07.まひる

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07.まひる

全く不公平だと思う。 伝説化した兄を持つ身にもなって欲しい。私たちの両親ときたら生まれてくる子どものことも考えて欲しかった。おまけにこの名前。何で、まひるなのか。兄の名前が咲夜で私がまひるだなんて。不公平にもほどがある。 「ねえ、ママ、何でまひるなんて名前なのよー。」 「またその話?最高の名前でしょ。何回も言ってるじゃない。明るくて心が弾むようだって。」 「でもそのせいであだ名がずーっと“昼間”なんだよ。お兄ちゃんなんてナイトなのに。偉い差じゃない?」 「あーそうねえ。あのナイトってあだ名は最高よね。あの子にぴったり。」 ふふふと母は笑う。花のように。この人の美しさは変わらない。なんで母に似なかったんだろう。運命ってやつを恨む。っていうかDNA配列を。 「いいじゃない、あなたはママがだーい好きなパパに似てるんだから。」 それが全ての問題の根源なんだって。ママは気づいてるのか気づいてないのか。きっと思いもよらないんだろうなあ、パパにぞっこんだから。そりゃ私だってパパは大好きだ。ただ見てくれっていう、浅いけど女子高生にとっては何より大切な点においては、残念ながらパパは…ともかくせめて二重であればなあ。鏡を見て瞼をつまみ上げる。この重くかぶさってる瞼。一重の目がさらに小さく見えるじゃない。 「ただいまー。」 まひるなんて名前じゃなくたって、一瞬にして周囲を明るくするのびやかな声がして兄が帰ってきた。 「あら、早かったのね。お帰り。さ、洗濯物出して。うわー相変わらず泥だらけね。何をどうしたらこんなに汚れるものかしら。」 「ごめんごめん、今日グラウンド湿っててさ。」 毎夕繰り返されるやりとり。二階の部屋から顔を出すと 「よー帰ってたのか。」 と汗だくなくせに、男のくせに、ママにそっくりな笑みを浮かべて階段を上ってきた、この兄は。妹から見てもよくもまあこんな作りの顔なんだろう、と思ってしまう。整った眉毛に、スッと通った鼻筋。くっきりした二重(一番羨ましい)には涙袋までついてるし。瞳はこの間学校で習った黒曜石のようだ。特にその中心が輝いているのが特徴的で。だからいつでもキラキラしている。顎のラインは完璧な三角形だし。おまけに小5からどんどん背まで伸びだして、今じゃ30センチ以上も差がついてしまった。 「お兄ちゃん」 「あー?」 ドアを開けて部屋に入り、タオルで汗を拭いている兄に話しかける。 「今度の大会どう?いいとこまで行けそう?」 「んー、かもな。みんな調子上がってきてるし。怪我とかしなきゃ案外行けるかも。」 「お兄ちゃんの調子は?」 「おー、絶好調。」 「何その自信。」 はははと笑いながら答えるその顔には、でも順調に仕上がっている時の表情が浮かんでいる。兄はいつもこうだ。自分で目標を決めて、それに向かって当たり前に努力して、見合う成果を得る。この人は涼し気にやってのけているように見えるけれど、その努力は時々すざまじい。ただそれを見せないだけだ。いつだって明るく華やかで。でも悔しくて泣いているところも、走りこみ過ぎて過呼吸になったところも知っている。 「お前も見に来る?」 「当たり前よ。兄上の公式試合だもんね。ママも行こうかなーって言ってたよ。」 「うわ、マジ?それは勘弁だな。」 「なんでよ、伝説の競技場ホーム化、ママにも見せてあげたら?」 あれは一見の価値はある。私はまあもう慣れたけど。競技場が一つの大きな目になって兄を追いかける。あの感じ。この人はそのプレッシャーにどうやって耐えてきたんだろう。 「お兄ちゃん、あのさ、」 「うん、何?俺そろそろシャワー浴びたいんだけど。」 「いや、毎回よくあの注目に耐えられるなって思ってさ。すごく意識しない?」 「もう慣れた。」 ニヤッと笑いながら私を部屋から押し出す。 「さ、もう行けよ、俺もシャワーするから。」 「まひるー、お膳並べるの手伝ってー。」 母が階下から呼ぶ。 「やべえ、速攻シャワー浴びねえと。」 私を押しのけて二段ぬかしで階段を下りていくその背中を見送る。 シャワーから出てきた兄を待って、母と3人で食卓を囲む。 「今日パパは?」 山盛りになったハンバーグを取りながら聞く。そうなのだ、うちではおかずは1種類ずつ大皿に山盛りになって出される。だって、咲夜がどれだけ食べるかわからないんだもの、と母は言う。おかずは飲み物みたいに兄のお腹におさまる。なのになんで太んないんだろう?やっぱり不公平だ。私がどれだけ毎日のカロリーに気を遣ってると思ってんだ。まったく。 「パパは会食で遅くなるって。10時過ぎじゃないかしら。」 「ふーん。このところパパ忙しいね。」 「そうね、そういえば。」 母はゆっくり食べている。兄は取り分けたおかずを黙々と平らげている。 「咲夜、あんた今夜も走ってくるの?」 「おー、そのつもり。」 「お勉強は一体どうなってるんでしょうかね、咲夜さん?高3は目前ですけど。」 母がおどけて訊いている。でも全く心配していない声音で。 「ははは。」 「ははは、ってあんた。」 兄はハンバーグをもう一つお皿に取って、三口で平らげた。あまりに気持ち良い食べっぷりに見とれていると、水をごくりと飲んでから口を開いた。 「いや、この間さ、面白い女子がいて。」 おや?自分から女子の話をすることなんて滅多にないのに。ものすごく耳を澄ます。見ると母も同じだった。笑える。 「その子いつも大体学年1位なんだけど、トップ3に入らない男子の名前はわからないんだってさ。」 「いやだー何それ、ガリ勉、うるさ型?」 私は眉をひそめて聞き返す。 「いや、そう言うんじゃなくて、ゴールドと仲良かったりするんだけど。俺、前に試験4位だったじゃん?」 「あー、あんた頑張ってたもんね。前っていうか、あれからずっと4位じゃない?」 ママはほうじ茶を飲みながら答える。 「うん、まあそうなんだけど。で、俺のこと知らなかったんだって、4位だから。」 「ウソ、マジー、お兄ちゃんを知らない女子、うちの高校に、ってかこの辺にいたんだ。」 「あらまあ。面白い子だわね、確かに。」 と母は笑う。 「お兄ちゃんを、ほんとに?その人ほんとにうちの高校?なんて名前?」 「紺野麻さんって名前だよ。」 「げーっ、あの紺野さん?」 「あら、あんた知ってるの?」 大騒ぎする私に、母が興味津々といった顔で乗り出してくる。 「紺野さんって言えばトップで入学してそのまま君臨してるって人だよね?ある意味あの人も伝説な。」 「あらあら、すごい人なのねえ。で、結局咲夜のことは認識してくれたの?」 「うーん?どうかな。ただゴールドんとこに喋りに行くから結構ニアミスはあるかも。」 「大丈夫だよ、お兄ちゃん。だってお兄ちゃんだよ?ここらの商店街のおばちゃんだってみんな認識してるお兄ちゃんなんだから」 私は少し腹を立てて力説する。 「おお、ありがとな。まあ頑張るわ」 「あら?咲夜君、何を頑張るの?」 ママの目がきらりと光る。ママはこういう事は逃さない。 「いや別に何がってわけじゃないけど。」 そしてさらにハンバーグを取り分けて、兄は猛然と食べ始めた。 「まひる、もっと欲しかったらとっとかないと。咲夜がさらえちゃうわよ。」 私はあわてて二つお皿にとる。これくらいなら体重にひびかないかな?よね? 翌日、学校の廊下でゴールドさんに呼び止められた。 「おー、ひるまー、なんか久しぶり。お前、体重増えたんじゃね?」 全く一番言われたくないところを大声で。 「えーそんなことないですよー。ゴールドさんこそ、部活終わっちゃったらヤバそう。」 「お前なあ、俺はいつだってミスター青南よ」 胸を張るゴールドさんに耐えられず吹き出す。 「さっきナイトに会ったわ。なんかあいつ調子良さそうだよな。」 「あー、はい、昨日も夜、走り込み行ってました。」 「まったくあいつはどこまで練習すれば気が済むんだか…キャプテンがそんなんでどうする。」 「ゴールドさん、も、キャプテンですよね?ビー部大丈夫ですか?」 「お前、またもや失礼だな。だんだん兄貴に似てきたってゆーか。」 その時背後から、 「ゴールドあんた、私のおやつのバナナ持ってたでしょっ。机の上に載せてたやつ。」 とドスのきいた声がした。 「やべえ、ブルーが怒ってる。てかバナナがおやつってサル過ぎねえ?17歳の乙女がよー。」 「うわあ、気持ち悪い。あんたが乙女とか言うな。バナナ返せー。」 私は前後から挟まれて目を白黒させる。 「と、ごめん。」 「こえーよなあ。ひるま、こんな女になるなよ。」 「失礼な。」 「あ、あの…」 「あ、わりーわりい。こいつブルー。」 「?」 「あんたね、いきなりあだ名で紹介すんな。こんにちは、紺野です。紺野麻。」 ゴールドさんに話すのと全然違う声音で、突然にっこり笑って挨拶をされる。この人か、紺野さんって。なんだか思ってたとの違う。すっきりしてて、でも何だろ?強い光が漏れ出てくるっていうか。発光してるみたいな。お兄ちゃんは金色っていつも思うんだけど、この人は銀色っぽい。 「で、こいつはひるま。」 「違います。まひる、水木まひる。咲夜の妹です。」 「あ、ナイトの?そうなんだ、どうぞ宜しくね。」 あれ?ナイトって言ってる。お兄ちゃん、認識されてるみたいだよ。 その夜。 「今日はアジフライ?ってことはパパ帰ってくるんだね。」 「そうよー、みんなで久々に一緒に食べられるわね。」 パパはアジフライが大好物。私たち子どもは今ひとつなんだけど。まあ仕方ないか。準備するママがあんまり嬉しそうだし。この人は本当にパパが好きなんだなあ。まあ、良いことだ。 四人で食卓について大皿からそれぞれ取り分ける。ふん、やっぱりお兄ちゃん昨日に比べて鈍ってるねえ、勢いが。そういう私もだけど。 「あんたたち、昨日の勢いはどこに行ったの?お食べ、お食べ。魚はあんたたちのおつむに良いのよ。特に咲夜、トップ3くらいに入って、咲夜ここにありっての、見せてやりなさい。」 「ん、何だそれ?」 パパはついてこられない。ほとんど夕食なんて一緒にとれないから、仕方ないか。でも何だか可哀想にもなる。 「それだけど、お兄ちゃん。紺野さん、ちゃんとお兄ちゃんのこと認識してたよ。」 「あら、そうなの?」 「お前何で?」 ママとお兄ちゃんが同時に訊く。 「今日ゴールドさんと廊下で会って。そしたらゴールドさんが紺野さんのバナナ食べちゃったとかで、すごい剣幕で怒られてて。なんか大事なおやつだったらしい。」 ママが噴き出す。お兄ちゃんは、 「バナナ…紺野さんが?」 とこれまたクスリと笑う。これだ、友だちが騒ぎまくる“ナイトさんの微笑”ってやつ。 「うん、で私、前がゴールドさんで後ろは紺野さんに挟まれちゃって。その時ついでに紹介された。」 「ついでに?」 「うん。そしたらナイトの妹さん?て。ねえお兄ちゃん、大丈夫だよ、知ってたよ、紺野さん。」 「お、おお。」 「まあ良かったわね、咲夜。」 「ええと、なんだか話が見えないが…」 とうとうパパが当惑顔で口を挟んだ。 「あらごめんなさい。昨日ね、食事の時に咲夜が―」 とママがその場を再現してみせる。 「ほお、そんなお嬢さんがいるのか。」 「パパ、お嬢さんって。いつの時代よ。」 「あら、お嬢さんはお嬢さんよ。まひるだってお嬢さんよ。」 「ぎえーっ」 「これ、なんですか。」 「で、まひる、どんなお嬢さんだったんだ、紺野さんていうのは?」 一瞬、出会った時の紺野さんの顔を思い浮かべる。そうだ。 「…お豆腐みたいだった。」 「と、豆腐?」 「うん、でも銀色に光ってるみたいな。」 「銀色の豆腐みたいなのか、その子は?」 「あんた、もう少し現代国語勉強した方が良いんじゃない。その比喩って…」 ママが訳がわからないと首を振りながら言う。 お兄ちゃんは吹き出している。でた“ナイトさんの美爆笑”。 「で、咲夜どうなんだ、このまひるの表現は」 「いやー、結構良いとこついてるかも。俺はずっと月みたいって思ってたけどね。」 パパ、ママ、そして私は顔を見合わせて驚く。沈黙が食卓を覆う。お兄ちゃんが女の子の話を自分からした昨日も大ニュースだったけど、“月”と表現するなんて。私たち家族はお兄ちゃんが柄にもなく(いや多分みんなに言わせれば「まさにナイトさん」となるのかもしれないけど)、月を見るのが好きなのを知っている。小さい頃から、お風呂を出ると必ずベランダに出て、月を見てから寝ていた。今はどうかわからないけど。それでも今でも満月だと必ず教えてくれるので、私たち家族は満月を逃したことはない。その月みたいな紺野さん。お兄ちゃん、良かったね。お月様がお兄ちゃんを知っててくれて。
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