夢を見た

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            3/11  ある春の日のことだ。  ぼくは、しくしく泣きながら目覚めた。  夜中だった。  穏やかな夜だ。とても静かで、どこかさみしい。  春がそこかしこにいるのが感じてとれた。ちょっと冷んやりする、ちょうどいい温度。春の始めの、夜の温度だ。  部屋の窓は真夜中の群青色に染まっている。外の木立が揺れているので、群青色は薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。カーテンは両端に結われている。  あれ?ぼく、泣いているの?  はじめはそう思ったのだ。そしてその理由がわかったとき、ぼくは唇をすぼめ眉を寄せ、もう一度小さく、えーんと泣いた。  べにちゃんの夢を見た。  べにちゃんが悲しみのどん底から、立ち直ったときのこと。  ぼくがべにちゃんを、いとおしくて、守ってあげたくて、特別な存在になったときのこと。  べにちゃんがネクタイのことを嬉しそうに話す日には、必ず決まってこの夢を見るのだ。  ーー二年半ほど前の穏やかな秋の日、べにちゃんのお父さんが脳卒中で亡くなった。  そしておじさんが煙となって空へ昇っていった日から三十五日間、べにちゃんは夢遊病になった。三十五日間、べにちゃんは学校へいかなかった。  夜中にパジャマのまま玄関を開け、外に出かけていってしまうのだ。  はじめは近所の人たちが夢遊病だといい、次に病院にいくと医者の先生も夢遊病だといった。  でも本当は違うんだ、ぼくだけは知っている・・・。  なぜなら、ぼくもべにちゃんと一緒に真夜中に出かけていたからだ。 「夜、とてもさみしいの。お父さんのあたたかな声や大きな背中、穏やかに笑っている顔が、すぐそこにありそうで・・・。でもやっぱりないんだと気づくと、死んじゃたんだなと思うと、とてもたえられなくて・・・。それでここにきちゃうの・・・」  羽衣川(ころもがわ)のほとりに、天が原(あまがはら)セレモニーがある。火葬場。  辺りを田畑と、アシの大草原に囲まれた、おだやかな地。  小竹おじさんが、昇っていった地。  べにちゃんは夢遊病だと診断された後も、二階にある自分の部屋に黒色のスニーカーを用意して、雨どいを伝って地べたに下り、こっそり天が原セレモニーに通いをつづけた。スニーカーはべにちゃんから相談され、ぼくとべにちゃんとで買ったものだ。  夢遊病ではないけれど、あのときのべにちゃんは普通じゃなかった。  真上にあった月が、地平に沈むまで泣きつづけていたこと、「もう生きていたくない。」と、何度も口にしたこと、「帰れ、あんたなんか大嫌い。」といって、ぼくをぶったこともあった。  あの頃のべにちゃんは気持ちが壊れていたのだと思う。  ぼくは、べにちゃんを助けてあげたくって、冗談をいってみたり、映画に誘ってみたり、望遠鏡を探し出してきて星を見ようといってみたりとした。  ・・・でもなにをしても、べにちゃんを助けることはできなかった。  きっと、誰もそんなことできやしない、べにちゃん本人でさえ。  べにちゃんは、自分なりにお父さんの死をのり越こようと、お父さんのいない世界を受け入れようと、本当にもがいて、もがいて、もがきつづけていた。  誰にもどうにもできないことがあるんだって、ぼくは思い知らされた。ぼくにできることは、ただそばに居ることだけだった。  唯一、助けられるものがあるとすれば、それは時間だ。  三十五日目。   いつものように真夜中に家を出て、朝までここにいた。  ぼくはあの日の朝をけして忘れない。  東の空からばく大なヒカリがやってきた。空は高く青色を広げ、一帯のアシは風に吹かれて緑色の大海原となり、羽衣川の水色は止まることなく海を目ざしている。  そして夜は明け、べにちゃんの長い長い夜も、いつの間にか明けていた。  いつの間にかって、とても大事なことだ。  大いなる、やさしい、時の流れだ。  べにちゃんはゆっくりと立ち上がった。ヒカリというヒカリを一身に集めていた。朝という朝を身体いっぱいに受け取めていた。  べにちゃんは世界を眺め、世界にまみれ、世界と楽しげなことでも話しているように見えた。だってべにちゃんは、微笑んでいたから。  ひと月ぶりの笑顔。  こんな小さな身体でべにちゃんは、目の前の世界を受け入れていた。小竹おじさん、べにちゃんのお父さんのいない世界を受け入れていた。  そしていったんだ。 「・・・世界ってすてきね。お父さんはこの世界にいないけれど、わたし、生きていけるんだ。たけちゃん、わたし達、この世界をあますことなく、生きていけるんだね。」  ぼく思わず、泣いてしまった。べにちゃんに感動した。  べにちゃんを守ってあげたいと思った。  べにちゃんを愛おしいと思った。  べにちゃんとずっと一緒にいたいと思った。  こうしてぼくは、べにちゃんに初恋をした。  この日以来、天が原通いはなくなった。  ーーふたたび群青色の窓を見た。変わらず、群青色は薄くなったり濃くなったりを繰り返していた。  眠りながら泣いたのはあのときのべにちゃんを思い出したからだけど、次に泣いたのは自分のため、片恋のせい。  ぼくはこんなにもべにちゃんが好きなのに、べにちゃんの好きな人は、ぼくではない。  べにちゃんは、ネクタイのことが好きなのだ。
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