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亮が指定した大通りから一本脇にそれた場所にあった。店の前に建てられていた洒落た看板を見るに、どうやらバーらしかった。
扉を開ける前に、二通りの展開をシュミレーションしておく。
一つは亮が謝罪の意味を込めて飲みに誘ってくれているパターンで、もう一つは別れ話を切り出されるパターン。しかしたとえ後者だとしても、別れる気はない。泣く、叫ぶ、懇願する、怒る。どんな手を使ってでも、亮を思いとどまらせる覚悟があった。
深呼吸して、手すりに手をかける。店内は薄暗く、カウンターの他にはテーブルが一つしかなかった。一人だけいた先客がそのテーブルに座っていたので、私はカウンター席に腰かけた。あたりを見回すが、亮の姿はない。まだ到着していないのだろうか。
「こっちですよ」
突然、背後から声がした。驚いて振り返ると、テーブルに座っていた女性が不敵な笑みを浮かべながら手招きをしている。気が強そうな顔立ちで、瞳には自信が満ち溢れている。その顔をあらためて見たとき、私は声を上げそうになった。
その女性には見覚えがあった。
雨の日に、亮と並んで歩いていた人だった。
私は立ち上がって、おそるおそる近づく。
「亮はどこ?なぜあなたがいるの」
「けんか腰ですね。まず座ったらどうですか」
私は舐められたくない一心でその要求を無視する。
「答えて」
彼女はケタケタとあざ笑う。
「座ったら答えますよ」
私は数秒黙って逡巡した後席に着く。
「すみません。この人に赤ワインを」彼女は手を上げ、注文をする。
赤ワイン。私の好物だ。
もう、そんなことすらも二人で話して、知っているのだ。
押し殺していた敗北感がみるみるうちに膨れ上がってはちきれそうになる。
「そういえば、名前言ってなかったですね。私、安西京香といいます」
「そんなこと、どうでもいい。早く答えて。どうしてあなたがいるの」
「私だって、好きであなたと会っているわけじゃないですよ」
京香はにやにやしながらオレンジ色のカクテルを一口飲んで続けた。
「でもね、亮くんに頼まれちゃったから、仕方ないですよね」
「亮から何を」
「俺に付きまとってくる迷惑な女がいるから、何とかしてくれないかって」
「嘘だ」
「本当に、そう思うんですか?じゃあ、私はどうやってあなたのスマホにメッセージを送ったんですか?」
私は返事に窮する。
しばらくの沈黙。
「お待たせしました」
若いバーの店員が気まずそうに赤ワインを置き、そそくさと去っていった。
私はずっとうつむいて、京香はカクテルをちびちびと飲んだ。
「それ、好きなんですよね?飲まないんですか?」
京香は挑発的に言ってくる。
私は負けたくない一心から、赤ワインを一息に飲み干して言い放つ。
「わかった。いいわ。今は一時的にあなたのところにいるのかもしれない。でも最後には、亮は私のところに帰ってくる。私たちは死ぬまでずっと二人でいるんだから」
「あの事件があるからそう言ってるんですね」
一気に背筋が凍り付く。まさか。そんなはずがない。この女がそのことを知っているはずは。
「何の話」
「知らないふりですか?別にいいですけど、私は全部知ってますよ」
反論しないといけないのは頭でわかっているが、言葉が出てこない。
「あなたはあの事件で絆を深めたつもりでしょうけど、違いますよ」
頭が回らない。
「亮君はあなたに怯えています」
まぶたが重い。
「母親を殺したあなたに」
京香が何かしゃべっているが、反論する暇もなく、私の意識は眠りへと真っ逆さまに落ちていった。
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