03.7月

1/1

91人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ

03.7月

「ッ」 階段を降りようとした時、手に何かが絡まった。ぐっと引っ張られる感触があり、それが誰かのイヤフォンコードだとわかったのと、その誰かが落ちそうになるウォークマンを取ろうと身をかがめたのとが同時で、バランスを崩したその誰かを支えたのが次の瞬間。両足を踏ん張り、片手で手すりを、もう片方の手でその制服の肩を必死につかむ。階段から落ちる、と思った瞬間に、逆に抱きかかえられて引き上げられた。コロンかな、それとも柔軟剤?かすかな良い香りに包まれ、ずいぶん長身の見上げた先は漆黒の瞳だった。 「ごめん、大丈夫?」 少しかすれた声で、その人は私の瞳を覗きこむ。あまりの事態に、私は慌てて手を振り払い、目を逸らす。心臓が大変なことになっている。 「うん。」 ともかく真っ赤になる前に逃げ出そう。私は巻き付いたコードをほどいて、その人の胸に押し付け、顔も見ずに階段を駆け下りた。まだふらついていたけど、ともかく走る。しまった、次の授業は4階の音楽室だった。チャイムもなっている。でもそれどころじゃない、大変だ、一大事だ。驚いた。「漆黒の瞳」って文章ではよく目にするけど、本当にそんな瞳を持つ人がいるんだ。黒曜石みたいに、中心がキラキラ光る、そんな瞳。吸い込まれそうになる瞳。 それが“伝説のナイト”だということはすぐにわかった。入学当時から、そういえばことあるごとに女子たちが、嬉しそうに「ナイトが」とあちこちで笑いさざめいていた。中学時代、毎年バレンタインデーには、校門に他校の女子生徒が集まり過ぎて生徒の下校に支障が出たこと、下駄箱からはチョコがあふれ出て、とうとう先生に下駄箱を封印されてしまったこと、卒業式には泣きすぎて貧血で倒れる女子が続出したこと、などなど、そんなバカなと思ってしまうほどのエピソードだらけの彼だった。しかもサッカーでも注目されていて、都立では結構強豪のうちのサッカー部の練習に、春休みから参加していたことも伝説度合いを高めるには格好の材料だった。 あのウォークマンの件以来、私も他の女子とまるっきり同じになった。廊下を歩いているナイト、体育の授業で走っているナイト、部活のミーティングで話を聞いているナイト、極めつけは、ゴールドの所に結構遊びに来るナイト、どうしたって目で追いたくなって困ってしまう。でもいちいちは見ない。それじゃあ、あんまりみんなと一緒で悔しいから。でも、時々は自分に許す。愉快そうに笑うその笑顔を見たい時、みんなの中心にいる姿を見たい時、すっとした立ち姿を見たい時。でもそんなわずかな時に限って、ナイトはこっちを見る。一瞬な感じで。こちらも瞬速で目を逸らす。逸らすのだけれど、やっぱりナイトの方が速く、必ず視線を捉えられてしまう。きっと、また誰かが見てるなくらいにしか思っていないだろうけど。青南はおろか、近辺の高校にナイトを知らない女子はいない、と言われるほどの人だもの。3人組によれば、東京でナイトを知らなければもぐり、だそうだから。 前にゴールドが自慢げに話していた。あいつは他人のことで自慢できる(変な日本語だけど)稀有な奴だ。 「ナイトってさあ、何て言うかフラットなんだよ。あれだけモテるだろ?もうどこ歩いててもさ、ろうなくだんじょ?」 「ろうにゃくなんにょ。」 「ああそれそれ。なんか口がニョロニョロすんなあ。お前、しねえ?」 「しないって、別に。それより先。」 「ああ、そうだった。って、何だっけ?」 「あんた…ナイトがフラットって言ってたけど?」 「おお、そうだそうだ。ナイトはさ、冗談じゃなく皆見るわけ。タッパあるし、男もオッてなって見る、みたいなさ。で、あいつフラットなんだよ。」 「ゴールド、あんた、語彙貧困すぎ。だから、何がどうフラットなのよ?」 「いや、ほらさ、見られてもさ、嫌がるでもなく嬉しがるでもなく、自慢するわけでも謙遜するわけでもなく。人気があるっていうのをさ、過不足無く受け止めてる感じなんだよ。何か普通にのびのびしてるっていうかさ。その上で自分で選択しているって感じ。根本がウォーム。」 「あんたさ、ほんと呆れるんだけど。そのちょこちょこ英語挟むの止めなよね。聞いてて恥ずかしいから。」 ゴールドは、はーっと大げさに溜息をついてみせる。 「ブルー、お前さあ、少しはナイト見習ったら?ウォームだよ、ウォーム。」 首を振るだけでなく、両手の平を肩のところで上に向けている。アメリカンか。でも、ゴールドが何を言いたかったのかは、少しわかった。ナイトは自分に向けられた視線を伸びやかに享受している。きっとそういうことだろう。そんな人を目で追う自分が嫌だし、悔しかった。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

91人が本棚に入れています
本棚に追加