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獣は神に祈らない(FANBOX用短編)
汗の雫が頬を伝い、シーツへと落ちた。
首輪をつけた「ペット」は、隣でくたびれて眠っている。
私が頭を撫でると、安心したように微笑んだ。
ああ、すっかり懐いてしまった。
これでは、また代わりを探さなければならない。
彼は家出少年だと聞く。家庭の話は話半分に聞いていたけれど、まあ、少なくとも探すような両親じゃない。
それなりに可愛い子だし、「需要」ならいくらでもあるだろう。適当な相手に電話で話を通しておくか。
「まだ、そんなことをしているのか。……ロン」
背後で、憎たらしい「奴」の声が聞こえる。
この私に改心を迫る、愚かな声だ。
「君に、理解できないはずがないんだけれどね」
眠る少年の首に手をかける。私の一存であっさりと命を手折られるくせをして、私なしでは生きられない。哀れで、愛らしい存在。
けれど、そこにあるのは嫌悪と恐怖でなくてはならない。……支配に屈し、従順に成り下がった犬に用はない。
「私が、どんな人間なのか。とうに見抜いているはずだよ」
細い首筋に力を込めれば、手首に骨の指が絡みついた。
「やめろ! これ以上罪を重ねるな!」
「……そんな姿で私に触れないでくれないか」
私が睨みつけると、彼はぐっと喉を詰まらせ、あっさりと引き下がる。
そこで引き下がるのか。この少年を救うため、私を殺してでも止めようとはしない、と。
ああ、残念だ。本当に、君には何度失望させられたことだろう。
「……本当に殺しはしないだろうな」
「まあ……『死体』にしてしまうと後々面倒だからね」
「そうか……」
何を安堵しているんだ。君は、いつまで私に甘ったれた幻想を見ているつもりなんだ。
「分かっているとも。お前は、そこまで非道な人間ではない」
何を、生温いことを。
「……ハリスさん?」
少年の目が開く。
一瞬、私のことを呼ばれているのだと気付かなかった。
私としたことが、失念していた。ロジャーの名を貶めるために、私を裏切り落胆させ続けるロジャーを苦しめるために、……私は普段、自らを「ハリス」と名乗っている。
「どうしたんですか? オレ……何か、悪いことしちゃいましたか……?」
ご機嫌をとるような、不安そうな表情で少年は私を見上げる。
彼も以前は酷く抵抗し、泣き叫びながら私を罵ったというのに……ずいぶんと大人しくなってしまったものだ。つまらない。
「怒ってるんですか? ……それなら、謝ります」
……ああ、不愉快だ。そんな目で見ないでくれ。
「ロン、もうやめるんだ。それ以上道を踏み外すな」
そう思うなら、裁いてくれないか。
君がいつまで経っても私を断罪しないから、いつまでも私は堕落したままなんだ。
「彼のことは気にしなくていい」
「……? 何言ってるんですか? ハリスさん」
なんだ。この反応は。
ロジャーが近くにいるのに、なぜこの子は何も言わないんだ?
「ロン。その子に私の姿は見えていない」
うるさい。もう君に用はない。どこかへ失せてくれないか。
「私は、死者だ」
私は普段、「ハリス」と名乗っている。
君を、生かすために。
「……は、ははは……」
「えっと……ハリスさん……?」
いつからだろう。
私は、私自身の嘘に飲み込まれ、真実を忘れてしまった。
けれど、そんなことはどうだっていい。私にとって何よりも大切なのは、欲望だ。報復も恐ろしくはあるが、そんなものは欲を満たす悦楽に比べれば些細なものだ。
情けも、良心も、秩序も……欲望の前には無力で小さなものでしかない。だから、仕方がない。
「ロン、その子を解放しろ。……さもなくば……」
殺す、とでも言うつもりかな。その脅しは聞き飽きた。
君が私を殺せた試しなんて、一度もないくせにね。
「ヤン」
少年を呼ぶ。
「君にはもう飽きた」
少年の顔に、ありありと絶望の色が浮かぶ。
ああ、この顔だ。貪り蝕み弄び、散々楽しんだ後に見るこの顔は、やはり格別だね。
「何でですか!? 何がいけなかったんですか!?」
「悪いね。私は移り気なんだ」
「そんな……! 許してください! オレ、いい子にしますから……っ!!」
まあ、この子が自分から離れたがったのなら、絶対に逃がしはしなかったけれど。
「……で、どうするんだ。この子が外の世界で生きていけるとでも?」
呆然と打ちひしがれる少年を他所に、ロジャーに問いかける。
「まさか、自己満足と偽善のために私を『説得』しに来たわけじゃないだろうね?」
ロジャーは無言で少年を見つめ、覇気のない声で「ローザに相談する」と言った。
***
薬で眠らせた少年の頭を撫でながら、ローザは呆れたように語る。
「懲りないわねぇ、お兄様。戸籍上死んだことになっても、警察から逃げ隠れしながら生きる羽目になっても……そうまでして、罪を重ねる意味って何かしら」
そう言うローザもかつて、人を殺したことがある。
とはいえ裁判では情状酌量が認められ、罪状自体も軽いもので済んだと聞く。……まあ、幾許か金を積んだようにも思えるけれど。
「私のお零れで良ければ、好きに調教しなさい」
「あらぁ、わたくしはお兄様とは違うわ。本人の意思も尊重するつもりよ」
昔は……少なくともローランドが事故に遭う前は、無理やり踏みつけ調教することを好んでいた気もするけれど、いつからか方針転換をしたらしい。
改心した、ということになるのだろうか。……くだらない。
「ねぇ、お兄様」
「ローザ、口止めは頼んだよ。君が通報するとは思っていないけれど、その少年は分からないだろう?」
例え身内であろうとも、弱みを握り、しっかりと沈黙を約束させておく。
悪党の生き方である自覚はあるけれど、楽な生き方だ。私にはむしろ、世の中に蔓延る「善人」が、なぜそこまで必死に秩序を守らんとするのかが理解できない。
「その先には、破滅しかないわ」
「だから、何だと言うのかな? 君には関係ないだろう」
腑抜けた妹に背を向け、立ち去る。
忠告したつもりだろうが、私にとって何よりも大切なのは欲望だ。
どんな破滅が待ち受けていようが、そんなものは関係ない。
……それが嫌なら、早く、裁いてくれないか。
「ロン」
また現れたのか。
いつまで夢を見ているつもりなんだ、ロジャー。
「……俺は……まだ、諦めきれない」
君は、そこまで愚かな男じゃないはずだ。
「お前にも人の心があるだろう。それなら……」
君は、高潔で、清廉な人間のはずだろう。
賢く、強く、私よりも余程優れた人間であるはずだ。
ああ、忌々しい。つまらない小言はもういい。早く消えてくれないか。
「……最低だよ、あんた」
ロジャーでない声音が、とうの昔に狂い、死んだはずの、哀れな被害者の声が頭に響く。
──地獄に堕ちろ
私は。
僕は、愛そうとしたつもりだった。
可愛い妹分として、どうにか気持ちに応えてやろうとしただけだった。
確かに、不特定多数の少年少女、あるいは少女性を内包するあらゆる老若男女に抱くような、下卑た欲求に飲まれはしたが、君は私を好きだったじゃないか。
何がいけなかったんだ。母さんに教えられた通り、「愛を与えた」だけじゃないか。
母さんが間違っていた? そんなこと、誰も僕に教えてくれなかっただろう。
ああ、うるさい、うるさい。母が、私が間違っていようが、どうしようもない悪人であろうが、どうだっていい。欲望さえ満たせれば、それでいいんだ。歪んでいようが、破滅に向かっていようが知るものか。
「……ロー? どうした、大丈夫か?」
ロジャーの声で我に返る。彼は慌てた様子で、虚空に話しかけていた。
いい加減鬱陶しいので、早足で振り切っておく。
まったく……せっかく楽しんでいたと言うのに、厭な気分になってしまった。
またどこかで、新しい「ペット」を調達して来ようか。……それとも、屈服せず逃げたあの子を探しに行くのも良いかもしれない。野放しにしていると、面倒なことになりそうだしね。
……さて、今度はできるだけ長く、楽しめればいいのだけれど。
「ロン!!」
呼び止める声には振り返らない。
元より、君と僕の立場は違うんだ。いつだって君は美しく、僕は醜い。
「僕は、君を友だと思ったことは一度もないよ」
ここまで堕ちた私が友の説得で心を入れ替え、赦される? 笑わせないでくれ。
そんな甘ったれた結末を望んでいるのは、ロジャー……君ぐらいだ。
腐った汚泥の中は、堪らなく心地がいい。
私の向かう先には破滅しかない。……だからどうした?
そちらの方が、救済よりもよっぽど素晴らしい。
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