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「先生にお会いできて光栄ですよ。いや、本当に。僕、大ファンなんです」  緒方琴子(おがたことこ)先生への取材を終えた僕は、前のめりになって言った。 「ほら、先生が高校時代に出した同人誌の『騒がしいから』も持っていて、あと『手中のハムスター』とか、ええと……」  興奮を抑えるために、苦手なアイスコーヒーを口にする。緊張して、つい先生の注文と同じものを注文してしまったのだ。  一方的に話しすぎただろうか。ただの雑誌記者である僕なんかが、先生の貴重な時間を割いてしまっている。  恐る恐る視線をやると、先生はしなやかな手つきで細い煙草を取って火を点けた。一口吸ったあと、ゆっくりと灰皿に置き、センターで分けた前髪を耳にかける。そして言った。 「恥ずかしいわ、すこし」  再び灰皿から煙草を取り、とろとろと煙を吸う。緒方先生は、彼女の執筆作品そのものを体現するような女性だった。 「すみません、つい熱くなってしまって」 「いいえ。ありがとう」  すっと口角が上がり、切れ長の目が細くなる。笑顔ではなく、微笑。気取るつもりはないのだろうが、音もなく滲み出ている上品な佇まい。小説家ではなく、女優やモデルとしてでも充分やっていけそうだ。  言いたいことは山ほどあるはずなのに、いざ憧れの人を目の前にすると、何を話していいかわからない。持ち上げたグラスの氷が、カラカラと小刻みに鳴っている。 「あら」  はっと顔を上げると、なにやら先生は指をさしていた。丁寧に整えられた爪の先には、僕のスマートフォン。 「ねこ」  どこか舌っ足らずな言葉の意味を理解して、その待ち受け画面を差し出す。 「これ、うちで飼ってる猫なんです。ミケです。三毛猫だから。単純ですよね」  先生は黙ったまま、まるまると太ったミケの写真を鑑賞している。  謎に包まれた私生活、というのもファンの間で語られる彼女の魅力だったが、実際に会ってみて強く思う。確かに、掴みどころのない人だ。 「わたしも飼ってるの」  微笑。 「え、いま、初めて知りました」 「だって、ずっと隠してるんだもの」  コーヒーの味が残った生唾を飲み込む。 「どんな猫なんですか?」 「それは、取材のひとつとして聞いてる?」  落ち着いた色の口紅が付いた煙草を揉み消す。それを追う伏し目が、いたずらを纏う。 「いえ……。愛猫家として、ひとりのファンとして、聞いています。絶対、誰にも言いません」  膝の上で作った拳の中に汗が滲む。僕だけが知っている、先生の秘密——。 「コタロウ。虎に、太郎と書いて。とっても可愛いわ」 「じゃあ、トラ猫なんですか」 「いいえ。白猫よ」  そう短く答えて、何本目かわからない煙草を優美に取り出した。 「……やっぱり、僕みたいな凡人の発想とは違いますよね」  エアコンの風にのって、どこか甘い匂いの煙が流れていく。それが霧散する様子を見届け、時間をかけて先生は語り始めた。 「少し前に拾ったの。渋谷で。一目惚れだったわ。はじめこそ鋭かったけれど、もうすっかり飼い慣らされて。コタロウのために、寝室のベッドまで買い替えてしまったわ」 「ベッドを⁉ 流石ですね。でも、猫を優先した生活になってしまいまうのは、わかります」  言ってから、うんうんと頷く。ペラペラの湿気った布団をミケに占領されて、端に追いやられている僕とは程度が違うが……。 「うちのミケは素っ気ないんですよ。せっかく買ってきたおもちゃを無視したり。でも、そこが可愛いんですけど、コタロウくんはどうですか?」  先生は、あら、と口元に手をやって、くすりと笑った。 「彼は、そんなことないわ。甘えん坊で、たとえば私が落ち込んでいたら、指を舐めたり体を擦り付けて慰めてくれるの」  驚いたな。猫は気ままな生き物で、そこが良いところだと思い込んでいた。 「猫も、飼い主に似るもんなんですかねえ。先生が聡明な人だから、きっとコタロウくんも……」   感心している僕を傍に、先生はテーブルに頬杖をついたまま顔を横に向け、窓の外を見つめていた。心から思ったことだったが、お世辞に聞こえてしまったのかもしれない。さっきまでは心地よかった春の陽が、窓越しに僕を責め立てる。 「そうだ。コタロウくんの写真とか、見てみたいです、ぜひ」  気まずい空気を断ち切るべく、なるべく自然に、感じよく話を振る。すると、ちらり、と黒目だけがこちらを向いた。 「写真は撮らないの。だって、生きてる姿を見ていたいでしょう」 「そ、そうですか」  きっぱりと言い切られ、また喉が詰まった。  窓に目をやると、ビジネスマンたちが忙しなく歩いている。三人目が通りかかったころ、甘い匂いが漂ってきた。 「今から、見にくる? あなたの時間が許せば」  反射的に先生を見た。煙草を咥えたまま、挑発的に微笑んでいる。 「そんな。いいい、いいんですか」  しどろもどろ。そうなるのも当然、憧れの小説家の自宅に招待されてしまった。 「良いのかどうか、わたしが聞いてるのよ」  僕の心を、ふたつの昂揚が支配する。ひとつは、この仕事に就いて本当に良かったということ。そして、もうひとつは、これ以上苦いコーヒーを飲まなくて済むことだった。
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