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《第1章 フィクションの欲望》 第1話 いざなう
《六月某日金曜日・午後八時過ぎ》
じわじわと迫り来る異変は、立花恵輔のもとにも訪れた。
街灯の明かりだけでは心許ない夜の公園。だが恵輔の視界には、暗闇など無いかのように青い光だけが映っている。
ライトアップされた噴水が、幻想的な世界に招待してくれているからだ。
青く染められた水が高く噴き上がる。それはいつもの光景だった。
誰しも程度の差こそあれ、美しいものには感情を動かされるだろう。自分は人一倍心惹かれる質だと、恵輔は思っている。
待ちわびていた時間。なのに今夜は、なぜか次第に高揚感が薄れていく。
言いようのない奇妙な感覚。
(俺……なんで噴水の中にいるの……?)
全身がびっしょりと濡れている。恵輔の脚はふくらはぎまで池に浸かり、目の前で煌めく水のカーテンを、内側から見ている。
こんな状況に至った原因など、全く覚えがない。いつも通り、この幻想的な世界を外側から楽しんでいたはずだった。
きっと夢を見ているのだろう。そう考えると、なぜか手足が上手く動かせないことにも合点がいく。
まるで何かに身体の主導権を握られ、動きを制御されているかのようだ。
確かな恐怖があったように思う。何かを恐れ、足掻こうとしていた。そんな危機感さえ今はもう幻のように朧げで、どうでもいいことのような気がしてくる。
水が冷たい。
首筋が、熱を持つのを感じる。
朦朧とした意識。それでも残った意思がここにいてはいけないと警告する。
辛うじて動かせる右腕を水の向こう側へと伸ばす。だが、恵輔の身体は少しずつ噴水の中央へと引き摺り込まれ、手首までこちら側へ入ってしまった。
視界を埋める青い水。その向こう側、少し遠くで動く何かが透けて見えた。
薄暗い中に人がいる。小柄な、少女だろうか。
少女は鈴のような音を鳴らしながら、こちらに駆けてくる。
その指先が恵輔の指先に触れた。触れたと感じた直後には、その手は離れていく。
恵輔の身体は、浅いはずの池に沈んでいく。そこでふと気づく。今までずっと、噴水の底に足がついていなかったことに。
「恵輔さんっ……問題ありません、必ず私がっ……」
絶え間なく降り注ぐ水を躊躇なく浴びながらそう言った少女は、見知らぬ顔ではない。
(本当に変な夢だな)
いつもクールな印象の彼女の声色に、焦りが滲み出ているように感じたことが新鮮だった。
ライトアップの人工的な美しさに負けない青い瞳が、恵輔を見下ろす。
光に包まれ、すっかり濡れてしまった色素の薄い銀髪も青く染まっている。
その姿は、まるで人魚姫を思わせた。
失っていた高揚感を取り戻せたというのに、水の中へと、恵輔は深く沈んでいく。
ついには全身が沈みきる。それでも恵輔は人魚姫を見上げ続け――
突如として、世界は切り替わっていた。
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