空知らぬ雨

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「今日からお世話になります、此花(このはな)万里(まさと)です。どうぞよろしくお願いします」  サラリと揺れる髪は美しい濡羽色、いや、これは女性の髪の色を形容する言葉だったか。しかし此花に至ってはこの形容がピタリと当てはまる。  事務員以外は全員男というむさ苦しい空間に、ひととき清涼な空気が流れた。  とある大手家電メーカーの営業部に所属する犀川(さいかわ)竜聖(りゅうせい)は、此花から目を逸らすことができなかった。周りを見ると、竜聖と同じように此花に見惚れている者も多い。竜聖は既視感を覚えた。  あれは、高校の入学式。  サッカーの名門校として有名だったその高校に、サッカー選手として入学を果たした竜聖は、その日運命ともいえる出来事に遭遇した。  上級生挨拶の時、登壇した当時生徒会長だった此花を見て、竜聖は目が離せなくなった。  男性とも女性ともつかない中性的な整った顔立ち、華奢な体躯、涼やかな声、此花の纏う凛とした雰囲気に圧倒され、そこにいた人間すべてが一瞬にして此花に魅了されたのではないか。  あの日のことはいまだによく覚えている。あの時と同じことが、またここでも起こっているかのように思えた。 「犀川!」 「……」 「こら、犀川! まだ寝てんのか?」  隣の人間に揺すられ、竜聖はハッと我に返る。部長がこちらを見ていた。 「あ、はいっ、すみませんっ!」 「シャキッとしろ、シャキッと。新人に示しがつかんだろうが」 「すみません」 「というわけで、お前に新人をつけるからな」 「……は?」  新卒の新入社員なら竜聖が面倒を見るのもわかる。だが、中途採用の新人の場合はその人物の前職でのキャリアもあるわけで、もっと上の先輩が面倒を見ることが多いというのに。 「此花君はお前の先輩だ。覚えてないか?」  なるほど、そういうことか。部長は此花の履歴書を見て竜聖と同じ高校の出身だと知り、どうせなら馴染みのある人間につけようと思ったのだろう。  覚えてないかと聞くが、覚えていないわけはない。あれほど竜聖に強烈な印象を与えた人間はいまだかつて存在しない。 「覚えてますよ。此花先輩、お久しぶりです」  そう言ってお辞儀すると、少し困ったような顔をしながら此花も頭を下げた。 「ここでは犀川さんの方が先輩です。こちらこそ……お久しぶりです」  同じ高校出身といえど、生徒は何百人もいる。互いが知り合いとは限らない。ましてや先輩後輩ともなると、同じ部活でもない限り知らない方が普通だろう。だが、二人には面識があった。いや、一方的に竜聖の方にあったというべきだろうか。ただ、此花が卒業する日、二人は互いの存在を認識することとなった。  此花は覚えているだろうか。いや、覚えているだろう。その証拠に、此花はどういった顔をすればいいのかわからないといった戸惑いの表情を見せている。  その出来事は、竜聖にとって忘れられないものとなる。あの日以来、竜聖の心の中には誰にも明かすことのできないものができた。心の奥底にひっそりと潜むその隠しごとは、いまだ燻り続けている。 「おぉ、やっぱり知ってたんだな」  部長が満足そうに頷いている。 「此花君と犀川は一年しか変わらんし、その上此花君は生徒会長をやっていた。犀川の方はあのサッカー強豪校でエースストライカーっていうんだからな、お互い目立つ存在だし、知らないはずはないと思ったんだよ。はっはっはっ!」  竜聖は部長の言葉を聞きながら苦笑いを浮かべる。部長はネタとばかりにいまだにこの話をするが、竜聖としてはもうそっとしておいてほしかった。  確かに強豪校でエースを張っていた。だが、怪我のせいでプロの道は断念せざるをえなかったのだ。高校二年の冬のことで、そこから竜聖の人生は一変した。今ではもうすっかり立ち直れているが、それでもあまり気持ちのいいものではない。 「犀川さん、どうぞよろしくお願いします。厳しくご指導ください」  その場の空気を変えるように、此花は声を張ってそう言った。凛とした涼やかな声がフロアに響く。  それを合図に解散となったが、部長はまだ何か言いたそうにしている。だが此花はアルカイックスマイルでそれを躱し、竜聖のところまでやって来た。 「前職でも営業をしていましたが、ここでのやり方を学びたいのでいろいろ教えてください」  此花の真摯な瞳を見つめ、竜聖はようやく笑みを見せた。  年齢を経ても、身に纏う清廉な空気はあの頃と少しも変わっていない。  再び会えたこの奇跡に感謝したい、竜聖は改めてそう思った。
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