黄昏時に見える影

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 僕が初めて「彼女」の姿を見つけたのは、ある晴れた夕方だった。  夕日がだんだん山の端に沈み始める時間帯。彼女は遠くの方で、僕をただ見つめていた。車の弱いヘッドライトが道路にかすかな光を投げる。  その車列にまぎれるように、彼女の視線を感じていた。 (あんな子、知り合いのなかにいたかな)  長い髪が風に揺れる。  濃紺色のセーラー服。赤い首元のリボンが夕映えの空に際立っている。目が離せなかったのは、彼女がなぜかとても悲しそうに見えたからだ。今にも泣きだしそうな顔。涙が大きな瞳からこぼれ落ちていきそうで、どうしてそんな表情で僕のことを見ているのか、そのとき無性に気になった。胸の奥が締めつけられる。 (どうして、こんな気持ちになるんだ)  それから僕は、夕方の日が落ちるまでの数分、彼女を見かけるようになった。僕はその時間帯、いつも橋の上にいた。そこから見える風景がとても気に入っていたからだ。たとえ嫌なことがあっても、黄昏の光に包まれた川辺の景色を眺めていると、何もかも夜の始まりに呑まれていくようだったから。 「なんで、ここにいるの……?」  ある日、いつも僕を見ていた彼女にそう言われた。  聞かれて、僕は驚いた。  彼女が僕にこうやって話しかけてきたことにも。 「私のこと、覚えてない?」  続けてそんな風に言うから、僕はさらに仰天した。  やっぱり、僕は彼女と会ったことがあるんだろう。  僕が思いだせない、もう戻れない過去のどこかで。 「なんか見覚えがある気がするよ」  曖昧な言い方をしたのは、彼女をこれ以上傷つけたくないと思ったからだった。  彼女は相変わらず、とても悲しそうだった。 「君は僕を知っているの?」  彼女は目を見開いて――僕は、今度こそ彼女が泣いてしまうんじゃないかと思った。透明な膜に覆われた瞳はもう潤んでいた。  彼女は僕の問いにうなずく。 「この時間だから、会えたのかな」 「この時間?」 「日が沈む前の時間を『逢魔が時』って言うらしいから」  そんな彼女の静かな語り口を聞いていると、こんな風に彼女と話したことがある気がした。そこにはかけがえのない空気が、まだ濃密に含まれていた。 (どうして、僕は彼女を忘れてしまったんだろう)  すべての風景はやがて来る夜のなかへまぎれていく。  僕はまだ何かを忘れてる気がしたけれど、具体的な物事は何も頭に浮かばない。ただ、彼女の泣きそうな顔を見てると胸が締めつけられた。  その痛みの理由も、まだ僕には分からないのに。  僕が橋の上にいるとき、彼女は必ず現れた。そうやって言葉を交わすうちに、僕はなぜ彼女に見覚えがあるかを知った。  僕はずっとこの場所で、『誰か』のことを待っていた。  ある日、突然ここで別れることになったから。 「私、あれから毎日、君のことを考えてたんだ」  彼女の声が湿っている。  泣くのをこらえている顔で、でも気丈に話し続ける。 「少しでも会わせて下さいって、毎日神さまにお願いしてた。そんなこと、絶対もう無理だって分かってたはずなのに……」  彼女の声を聞くうちに、ひとつの風景が目に浮かんだ。 (そうか。あのとき(・・・・)、僕はここで――) 「最初見つけたとき、目がおかしくなったと思って、話しかけたらもうそれで消えちゃうような気がして、近寄ることさえできなかった。でも……」  口調は熱を帯びていく。  夕日を背景に語る彼女はとても綺麗だった。  同時に、とても悲しかった。  僕はもう少ししたら、消えてしまうって分かったから。 「また会えなくなるのなら、最後にちゃんと伝えたい。私は君のことが、本当にとても好きだった」  僕の心に遠い過去の記憶がよみがえる。  僕たちは一緒に学校から帰っていく途中だった。そこで、信号を無視した大型のトラックが走ってきて、正面から轢かれた僕は、ここで死んだ(・・・)のだ。  彼女は大切な人だった。  とても大切だったのに、彼女が誰だったのか僕は思いだせなくて、それでも彼女はここに来て、僕のことを見つけてくれた。 「ありがとう」  僕は言う。  泣きたいような気持ちだった。  でも、涙は出てこない。泣くには僕の存在は、もう希薄すぎたから。 「僕も君のことを、本当にとても好きだった」  ただ消えない想いだけが胸の奥に残留して、その想いに掬われて身動きさえできなくて、いつかと同じように、夕日をずっと眺めていた。  誰を待っているのかさえ、もう思いだせないまま。 「彼女を好きだった想い」だけが、胸に甘くあふれてくる。  でも、僕はこれ以上、ひきとめてはいけないのだ。直観的にそう分かって、 「さようなら」  と、僕は告げた。  実体をもう持てない僕は現実をどんどん忘れていって、その果てしない虚無に彼女を巻きこむわけにはいかないから。  彼女はこらえていた涙を両目にあふれさせていた。  僕は自分の体が群青色の宵闇に溶けていくのを感じながら、彼女が一日も早く笑うことができるように、遠い空で祈っていた。
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