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先生の家は閑静な住宅街の一角にひっそりと佇んでいた。リビングに通され、言われるがままソファに腰掛ける。辺りを見渡しても、清潔で丁寧な部屋が広がっているだけで、猫の姿は見えない。もちろん、今になってみれば、僕の目的は猫ではなく先生との対話なのだが……。
「悪いわね。散らかってて」
アンティーク調のローテーブルに、ガラスのティーセットが置かれた。
「とんでもないです。こちらこそ、気を使わせてしまって」
隣に、脚を斜めに揃えた先生が座る。その重みでソファが沈むことすらも至福だ。
「すぐ連れて来るわ。コタロウは寝室が好きで、いつもそこにいるの」
「きっと、先生が選んだベッドがお気に入りなんでしょう」
カップに薄茶色の液体が注がれ、ふわりと湯気が立つ。ブラックコーヒーでなかったことに安堵した。
「どうぞ。あなた、コーヒーは飲めないんでしょう?」
あっさり見透かされていたことに狼狽する僕を背に、先生は軽い足取りで部屋を出ていった。
カップを口に運ぶと、清涼感のある強い匂いが鼻をつく。抵抗があったが、先生の淹れたお茶だ。飲まないという選択はない、自分に言い聞かせて口に入れる。これは、あれだ。歯磨き粉の味がする。たしか、カモミールだか、ローズヒップだか、正式な名前は思い出せないが、ハーブティーの一種だろう。
爽やかな香りが鼻に抜ける感覚に、つい顔を顰める。正直、あまり好みの味じゃないな。
カップを置いたのと同時に、背後で扉の開く音が鳴った。
わくわくしながら振り返った瞬間、そのままの体勢で僕の体は硬直した。
先生の隣には、痩せた白髪の青年が、全裸に首輪だけをつけた姿で立っている。
「ペパーミントティーも苦手だった?」
「はい」
嘘をつくための思考は停止していた。
「ごめんなさい。なら、他のを用意しようかしら」
「お、お気遣いなく」
なんとか答えたが、聞こえなかったのか意図的に無視してか、先生は静かに僕の隣に座った。ソファが沈み、嫌な汗が背中を伝う。
「おいで。コタちゃん。お客さんよ」
そう呼ばれた青年は、素足をぺたぺたと鳴らして歩いてくると、先生の足元にそっと座り込んだ。その細い顎を、先生は優雅な仕草で撫でている。
「子供のころ、飼っていた小鳥が猫に食べられちゃったことがあって。それから、猫は苦手だったんだけど、こうして見ればかわいいものよね」
コタはいい子だもの、と子供をあやすように語りかけて、耳の裏、頭を優しく擦る。青年は目を細めた。
口の中が急速に乾いていく。
——ここにいてはいけない。はっきりと、本能が主張する。
「ねえ。ミケちゃんは、もともと野良猫?」
肩を叩かれ、はっとした。訝しんだ様子からして、何度か同じ質問をされていたのだろうか。急いで回答を用意する。
「まあ、はい。捨て猫でしたね。ダンボールに入れられて、公園に置かれていて。その、コタロウさんは?」
そっくりそのまま聞き返す。コタロウは——青年は何者なのか。なぜ、ここで大人しく「飼われて」いるのか。
「ふふ、猫に敬称なんて、変な人。それに、街で拾ったと言ったでしょう」
作り物めいた微笑に、背筋が凍る。彼は先生の手を離れ、僕の脚に擦り寄った。
「あなたのこと、気に入ったみたい。コタちゃんは撫でられるのが好きなの。よかったら、触ってあげて?」
……ごくりと唾を飲み、そっと頭に触れてみる。どうやら、この白髪は染められたもののようだ。猫がそうするように、彼は僕の掌に頭を擦り付けた。軋んだ感触が、手入れのされていない人形の髪を連想させる。
気味が悪くなり、さっと手を引っ込めた。
「……ここに人を招くのは初めてだったから、心配してたの。猫って、お客さんがストレスになったりするそうじゃない。でも、あなたが優しい人で良かったわ」
「猫」が僕を見上げている。「どうしてこんなところにいるんだ」……そう訴えているように見えたので、「こっちの台詞だよ」と、声には出さずに返事をした。
「そうだ。お茶を淹れなおすわ。ミルクティーなら飲めるかしら」
「あっ。そうだ、僕ってば、次の仕事が入ってしまって。その、さっきメールが来て……。残念ですが、おいとまします」
真っ赤な嘘だったが、咄嗟に口をついて出た。恐る恐る、先生を見上げる。
「あら、そうなの。我儘を言ってごめんなさいね。また今度、ゆっくりお話ししましょう」
歪んだ目が僕を見下ろした。
「お忙しい中、失礼しました」
「あ、ちょっと待って」
玄関を出る手前、先生が言った。一刻も早く逃げ出したい気持ちを抑え、どうにか振り返る。
「良い病院を知っていたら、今度メールで教えてほしいの。うちにも慣れてきたし、そろそろ去勢手術を考えているから……」
奥にある摺りガラスの扉越し、白い影が見えたのを最後に、僕は何も言わず先生の家を後にした。
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