やきもちテレパス

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 突然頭に画像が浮かんだ。うまそうなオムライスのイメージだ。たぶん、たまにふたりで食べに行く「仔犬のワルツ」の品だろう。 「昼はどうする? ひさしぶりにオムライスでも食べようか?」  そう小声で訊ねると、早くも筆記具を片づけながら梓(あずさ)が答えた。 「すごい。あたしも今ちょうどオムライスが食べたいって思ってたんだよ」  長いまつ毛の下のくりくりとした黒目がちの目に僕が映る。梓の頭の中に以前の記憶、ふたりで一緒にオムライスを食べた記憶がうっすらと浮かび上がり、そのイメージが僕の頭にまで伝わってきた。  教授が教卓から離れるやいなや学生たちがいっせいにざわめきだす。喧騒の中、僕らは足早に教室を後にした。  仔犬のワルツはキャンパスから歩いて1分もかからない所にある小さな洋食屋で、ここのオムライスは女子学生を中心に人気がある。狭いけれども小洒落たログハウス風の店内は僕らが着いた頃にはすでに混んでいた。運良くテーブル席に着けた僕らは待望のオムライスを味わった。 「いつも思うけど、シゲちゃんってほんと勘が鋭いよね」  店内にたちこめる料理と学生たちの熱気で、頬をうっすら桃色に染めながら梓が言った。 「あたしが何か食べたいとか、どこか行きたいって思ってると、だいたいいつもそのとおりにしてくれるもん」  ショートボブの黒髪を耳元ですいて、彼女は僕の目を見つめた。 僕はスプーンを持つ手を止めて言った。 「テレパシーだよ」  事実とはいえ陳腐なセリフを吐いてしまった。ちょっと恥ずかしい。 「そうだね、テレパシー」  梓はそう言ってにこりと笑った。彼女の頭には、僕の顔がはっきりと浮かんでいる。  この妙な能力が身についたのは中学時代、初恋の娘に想いをうち明け、「好きな人がいるから」とふられた時だった。突然頭の中に、僕らと同じクラスだった男子生徒の顔が浮かんだ。そしてその男子こそが、彼女が当時密かに交際していた相手だった。それで僕は自分に人の心を読む力があることに気づいたのだ。  もっとも、人の心をすべて読み取とれるわけではない。正確には、相手が想い描いたイメージを、まるで写真のように、画像として受け取ることができるのだ。相手がちょっと思いついたものであればぼんやりと、強く念じたものであればはっきりと、その画像がこちらに送られてくる。どうやら僕の頭には、相手の思念を写し取るカメラか何かがついているらしい。  食事が済んで店を出た僕らは、おしゃべりをしながらぶらぶらとキャンパスを歩いた。僕の大学は日本で2番目に学生が多いから、昼休みのキャンパスは雑然としていて、さながら都心の交差点のようだ。  通り過ぎる学生たちの思念が、ぽつぽつと頭に入り込んでくる。ある者は空腹のためか焼肉を、またある者は欲求不満なのか水着の美女を思い浮かべている。今通り過ぎた美人と醜男(ぶおとこ)のカップルは、男の頭は彼女でいっぱいだったが、女の方は別の男のことを考えていた。おそらく彼はただの召使いとしてキープされているだけなのだろう。可哀そうに。 「あっ」  不意に梓が声を漏らした。 「どうかした?」  彼女は頬を引きつらせて答えた。 「……ううん、何でもない」  突然、僕の知らない男の顔がはっきりと頭に浮かんだ。へらへらした軽薄そうな顔をしているが、なかなかの男前だ。日本人とは思えないほど彫りの深い、端整な顔だちをしている。リクルートスーツを着ているから、就職活動中の4年生か。  付近を見まわすと、僕らから10メートルほど離れた政治経済学部の校舎の前に、その男がいた。 「あのスーツの人、知り合い?」  僕が立ち止まって訊ねると、梓は目を丸くしてとぼけた。 「ん、スーツの人って?」 「ほら、あの黒いスーツ着てる人」 「あの人? えー、会ったことあったっけ?」  シラを切って歩きだす彼女を追いつつ、僕はカマをかけてみた。 「さっき梓に手ぇ振ってたけど?」 「あたしに? ウソ、そう見えただけじゃん?」 「いや、たしかに振ってたよ」  梓の足が止まった。顔がみるみる紅潮していく。ちょっと可哀そうだが、僕はなおも詰問した。 「知り合いでしょ? もしかして元彼?」  一瞬表情が固まった後、彼女は苦笑いを浮かべてうなずいた。 「やっぱ、シゲちゃんには隠しごとできないわ」 「どんな人なの、彼は」  嫉妬心を悟られぬよう、できるだけ軽い口調で訊いてみた。 「うちらの1こ上で、国教の人」  なるほど。僕の大学の「国教」こと国際教養学部には、その名称が示すとおり様々な国籍を持った学生が在籍している。もしかしたらあいつは西洋人とのハーフかもしれない。 「座ろうか?」  僕がベンチを目で示すと、梓は軽くうなずいて腰を下ろした。隣に腰かけ、咳払いをしてから、僕は沈黙を避けるべく訊ねた。 「国教ってたしか、海外に1年間留学するんだよね?」 「うん、去年の1月からオーストラリアに留学してたの、あの人」 「へえ、オーストラリアか。グローバルな遠距離恋愛だね」 「ううん、留学前に別れたみたいなもんだよ。あの人が出発するときね、『もし新しく好きな人が出来たら無理しないで自分の気持ちに従おう』って約束してたから。じゃなきゃシゲちゃんと付き合ってないし」 「ふーん」 「とにかく、帰ってきたって知らなかったからびっくりしちゃった。考えてみればもう、1年以上経つんだもんね。早いなあ」  不意に、薄暗い寝室の画がぼんやりと浮かんだ。物は少なく、きれいに整頓されていて生活感がない。ホテルの部屋だろうか。青白いシーツが敷かれたベッドでは、男が裸で心地良さそうに寝入っている。あの男だ。もしかしてこれは、彼女が別れる前に見た最後の彼なのか。ひょっとしたら、今でも彼女はあいつのことが好きなのだろうか。  僕が落ち込んでいるのを察したのか、梓は気まずそうにスマートフォンをいじっている。 「そろそろ授業始まるね」  彼女はそう言って、電話をバッグにしまった。 「うん。じゃあ、また後で」  重苦しい雰囲気のまま、僕らはそれぞれの教室へ向かった。  はっきり言って梓はかなりの美人だ。本来なら、容姿が人並以下の僕とは無縁の存在だろう。そんな僕が彼女と付き合うことができたのは、ひとえに僕の、他人の心が読める能力のおかげなのだ。実際、中学時代にこの能力に目覚めて以来、僕は女の子には不自由したことがない。一般に、女に求める容貌のレベルが高い男と違って、女にとって男の外見はそれほど重要ではない。女が求める男は、小ぎれいで洒落た服に身を包んだ、優しくて気の利く男なのだ。女の心が読めるおかげで、僕はそんじょそこらの男前に負けないくらいモテる。  とはいえ、見たくないものまで見えてしまうのも辛いものだ。浮気を目撃したわけではないが、ベッドの上の元彼を見たりしたらとことん気が滅入ってしまう。  梓も僕も今日は3限で終わりだ。授業を受け終えた僕は、梓がいるはずの校舎へ向かった。校舎の入り口前に立っていた彼女は、スマートフォンで誰かと話をしていた。遠目に僕の姿を認め、電話を切ってこちらへ近づいてくる。  世間一般の男はこういうとき、通話の相手が誰か恋人に問い質すだろう。だが僕はそんなことはしない。する必要がないからだ。 「シゲちゃん、今日はバイトだよね?」 「うん」 「あたしもやろうかなあカテキョ」 「俺が登録してる派遣会社はやめたほうがいいよ。何にもしてくれないのに、マージンはやたら高いから」 「そうなんだ。最悪だねそれ」  たわいない会話をしながら、僕は意識を集中させる。案の定、梓の頭はあの男でいっぱいだ。先ほどの通話の相手は奴に違いない。 「どうする? 俺、1時間くらい余裕あるけど」  校門の前で僕がそう訊ねると、梓は気乗りのしない様子で言った。 「うーん、明日までにレポート仕上げなくちゃいけないんだよね」 「ああ、そう」  暗にアルバイトまでの時間を一緒に過ごそうという提案を却下された僕は、梓を家まで送ると自宅に戻って仮眠をとった。  スマートフォンの音で目が醒めた。電話をかけてきたのは家庭教師として教えている中学生の母親で、子どもが熱を出したために今日の授業は休ませてほしいとのことだった。急に予定の空いた僕は、することもなく読みさしの文庫本を読みだした。谷崎潤一郎の『痴人の愛』だ。  ふと疑念が湧いてきた。ひょっとしたら梓は、僕がアルバイトでいない間、あの男とこっそり会うつもりではないだろうか。レポートを仕上げるというのはそのための……。憶測とはいえ十分ありうる事態を想い浮かべると、背中から冷汗がにじみ出てきた。  アパートのドアの前で、僕はごくっと唾を呑んだ。物音はしないが、玄関横の窓には明かりが見える。チャイムを鳴らしたが、反応はない。もう一度チャイムを鳴らすと、かすかに物音が聞こえた。インターフォンから梓の声が聞こえた。 「はい?」 「俺だけど」 「シゲちゃん?」  ドアが開くと、梓が目を丸くして言った。 「どうしたの? バイト終わるの早くない?」  そのとき、梓の思念からあの男が、あの男の顔がはっきりと伝わってきた。これほど鮮明にイメージが浮かぶということは、つい今しがたまであいつを見ていたのだ。間違いない。あいつは今、この部屋の中にいる。  全身の血液が頭に上るのを感じながら、僕はなるべく興奮しているのを悟られぬよう、努めて冷静な口調で訊ねた。 「ちょっと、上がらせてもらってもいいかな?」 「いいけど、レポート書いてる途中だから散らかってるよ」  学生が独り暮らしをするには贅沢な1LDKの室内には、一見、梓と僕以外に人影はない。8帖のリビングルームのテーブル周辺に、わざとらしくレポート用紙やノートPC、参考文献などが散乱している。  梓は平静を装っているが、あの男の顔は消えない。内心、かなり焦っているのだろう。僕はさり気なく、人の隠れられそうな所を探しまわる。トイレ、浴室、バルコニー、寝室のベッド、クローゼット……。  残す所はもう、ソファーと収納スペースくらいしかない。いや、このソファーには下に人が隠れられるほどの余裕はないはずだ。 「何してんの?」  収納スペースの前に立ち尽くす僕に、梓はそう問いかけた。どう言い訳をするつもりだろう。いや、もう言い逃れなどできまい。僕はどうすればいい? 男を殴って彼女を許すか。それとも……。 「開けるよ、ここ」  返事を待たずに、僕は手早く収納スペースの扉を開けた。  中には……誰もいない。まさかそんな。慌てて隈なく調べたが、2帖ほどの収納スペースにはやはり、誰もいなかった。  僕の勘違いだろうか。いや、梓の頭には間違いなく、あの男の顔が鮮明に浮かんでいた。なぜだ? なぜどこにもいないんだ?  収納スペースの前で呆然とする僕に、梓が後ろから問いかけた。 「どうしたの? 探し物?」 「いや、別に……」 「ねえ、ちょっと手伝って」  言われるままキッチンに行き、ティーポットとソーサーを持ってリビングに戻る。ふたりでソファーに腰かけると、ティーカップに紅茶を注ぎながら梓が言った。 「今日ね、授業が終わった後で、あの人と電話したの」  思いがけずそう告白した彼女は、カップをテーブルに置いて気まずそうに笑った。 「どっちからかけたの? 何話したの?」  思わず語気を荒らげ、僕は彼女に詰問した。カップを持つ手が小刻みに震える。 「むこうからかかってきたの。シゲちゃんと一緒に歩いてるあたしを見つけて、元気かなって思って電話したんだって。留学の話を聞いて、シゲちゃんのことも話した」 「よりを戻そうって、言われなかった?」 「うん、言われた。もちろん断ったよ」  梓の心に浮かんでいた彼のイメージがぼやけ、徐々に僕の顔へと変わっていく。 「でも正直、ちょっとだけ思い出に浸っちゃった」  そう言うと梓はテーブルの上に視線を落とした。スマートフォンがある。 「そういうことか」  思わず声を上げた僕を、梓はきょとんとした顔で見つめている。僕は苦笑しながら言った。 「ねえ、もし嫌じゃなかったら、元彼の写真、見てもいい?」 「見たいなら、いいよ」  スマートフォンの中では、まだ髪が長かった頃の梓が彼の横で幸せそうに笑っていた。だが僕にはもう、彼女が浮気をするのではないかという疑念はない。梓の頭の中には今、僕しかいないからだ。 「ねえシゲちゃん、さっきさあ、うちの中にあの人がいるんじゃないかって疑ってたでしょ」  図星を突かれた。 「ごめん。よくわかったね」 「テレパシーだよ」  そう言うと梓は、にやりと笑ってカップを傾けた。
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