14人が本棚に入れています
本棚に追加
「前に、知り合いに頼んでいた、有名料理研究家のもとで研修したい、って話なんだけど。・・ついに連絡が来たんだ。」
鬼切の目は真剣で、その話口調にも熱を帯びていた。
「研修期間は一応、東京で3週間。だが俺は、もしもそこでチャンスがあれば、そのまま修行したいと考えている。」
鬼切は、一歩二歩程向こうに歩んで、遠くの空を見つめている。
叶恵は、その鬼切の背中を何も言わず、じっと見ていた。
「人生でチャンスなんて、そんなにやってくるもんじゃない。これは、もっと凄い料理人になる、チャンスなんだ。」
そう言って鬼切は、叶恵の方を振り返り、歩み寄ってくる。
「今週の土曜日。俺は、東京へ発つ。だから、叶恵。君にも一緒に来てほしいんだ。」
突然の色々な状況の中、叶恵の頭の中で、散らばっていたパズルが、ようやく一つに合わさった。
鬼切が叶恵の両肩を持って、真剣な表情で伝える。
「君も夢だっただろ? 一緒に、東京で料理をやろう。レストランでもいい。はじめは食堂でもいい。」
その時叶恵は、それらの言葉を激しく打ち消すように言った。
「出来るわけない! そんな事、急に言われても、出来るわけないじゃない!」
鬼切は、唖然とした顔で叶恵を見つめる。
両肩に置かれた鬼切の両手を振り払い、叶恵が続けた。
「突然、あなたと私の2人がいなくなって、このレストランはどうするのよ! 私には、ここを捨てて行く事なんて出来ない!」
そう言って、手に持っていた航空券を、鬼切に突き返す。その勢いに押され、思わず航空券を手に取る鬼切。
それでも必死の鬼切は、叶恵に訴えた。
「俺には、君が必要なんだよ!」
両腕で自分の身体をしっかりと包み、叶恵は俯く。そして戸惑いの表情をして、震える声で言った。
「ダメ! 無理よ!」
その勢いのまま、この場を立ち去ろうとする叶恵。
「土曜日だ!」
勝手口に向かう叶恵の身体を引き留めたのは、背後からの鬼切の力強い声だった。
鬼切が、叶恵の背中に向かって投げかける。
「今週の土曜日。11時に、空港発。この航空券は君に渡した物だ。だから、表のポストの中に入れておく。」
叶恵は振り返らず、そのまま返答した。
「そんな所に? それに、そんな事したって、私は・・・。」
否定的な言葉を続ける叶恵の声を、鬼切の強い一言が打ち消す。
「俺は、待ってる。」
叶恵は何も言わずに、そのまま勝手口から中へと消えた——————。
最初のコメントを投稿しよう!