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閑話休題:昔語り
鬼怒川の流れなんとも美しい。
「この川は少しばかり青龍様に似ていますね。」
「岩の多い川だったものな。」
広縁で2人、椅子に腰かけながら何となしに眼下の河を眺める。
青緑の滑らかな水面に、石の白と光が混ざり合う様は美しい。
「思い出しますね、大陸に居た頃を。」
「私はもっと透明だったがな。なかなの川だっただろう?染物を晒していた時など美しかったもの。」
あの山岳で発展した美しい染物も、それで織りなされる布地も、滅んでしまったから残っていやしないだろうけど。
事実を淡々と語る主人の、纏う絹はその失われた技術を使った献上品だ。
普段は人まねをしている青龍様も、昔の召し物を気まぐれに羽織ることがある。
青々とした山岳と流水の紋の中に、悠々と龍が泳ぐその着物の為に、果たしていくつ男の体が壊れ、女の手が擦り切れ、子供が山に惑うたか。
全ては神である青龍様の為。
土地の神、川と、それに付随する織物の神、そんな存在だったのに。
小娘一人を救ったが為に零落した、我が主。
川に打ち捨てられた私という信奉者を救ったが為に、本霊から断たれた、尊い貴方。
凍る一歩手前の川の中州に、ぼろ雑巾のように引っかかって死んだときの事を思い出す。
私の約束なんぞの為に、わざわざ私に魂を吹き込んで。
地に災いを這わせて。
私によって滅んだ、私の生まれた小さな村。高い山々に囲まれた小さな染物を生業にしたあの場所、すでに無い故郷。
私の事を親無しと蔑み、見目のせいで迫害し続けたあいつら、私を追いやったあの大人たち。
そんな奴らにも、哀愁の念とでもいうものが、いくばくかでも、うまれ、うまれ……。
いや清々するな。
「我が故郷の誇れるところは青龍様の存在と青龍様を彩る染物技術ですね、これに尽きます。」
「またそうやって生まれ故郷をそんな風に言う。」
「本当ですよ、青龍様の納めた山々です、美しかったですよあの世界は。」
「世界の中に人間が含まれていなさそうな言い分だな。まあいい、もう神でも何でも無い身の上だものね。」
川を眺めていた金の目が私を見る。
私のせいで神の座から切り離された主人、私の唯一の神、我が主。
「青龍様がこの世界の事を嫌になるまで、ご一緒しますよ。」
「お前は律義だねえ、まあそういう約束をしたがゆえに、私は神の座から降りたのだけども。」
ふと、ひび割れた窓からするりと冷気が差し込んでくるのを肌で感じた。
見やれば、もう日が暮れるらしい。
夕焼けが山間に沈んでゆけば、わずかな光に煌めく川面ばかりが眼下でキラキラと揺れている。
廃墟と化した旅館街に灯りがともることは無い。
「ここもどうしてこんな風に衰退してしまったんだろうねえ。」
「ほんの少し前までは営業していたようなのですが。世知辛いものですね。」
「盛者必衰、か。」
誰もいない鬼怒川をぼんやりと眺めながら夜は更けていく。
こんな寂しい宿も、悪くはなかった。
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