女たらしの最期

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 自分の腹に突き刺さっている果物ナイフに気づいてなお、俺は事態が把握できずに間抜けな声でつぶやいた。 「あれ?」  紗奈絵(さなえ)はナイフを握ったまま、半狂乱で何ごとかをわめきちらしている。  はっきりと痛みを感じたのは、彼女がナイフを引き抜いた時だった。刃から飛び散った赤黒い液体が、まるでラズベリーソースのようにテーブルの上のバースデーケーキにかかる。激痛と共に全身の力が抜け、俺はケーキに顔をうずめた。  なぜだ。なぜ刺されなければならないのだ。俺はただおまえの誕生日を祝ってやっただけなのに……。抗議しようにも息が詰まってしゃべれない。生クリームと血にまみれた口からかすれた呻き声が漏れ出すだけだ。  紗奈絵は常日頃から、もしも俺が浮気をしたら俺と無理心中をすると真顔で言っていたが、その脅威を差し引いてなお余りあるほどの魅力を持つ女だ。美人で、ぴちぴちとした豊満な体は抱き心地がよく、セックスの相性も抜群だった。  だからこそ俺は、紗奈絵のことはそれなりに大切にしてきたつもりだった。ケーキを買って誕生日を祝ってやる女なんて、紗奈絵と、もうひとりのお気に入りである沙姫(さき)くらいしかいない。  断片的に聴き取れる紗奈絵の雑言から判断するに、どうやら浮気がバレたらしい。解せない。人一倍疑り深い紗奈絵を恐れ、隠蔽工作には万全を期した。普段使っているものとは別に彼女専用の携帯電話まで用意するほど、細心の注意を払ってきたはずだった。  この1週間の出来事が頭に浮かんでくる。  月曜日は愛美(まなみ)と渋谷の映画館に行った。紗奈絵も渋谷にはよく行くから、あそこでなら目撃されてもおかしくはないが、たとえそうだとしても、あの人混みの中では隣り合って歩く男女がカップルかどうかなど判断できまい。俺は外出時には決して女と手をつないだり腕を組んだりしないし、会話すらなるべくしないように心がけているのだ。  火曜日は授業が終わった後、キャンパスのベンチでイチャついていたカップルを見て不意に情欲を催し、智里(ちさと)に電話して校門で落ちあい、池袋のホテルにチェックインした。  水曜日は若菜(わかな)と品川に行き、水族館をまわった後、彼女の部屋で情事に耽った。顔だけでいえば紗奈絵や沙希にも負けない若菜だが、ベッドの上ではいつもマグロだ。  木曜日は環希(たまき)と吉祥寺に行った。夕方、ふたりで井の頭公園を散歩し、軽くメシを食って帰るつもりだったのだが、園内から井の頭通りへ続く坂の途中、たまたま目に入った妖艶な紫色のネオンに誘われ、思わず連れ込み宿へ。  金曜日は文(ふみ)と高円寺でパチンコを打った後、彼女のアパートに泊めてもらった。これで4日連続、計10回戦をこなしたわけだが、それでも俺の性欲は打ち止め知らずだ。  火、水、木、金曜の夜は、紗奈絵は国分寺のコンビニでバイトをしている。この4日間にぬかりはなかったはずだ。  とすればあとは昨日のことになるが、やはり心当たりはない。沙姫と一緒に練馬の光が丘公園でピクニックをして、まっ昼間から酒を飲み、彼女の部屋に行ってセックスをし、また飲んで……そうそう、紗奈絵の誕生日ケーキを予約していなかったことを思い出して、酔いの醒めぬままわざわざ地元に戻り、閉店間際のケーキ屋に駆け込んだのだ。それなのに紗奈絵、どうしておまえは俺にこんな、こんな……。  テーブルにつっ伏し、もうろうとする意識の中で、ぐちゃぐちゃにつぶれた誕生日ケーキを、ぼんやりとながめる。かろうじて、原形をとどめた、チョコレートの、プレート。そこには…… “HAPPY BIRTHDAY SAKI”  と……書かれて……いた。
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