【エピローグー7 years laterー】

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【エピローグー7 years laterー】

4年目の7月の朝、ナースステーションで来月の勤務表を作成していると、小児相撲部屋1の山田医師がひょっこり現れた。 わが小児病棟の病棟医はなぜか重量級ばかりで、ひそかに相撲部屋と呼ばれている。 「あ、おはようございます。」 「おはよう、“日勤”。な、お前知ってる?今度外科から回ってくるレジデント、なんとあだ名が“夜勤”なんだよ。」 「へーそうなんですか?」 朝の一番忙しい時間帯だ。暇な医者の与太話に付き合ってる時間はない。 「お前そっけないねー。日勤ってあだ名も滅多にないけど、そのペアになる夜勤が来るんだぞ?もー少し興味を持ってもいいんじゃないの?」 「ああそーですよね。下の名前が麻だから、モーニングにかけての日勤、って新人歓迎会で先生がつけたんですもんね。以来わたしは「日勤さーん」。」 「だろだろ?で今度来るやつがなんか、夜関係の名前らしくて、外科の新歓で「夜勤」レジデントって名付けられたらしいんだよ。」 「夜関係って何ですか」 「あー私知ってますよー。凄いうわさになってる新人君。ナースならみんなチェックしてるはず。事務の子たちは浮足立ってるし、担当患者さんのご家族でさえ噂するって。日勤先輩知らないんですかー?」 2年目の池谷が目を輝かせて入ってくる。仕事はデキるのだが、何と言っても噂話が好物ときている。小児科随一の情報通でもある。しかし今は申し送りを終え仕事が始まったばかりだ。 「ほらほら、池谷は仕事仕事。先生も医局で呼ばれてますよー。」 「少しぐらいー。」 「だめだめ、あんたの少しは仕事時間全部だから。ほら行け」 「わかりましたよ、行きますよー。じゃあ先生、この話はまた後で。」 「おう、仕事頑張れや。」 お前もだよ、と口には出さずに思う。 「おっとそれで、これが本題。そいつがもう少しで来るから、悪いけど来たら医局に連れてってやってくんない?俺どうしてもはずせない電話があって待てないんだよ。」 「先生、ナースは雑用係じゃないんですよ。新人レジデントのお守りはそちらでお願いします。」 「いや、大丈夫、日勤さんは大体ステーションにへばりついてるし、医局の方向をチョーッと指さしてくれれば良いだけっていうおいしいお仕事ですよ。」 「何がおいしいお仕事ですか。」 「おっと朝から気が立ってますねえ。怖い怖い。さあ仕事仕事っと。」 相撲部屋1は、白衣をパンパンに膨らませながら医局に去って行った。その途中で池谷に何か言って笑っているのが見える。まったく無駄話だけは1日中でも出来る二人だ。 その後は大変だった。頻繁なコールや電話に出、ステーションに来る子どもたちの点滴を見ながら相手をし、検査の為に寝かしつけなければならないベビーを抱っこ紐でおんぶし、サプライにオーダーするものをチェックし、そうしながらやっと勤務表にとりかかれそうになった時、机に影が差した。 「お子さん、いらっしゃるんでしたっけ?」 笑いを含む声が降ってきた。やっとこれから本来の仕事に戻れると思った矢先にこれだ。イライラしながら、顔を上げて、 「午後から検査の子どもですけど、何か?」 そのまま固まってしまった、以前のように。 「今日からこちらでお世話になる1年目レジデントの水木咲夜です。どうぞお手柔らかに。」 7年ぶりに聞くその声は、何度も何度も夢の中で聞いた声と同じだった。でも最後に見た17歳のあの時より筋肉が増えたのか輪郭が強くなっているし、顔が精悍に引き締まっている。もう少年ではなくなっていた。 「あ…4年目ナースの紺野麻です。」 「きゃーっ、」 という歓声が聞こえて、池谷が飛んできた。 「日勤先輩、この人ですよ、さっき話していた夜勤君。山田先生が、先輩とペアだなって言ってたレジデント。」 既に目がハートになっている。私はうんざりした。またナイト伝説を見る羽目になるのか。 「あー、聞いてました。小児病棟には切れ者の日勤っていうあだ名のナースがいるって。お前夜勤なんだから色々ご指導賜ってこいって、外科の先輩たちから。何卒宜しくお願いします。」 頭を下げるナイトは、でも絶対下を向いて笑っているはず。気がつけばなんとなく日勤スタッフたちの視線が集まってきている。皆こっちを見てヒソヒソ話している。なんとすでに頬が赤くなっている者さえ。私は深い溜息をついた。7年経ってもこれだ。ナイトは相変わらず普通にしている。ただ立っているだけなのにこれだけ目立つというのは本当にどんな気持ちなんだろうか。一回聞いてみたいものだ。 「日勤先輩、私、夜勤君を医局に案内しましょうか?」 池谷が手でもとりそうな勢いで言う。 「大丈夫、私が依頼されたから。それにあなたも病棟なんだからきちんと水木先生って呼ぶように。患者さんのご家族がギョッとするわよ。」 「はーい、先輩。」 ナイトの方を見て舌をチョロっとだしながら、池谷はステーションを出ていく。 言葉が出ない。職場で言葉が出なかったことなんか、新人時代以来だ。頼りになる先輩ナースでなければ、患者さんやご家族から信頼されるに値するナースでなければ、とずいぶん言葉を尽くして働いてきた。それなのに、この人は一瞬にして私を無言にさせる。7年前の幽霊のくせに。 「紺野さん、噂は聞いてたよ。“小児の紺野”がそう言ってましたって言えば、医者も黙るんだとかね。」 7年ぶりなのにさらっと今の話をする。その平常さが憎らしい。私も立て直さなきゃ。 「水木先生、本当に驚きました。こちらに勤務になるなんて全然知らなかったので。」 ナイトは目を細めて値踏みするような眼差しをした。 「ふーん、水木先生ねえ。ナイトって呼ばないの?昔みたいに。」 と今度は突然昔を持ち出す。私の心はナイトのせいでかき乱されること甚だしい。 「ここは職場ですし区別をつけないと。」 「じゃあ院外だったら呼ぶのか?」 もういい加減にして欲しい、この幽霊め。よしオフィシャルに徹してやる。 「さっき山田先生から指示があって、先生を医局にご案内するようにとのことでしたから、お連れします。」 そう言ってさっさと先に歩き出す。空気が揺らいでナイトが背後で笑ったのが感じられる。悔しいなあ、もう。余裕がありすぎて。私なんかアップアップしてるのに。おまけに、ずいぶん速足で歩いたはずなのにあっという間に並ばれる。病棟中の視線が私たちに集中している。相変わらずよね、何年経っても変わらない。 「ここです。もし何かまた御用がありましたらどうぞステーションにお越しください。」 軽く会釈して向きを変えたその時、 「もうブルーって呼ばれないの?呼んじゃいけないの?」 ナイトの温かな声が追いかけてきた。 驚いて振り向くと、卒業式の日に微笑んでくれたのと同じ懐かしい微笑みを浮かべて、ナイトが立っていた。
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