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ふと、じわり、と胸に苦い感情が広がる。
空汰には、ずっとレンに訊きたいことがあった。怖くて、今までずっと訊けないままでいた。訊いてしまったらこの関係が崩れてしまうのでは、とずっと恐れてきたのだ。
けれど、それを訊くならば今だと、その苦い感情が空汰に訴えかけてくる。今だ。今しかない。そんなわけのわからぬ焦燥感が、空汰を襲っていた。
「レンは、」
そうして意を決して零したその声はひどく掠れていて、低くて、早口で、どうにも小さな音となって空汰の唇から零れ出た。その情けない声音に、空汰は知れず、眉間に深い皺を寄せる。
ただ、それでもレンの耳には確かに届いたようで、レンがちらりと視線を寄越してきたのを空汰は視界の端に感じた。こくり、ともう一度唾を呑み込む。そんなことでは、緊張ですっかり乾いてしまった喉は潤わないけれど。
空汰は自分を落ち着かせるように、ふうとひとつ息を吐くと、唇を舌で湿らし、今度こそ言葉を続けた。
「レンはさ、俺のこと、気持ち悪くないの」
けれど、言いながらずるずると視線は下に落ちていく。行きついたのは、自分のスニーカーだった。そのまま、汚れたスニーカーをじっと睨みつける。レンの方は見ることができなかった。レンがじっとこちらを見ていることはわかっていた。けれど、目を合わせることなど、できなかった。
しばらくしてレンは、はっと息を吐き出した。
「なんで」
そして短く、妙に早口なレンの言葉が返ってくる。それは彼が不機嫌なときの口調だった。それがわかって、空汰はスニーカーを睨む目に更に力を込める。そうしないと、あらぬなにかが目から零れ落ちてしまいそうだった。
それから、搾り出すように、言葉を続けた。
「だって、俺は、先生のことが……好き、だ」
このとき空汰は、初めて、その感情を言葉として口から出した。
自分の声が、そしてその言葉が、意味を持って自分の耳に入ってくる。入ってきて、脳がそれを理解する。理解をしてようやっと、今度は妙な緊張にどくりと心臓が跳ね上がった。耳の淵がふつふつと熱くなってくる。
そんな空汰に、レンは視界の端で小さく頷いた。
「知ってる」
レンは、ただそう言う。
レンにこの気持ちが悟られていることは、空汰にももう、なんとなくわかっていた。だから、訊きたかったのだ。レンがそんな自分のことをどう思っているのかを。空汰は、それがずっと知りたかった。
けれどレンは、空汰の思いなど露知らず、言葉を次ぐ。
「それで、なんで俺が、おまえのことを気持ち悪がるの」
その問いに空汰は思わず息を呑んだ。それは、空汰には、どうにも冷たいものに聞こえたのだ。
(それを、訊くの)
身体が、冷えていく。うるさいほどに脈打っていたはずの心臓が、一瞬にしてすうっと静まっていくのを空汰は感じた。
(わかってるくせに、それを言わせるの)
ふるり、と喉が震えた。目頭が熱くなる。
だって、花田は男で、自分も男なのだ。そこに生じる恋愛感情は、『普通』ではない。だからこそ、今までずっとこの感情は口に出せなかったし、レンに尋ねる勇気も出なかったのだ。この村で唯一親友と呼べる目の前の男を、空汰は失いたくなかったから。
「……普通じゃ、ないから」
小さく、空汰は言った。
「普通ってなに」
それなのに、レンはまた訊き返してくる。わかっているくせに、訊き返してくる。
「男は、女を、好きになるでしょ」
空汰が半ば投げやりにそう応えれば、レンは少しだけ間を空けたあと、どうにもやる気のない「へえ」という相槌を返してきた。それは、さも興味ないと言わんばかりの頷きだった。
そんなレンの応答に、空汰は、今度はかっと熱くなる。
この狭い村では、『普通』でないということは、生きていく上で大きな枷になる。それを、空汰は身をもって、もう十分に知っていた。そしてそれは、空汰のそばにずっといてくれたレンもまた、知っていることのはずである。
『普通』であることの大切さを知っていて、こうして、大した問題ではないかのようにレンは受け流す。空汰はそれに、どうにも腹が立って仕方がなかった。
空汰は思わず声を荒らげた。
「へえって、おまえな、」
が、その言葉は中途半端に途切れてしまった。
唐突に、レンの手が空汰の方へ伸びてきたのだ。それは空汰の腕を掴まえる。そしてそのまま、ぐいとレンの方へと引き寄せられた。まるでスローモーションのようだった。空汰は突然のことに抵抗できず、引かれるがままにレンの胸の上へと転がり込んだ。
「な、なに」
上半身を捻るように、隣にいたレンの上に覆いかぶさった空汰は、無理なその姿勢に呻き声を上げる。けれど、レンは空汰を離さなかった。むしろ、その背に腕を回してさえきた。一層レンの方へと引き寄せられる。地面について体を支えている手のひらに小石が食い込み、痛む。
「レン、痛い」
空汰が言えば、レンは空汰の耳元で「はは」と笑った。吐息が空汰の耳朶をくすぐる。そのこそばゆさに、空汰の肩がもぞりと震えた。
「こうされて、まず言うことがそれかよ」
笑いながら言うレンに、空汰は思わず唇を突き出した。
「むしろそれしかないだろ。急になんなんだよ」
「はは」
レンはまた笑うと、空汰の背中をぽんと叩いた。それから、なにかに満足したのか、そのまますぐに空汰を元の位置へぐいと押し戻すようにして解放した。
レンに押し戻されるままに元の姿勢に戻った空汰は、大きなため息を吐き出す。手のひらがひりひりと痛んだ。その手を見れば、小石がいくつか食い込んで赤くなっている。それをぱらぱらと払っていると、隣でレンもまた上体を起こし、金髪をがしがしと掻き毟るようにして土を払い出した。少し長めの金髪がレンの横顔を隠し、空汰からその表情は見えなくなる。
「……気持ち悪くなんてねえよ。俺とおまえの仲なんだから」
そしてレンは、空汰を見ないままにそう言った。その声には先ほどまでの明るさはなく、低く、そして、かすかに震えているようにも聞こえた。レンの顔が見えないことが、空汰をほんの少し不安にさせる。空汰はそんなレンから目をそらした。
「……俺とおまえの仲って、なに」
と、そう、ぼそりと問う。
考えるように、レンは緩く頭を振った。少しの間があって、レンがすうっと息を大きく吸う音が聞こえてくる。
「……え、友だち以上恋人未満、だろ?」
レンの口から出たのは、そんなおどけたような言葉だった。レンが空気を変えようとしているのが空汰にはわかった。いつものレンを、彼は今、装っている。そんな空気に、空汰は少しだけ、ほっとしてしまった。
「なにそれ」
そして空汰もまた、変わろうとしているその空気に乗るように軽口を返した。それがレンの作り出した虚構だったとしても、今はただ、とにかく早くこの重たい雰囲気から抜け出したかった。
この重たい空気の原因は自分の問いかけがきっかけではあったし、結局のところ、レンの思いを正確に知ることはできなかった。けれど少なくとも、この嫌な空気を変えようとレンが嘯いたというのなら、それはレンもまた、空汰を失いたくないと思っているということでもある。空汰が、レンを失いたくないのと同じように。今はただ、その事実にほっと胸を撫で下ろした。
「えー、冷たいよ、空汰くん」
「はは」
そして更に返ってきたレンの媚びるような物言いに、空汰は笑いを吹き出すようにして応える。
なんだかすっきりしたような心地でもあった。空汰は自分のスニーカーを見やる。汚れたスニーカーは幼さの象徴な気がして嫌いだ。けれど今だけは、不思議と穏やかな気持ちでそれを見ることができた。
レンのスニーカーは、自分のものよりももっと汚れている。洗ってももう落ちないような汚れ方だ。けれど、自分のスニーカーに抱くような嫌悪感はそこにはない。自分のスニーカーは子どもじみて嫌いなのに、レンのものだと、どうしてか大人びて見えるのだ。
自分のスニーカーもいつか、そんなふうに見ることができる日が来るのだろうか、と空汰は思う。
「レン」
自分のスニーカーに目を落とす。ふいに、少しだけ笑顔が滲む。
(決めた)
空汰は決めた。今、決めた。
「なに」
「俺、大学は東京に行くから」
「まじかよ」
「まじだよ」
「……追いかけんの」
レンに問われ、空汰はこの日初めて、レンをしっかりと、まっすぐに見据えた。
「うん」
「まじかよ」
「ふふふ、まじだよ」
空汰は、滲み出た笑顔のまま青空を見上げた。
「東京に行ったら、この空も好きになるのかな」
「知らね」
「はは」
ふいに、穏やかな風がふたりの髪をさわさわと撫でていった。
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