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午後九時過ぎ、この日の最終便が無事着陸し、奥田と万優は奥田の行きつけだという料亭へと向った。明らかに一見さんお断りな雰囲気のそこに万優は少し緊張する。フレンチやイタリアンのそこそこいいレストランなら空と何度か行ったことがあるが、料亭は初めてなのだ。
庭が見渡せる廊下を抜けて、座敷に通される。メニューは全て奥田に任せた。
「いい店だろ? 飯も旨いんだ」
「こういうとこ……いつも通ってらっしゃるんですか?」
「いや、まさか。大事な人をもてなす時だけだ。普通なら、コーパイだって居酒屋程度だけどね――君は特別だ」
「え、特別……って……」
テーブルを挟み、向こうに座る奥田の言葉に、万優は唾を呑み込んだ。飛行機の操縦技術に感動したというだけで、こんなところまでついて来るのは少し無防備だっただろうか、と頭の中が混乱する。
「だって、一応他社のコーパイだしね。大事な将来の財産を無下に扱ったらY社から何を言われるか」
「まさか」
奥田の答えにほっとして、万優は声を出して笑った。
「ホントだよ。機長連中は良く知ってるけど、怒ると怖いぞ」
「それは、僕もよく知ってます」
万優が答えて頷くと、だよな、と奥田が微笑んだ。
「彼らは俺より年上なんだけど、俺よりも遅く機長になってるから一応こっちが先輩って位置づけだけど本当は違うんだ」
奥田は胸のポケットから煙草を出して灰皿を引き寄せた。一人称もいつの間にか変わって、既にプライベートに入っているのだと万優は感じた。少しだけ、肩の力が抜ける。
「確かに、経験は多く積んでますよね」
「俺は、コーパイの時結構国際線に乗ったんだ。一便乗るだけで十時間は稼げる。往復で二十時間以上……それだけ、機長昇格訓練がはやく受けられるってことだ」
コーパイから機長になるには、ある程度の経験を積まなければいけない。その一つに飛行時間というのがある。大体はこれが貯まらなくて昇格訓練が受けられないのだ。通常十年から十五年掛かるといわれている。
「ウチの会社は国際線撤退しましたから……僕も地道に稼ぐしかないですよ」
万優がため息を吐くと、奥田はそれに笑んで頷いた。
「その方がいいよ。国際線のクルーズ中なんて、食べてるか寝てるか喋ってるかのどれかなんだから。だったら、二時間程度で飛んだり降りたりした方がいい」
「けど……それだと一日に数時間しか乗れませんよね」
それは大きなマイナスだ。その方がいい、と言う意味が分からなかった。万優が言うと、奥田が頷く。
「確かに。けど、俺はその方がずっといい機長になると思うんだ」
「どうしてですか? 僕は、世界の空を知ってる方がずっといいと思うんですけど」
「そんなのは、機長になってからでいい。大事なのは、どれだけの『クリティカル・イレブン・ミニッツ』を経験しているか、だ」
その言葉は、パイロットなら誰でも知っているものだ。飛行機の運航の際、最も危険だとされる十一分間。離陸時の三分と着陸時の八分を足した時間である。
「クルーズはオートに任せればいい。けど離着陸に関してはそれだけとはいかない――確かに最近の機体はオートで着陸できるものもあるがな。けど、最後はパイロットの技術と勘だ。その大事な部分をどれだけ経験しているか……その方が大事だ」
「状況変化に強いってことですか?」
「多く飛べば色んな天候やトラブルに遭遇するからな。有能な奴ほど国内を飛ばせたいんだ。柚原も、大河もな」
「かな……大河も?」
突然名前が出て、万優はいつもの呼称が出そうになり慌てて言い換える。それを奥田は気づいて笑った。
「今はプライベートだ。いつものように話せばいい。俺もそうしてるんだ」
「はい。でも、空は早く機長になりたいみたいです。俺には父親との確執だってくらいしか話してくれないですけど」
「そういう奴ほどじらしてやりたいね、俺は」
その意地悪そうな口元に、万優が苦笑すると、襖の向こうから声が掛かり、料理が運ばれてきた。造形も巧みな料理に目さえも満足する。
「さあ、食べようか。今はご馳走に集中したい気分だ」
「俺もです」
二人は手元の箸を手に取って滅多に舌に乗せない上品な味を堪能した。
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