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花嫁の控え室を退出すると、そのすぐ傍らでグレイ家の執事がひっそりと待ち構えていた。そろそろ参列者が聖堂に入る時間だと知らせに来てくれたのだ。
「君は子供たちを連れて先に行ってくれ」
「あなたはどうするのです?」
「ウィンザー侯爵が間に合うか見てくる」
妻を執事に任せて、アーサーはそのまま花婿の控え室へ向かった。
扉のまえで足を止めてコンコンと軽くノックすると、どうぞと応じる声が中から聞こえてきた。それは間違いなくリチャード本人のものだ。急激に緊張が高まるのを自覚しながら、そろりと扉を開く——。
「アーサー!」
リチャードはパッとうれしそうに顔をかがやかせ、立ち上がった。
後ろから従者が黒髪を整えていたところのようだが、もう十分に整っているし、衣装もきっちりと着ているし、見たところだいたい支度は終わっているようだ。アーサーはほっと息をつく。
「どうやら間に合いそうですね」
「ああ……おまえにも心配かけたな」
「あなたは昔からいつもギリギリだ」
「それでも遅れたことはないよ」
リチャードは悪戯っぽく肩をすくめる。パブリックスクール時代を思い起こさせるやりとりに、アーサーもつい表情が緩んでしまう。
「ところで何の用だ?」
「いえ、あなたが結婚式に間に合うのか確認に来ただけです。気が気でなくて……シャーロットに惨めな思いはさせたくありませんから」
仕事なら責められないが、花嫁の父として心配するくらいのことは許されるだろう。そう思ったが、彼はどういうわけか急に怖いくらい真剣な顔になり、一気に間を詰めてアーサーの背後の扉にドンと勢いよく手をついた。
えっ——。
さらに息がふれあうくらいにグイッと顔を近づけ、覗き込んでくる。
思わずアーサーはびくりと体をこわばらせて息を殺した。まさか——これから娘と結婚しようというのに、この教会で宣誓しようというのに、よりによってどうしていまここでこんなことを。
「じょっ、冗談にしても……あまりこのようなことをなさるのは……」
冗談であってほしい、そう願いながらおずおずと探るような言葉を向ける。
それでも彼の表情はすこしも変わらなかった。アメジストのような紫の双眸で鋭くアーサーを射竦めたまま、さらに顔を近づけてくる。こらえきれずにアーサーはギュッと目をつむったが——。
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