けて外を眺めると、春がいよいよ本格的に居座っていた。  やさしいヒカリが、なにもかもをいっぱいに包みこんでいた。あの電柱も、さえずる小鳥たちも、あの家も、あの空も、そしてぼくのことも。  いつかいったべにちゃんの言葉がきこえる。  ーー世界ってすてきね。わたし達この世界をあますことなく、生きていけるんだね。                    おわり                
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