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ある罪人の記憶(文学フリマ大阪特典小説)
「あれ、どうしたの?」
パリの喫茶店で、その男は突然話しかけてきた。
「……いきなり、何ですか」
「いや、浮かない顔してたからさ」
亜麻色の髪に、水底のごとく蒼い瞳。長い睫毛、整った鼻筋に薄い唇。すらりと長い痩身の手足。見るからに「美青年」といった顔立ちだが、クロックムッシュを頬張りつつ初対面の相手に話しかける姿は不審者そのものだ。……見覚えがある気もするが、フランスの地を踏んでからは、少なくとも初めて見る顔だった。
「俺はドイツの出身なので……パリ風に口説かれても困ります」
「え? 僕、口説いてた?」
「……失礼。少々フランスへの偏見が出てしまったようです」
「……ひょっとして覚えてないの? レヴィ君でしょ。久しぶり」
レヴィ。……それは、確かに俺の名前だった。どうやら目の前の不審者は俺の知り合いらしく(その割には「あれ、どうしたの?」というシチュエーションにそぐわない挨拶であったものの)、今繰り広げられているのは久しぶりの再会……という場面のようだ。
「昔近所に住んでたカミーユだよ。小っちゃかったし、忘れてた?」
カミーユ。……その名前に、記憶の蓋が緩む。
過去のことはなるべく思い出したくないが、その日々は……まあ、悪くない記憶として残されていた。
「カミーユ兄(にい)……カミーユさんか」
「言い直さなくてもよかったのに」
「……カミーユさん……? 俺が十歳ぐらいの時に二十歳前後ではなかったか……?」
「え、今もう三十代だけど? そんなに若く見える?」
クロックムッシュの残りを口に放り込み、彼は小首をかしげた。
若く見える。と、いうより、変わらなさすぎて逆に違和感がありすぎる。理解が記憶と合致しなかったのも当然だ。
「……変わりませんね」
「そう? これでも色々あったんだよ」
「そうですか。……いや、昔からそういう感じだったような……」
「どういう感じ!?」
変人奇人の類、と言うべきかどうかがわからず、とりあえず目をそらした。相手は「え」と軽くうろたえたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「で、どうしたのさ」
「……いえ、別に、何もありません」
「ふぅん? 途方に暮れてるように見えたけど?」
ぎくりと肩が跳ねる。
俺はすべて忘れて、感情も、環境も、すべてを新たにするためにフランスへとやってきた。……深い蒼を直視できない。覗き込まれることが、無性に恐ろしい。
……自分のそんな「弱さ」にすらも、苛立ってくる。
「あなたには関係のないことだ」
「……そう。まあ、いっか。何かあったら頼りなよ」
肩を竦め、目の前の相手はカップの底に残ったコーヒーを飲み干す。
「まだ画家やってるし、良かったら遊びに来なよ」
「……それが……」
「……ああ、また目、調子悪くなっちゃった?」
「……ええ、まあ」
細かいことまで覚えてくれていたのは、嬉しく思う。……だが、忘れていてくれたほうがありがたくもあった。
過去に関することは、思い出させるようなものは、何もないに越したことはない。
「レヴィ君」
「……何ですか」
蒼い瞳が細められる。憐憫などは向けられたくない。……俺は、そんなもの欲していない。
「頑張ってるんだね」
欲していた言葉だったかどうかは、わからない。
ただ……その言葉は、やたらと胸に沁みた。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
よいしょ、と立ち上がり、カミーユさんは財布からチップを取り出した。
「連絡先……聞いておいても、構いませんか」
「いいよ。寝てなかったら出るけど、寝てたらごめん。またかけ直して」
「作業中は」
「……。その時もかけ直してくれたら助かるかな!」
いずれは絶望を乗り越え、希望の道を歩んでいける。
……そう、思えるような出来事だった。
ㅤもしあの時間がなければ、
世界を憎み、呪うことに、躊躇いなど抱かなかったかもしれない。
この苦しみも、葛藤も、存在しなかったかもしれない。
……他者の優しさを、優しさとも思わなかったかもしれない。
感謝している。……だから、どうか、祈らせてほしい。
あなたの生が、満足のく終わりを迎えられるように。
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