懐古水族館

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懐古水族館

「迷いましたね。」 「そうだな。」 涼やかな風が通り抜ける新緑の季節。 青々とした山の中腹で、私たち主従はぼんやりと目の前の建物を眺めていた。 掲げられた名を『懐古水族館』。 「こんなところに水族館なんてありませんでしたよね。」 「そうだなあ。」 洞穴じみた入り口が、鯉の口のようにぽっかりとアーチ状に開いている。 壁のあちこちは苔むしていて、木々の合間からこぼれる光と影がまだらに建物を光らせて。 「どうしましょう、何かしらの罠でしょうか。」 「特に悪い気配はしないけどなあ。」 平和ボケしていることは先日の用水路の一件からわかっている。 気を引き締めるようにジリ、と足元を踏みしめた。 自分の事では気が緩めても主人の事では緩められん。 が、主人はそう思っていないらしい。 「なに、どうせ浮世の暇つぶしだ。入ってみようじゃないか。」 「そうおっしゃるなら、私は止めませんけども。」 ずんずん進んでいく青龍様に追随する。 入ってすぐに、順路と書かれた立札が見えた。 受付らしきものは入ってすぐの壁に窓があったが、人の気配は無い。 朽ちかけの木箱に「観覧料 ご随意に」とボロボロの紙が貼られていた。 水族館の相場なんぞわからないのでとりあえず5000円札を一枚突っ込む。 こういう場合は何も支払わないと後が怖いのだ、過去の経験上。 「とりあえず5000円で。」 「水族館の相場が分からんな。」 「金の価値もコロコロ変わりますもんね。」 ともかくこれで準備は整った。 ひんやりとした空気が足首を撫でる、ガラス一枚に隔たれているとはいえ水場だ。 青龍様にとって、いくらかでも息のしやすい場所ならいいのだけど。 水族館はどうやら円形になっているらしく、一周するとまた入り口に戻って来られるらしい。 「おや、淡水魚がメインなのかな。」 「あ、ヤマメがいますね。」 3畳ほどのガラスの奥で、日の光の下で優雅に泳ぐ淡水魚たちが、緑がかった木々の隙間からこちらを見ている。 続く廊下の先にも、まるで校舎に並ぶ窓のように水槽が点々と並んでいるようだった。 「こうしてみると、懐かしいな。」 「青龍様は、川の神でしたものね。」 事実、青龍様とは川の神であったからこそ出会い、そして今もこうして一緒に旅をしている。 私が一緒に旅をしている期間よりも、青龍が神として地を納めていた時間の方が長いのだろう。 「そうだな、人の形をとるようになったのはごく最近だが。いや、人の形というか、形そのものをとるようになったのが、か。」 ゆったりと歩を進める。 どれくらいの水槽がここにはあるんだろうか。たいして広さはない気がするけども。 「おや、ハシナガチョウザメだ」 「お詳しいですね。」 「そりゃあ、自分の腹の中に入って居たんだからな。」 煌めく水槽の光が、暗い廊下をかろうじて照らし、目の前を歩く青龍様の背を、青白く照らしている。 揺らめく影を追いかけながら、何となく歩くスピードを速めた。 こぽこぽと聞こえる水の音が、自分が死んだときを彷彿とさせる。 「私が青龍様の中で死んだ時を思い出しますね。」 「なんだ怖くなったか?」 「まさか、私の極楽はあそこにありましたから。」 怖いのではない、なんだか奥に進むにつれて、体の輪郭がぼやけるような気がするだけだ。 青龍様の青い絹の羽織が翻る。 私はあわてて追い縋った。 深い青は、青い光と闇の中ではすぐ見えなくなる。 暗い青光が辛うじて廊下を照らす、こんな場所では特に。 不意に大きな影がヌッと光の中を横切った。 こんな大きな魚が淡水にすんでいるのだろうか。 声をあげようとして、声を 声 青龍様 青龍様 やはりここはおかしい 喉が 崩れ 体が ぼやけ くずれ まっ て 「ああ、ハイネリア」 「人間はお前にそう名を付けたそうだ」 「私は いや 私の中にお前がいたことは 無い 私という個を獲得する前の記録だ 地を覆った我ら そこから分かたれた  我を 人の 信仰によっ て 個 を   与 え      ら    れ 「青龍様!」 気が付くと叫んでいた。 握った主人の絹衣が、皺になっている。 肩で息をする私を不思議そうな顔で見下ろしながら、「なんだ、暗くて怖かったか?」などと聞いてくる主人。 気が付けば、入り口に戻ってきていた。 「青龍様、青龍様。」 「そんなに呼ばなくても、今も昔も私は青龍だよ。」 そう微笑んで私の髪をなでる主人、水族館に入ったときと差異は無い。 ずっと、泰然としている。 「お土産屋もあるようだよ、こじんまりとしているけど。何か買っていくかい?」 入り口側からは隠れるように、壁に埋め込まれるような形で売店があった。 無人の売店の中には、魚のキーホルダーやなぜか饅頭やら雑多に置かれている。 ビニールに包まれたポップなお土産たちを、蛍光灯の光が白々しくも明るく照らしていた。 「このキーホルダーなんてすごいぞ、プテリクティオデス、デボネンクス、お、ハイネリアもいる。」 さっき見たな。 なんて笑う主人の手の中には、あの巨影の主が象られた玩具が握られているんだろうか。 「青龍様、とりあえず私、ハイネリアが苦手になりました。」 「何故?」
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