第一話

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第一話

 グリーンインフェルノと呼ばれる場所がある。  南米アマゾン川流域の大部分を占める地球上で最も広大な熱帯雨林地帯を指してそう呼ぶ。  総面積は約五五〇万平方キロメートル。これは世界の熱帯雨林の半分に相当する。  ちなみにアマゾン川の流域面積は約七〇五万平方キロメートルであり、七七〇万平方キロメートルのオーストラリに匹敵する広大さだ。  本流の長さは六五〇〇キロにも及び、水深は平均で五〇メートル、深いところでは一二〇メートルにもなる。  河口から四〇〇〇キロメートル上流までは遠洋航海用の船で航行が可能だ。  その流量は全世界の河川(かせん)の十五パーセント以上あり、本来海にいるべきサメから巨大ワニやアナコンダ、イルカにピラニア、デンキウナギまで何でもいる。  陸地も含めばそこで棲息(せいそく)する生物の数はわかっているだけで五百万種類以上だ。  四十センチを超えるムカデがいる。  二十人を殺せる毒を持つヤドクガエルがいる。  八十人を殺せる毒を持つドクグモがいる。  年間約四十五万人が死亡するマラリアを媒介(ばいかい)する蚊がいる。  発症したら助からない狂犬病を媒介する吸血コウモリがいる。  太古からの暮らしを変えず、文明との接触を(かたく)なに(こば)み続ける未接触部族と呼ばれるジャングル奥地に棲む部族がいる。  国土にアマゾンを含む周辺国は自然環境とともに彼らを保護している。  中には食人の風習を持つ部族もいると聞く。  そうした部族は不用意に仲間からはぐれた不法な森林開発業者や鉱物資源密採取者だけでなく、自分たち以外の部族も目に入り次第片っ端から容赦なく襲い生きたまま喰らうという。  音もなく近寄り、毒の塗られた吹き矢を放つ。毒にしびれて動けなくなっているのを彼らの集落まで連れ去りそのまま八つ裂きにして食う。  危険生物に重体になる病気に未知の食人族。  前述の通りアマゾンは自然保護の名の下に監視されこそすれ、何か容易ならざる事が起きない限りは基本的に放置状態にあり、そうしたパトロールやたまに訪れる学術研究チームなどを除けば金に目の(くら)んだ人間以外そんなところに行くことは、まず、ない。  容易ならざる事とは、自然にとっての意、例えば大規模森林火災などのことであり、強欲(ごうよく)な悪人どもが食人族に生きたまま食われようが(あずか)り知らぬ、要するに知ったことではないのである。  十二月。  その緑の地獄の中を。  独りゆく男がいた。  カーキで統一された服装をしていた。  キャンペーンハットを被り、半袖(はんそで)ボタンシャツに短パン姿。  男と言い表すことからわかるように成人だが、その出で立ちはまさにボーイスカウトのようだ。  身長は百八十センチはある。  男の名はT。  ひょんなことから超人になってしまった男だ。  ありのままに今この男について描写すると、どう見ても二十歳にしか見えないが正真正銘(しょうしんしょうめい)四十六歳である。  何を言っているのかわからない読者のために簡単に説明しよう。  呪われたような不幸な人生を辿(たど)り四十三歳にして警備員をしていたTは、ある夜突如(とつじょ)空から降ってきた隕石に頭部を撃ち抜かれた。  その結果、見た目は二十歳まで若返り、しかも薄毛に加えて顔デカ胴長短足短腕の体型だったのが豊髪の小顔で手足の長い筋骨逞(きんこつたくま)しい長身になり、さらにはスプーンを曲げる程度の超能力やバラエティー番組でよくやる催眠術のようなチャチなもんじゃない、もっと遥かに恐ろしい能力を備えた超人になってしまったのである。  隕石には地球外の未知の物質が付着していたのだ。  透明になれる。  Tは(おのれ)の皮膚を自在に変化させられる。  今身に着けている物は全て皮膚を変化させたものだ。  つまりボーイスカウトのような格好をしているTは実際は全裸と言っていい状態なのだ。  帽子も服も靴もそのまま脱皮という形で脱ぐこともできる。  同じように皮膚を変化させ、海中の烏賊(イカ)(タコ)のように、いやそれらとは比較にならないほど完全に周囲の風景に溶け込むことができる。  そうなったらサーモグラフィーでも使わない限り肉眼でその存在を捉えることは不可能になる。  透明になれる、とはそういうことだ。  皮膚を鋼鉄のように硬くすることができる。  その状態で繰り出す手刀は切れ味において日本刀を(しの)ぐ。  伝説の金属ヒヒイロカネもかくやと言うべき斬鉄(ざんてつ)の切れ味を発揮する。  斬鉄どころかこの世に切れぬ物はないであろう。  以上Tの能力のほんの一端(いったん)では、ある。  この能力の萌芽(ほうが)を自覚した日から三ヶ月後、Tは自宅の斜め向かいに住んでいたキチガイ一家を完全犯罪で(なぶ)り殺した。  Tたち家族が二十五年前に越して来て以来、数々の度を超えた迷惑行為によって絶えず悩まされ続けてきた不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であった。  超人にならなくてもいつかは()るつもりでいた。  超人になったことでそれが早まった。  決行したのは十一月の半ばであった。  その一ヶ月後、Tは生まれて初めて味わうと言っていい開放感のまま、マス大山やスーパーサイヤ人のように強敵との邂逅(かいこう)を求める腕試しの旅に出たのだった。  バスに乗ったら乗客全員が強盗だった、などの信じられない都市伝説で有名な南アフリカのヨハネスブルグを旅の起点に選んだのはそういう理由からだった。  そこからアフリカ大陸を北上、ヨーロッパへと入り、ウクライナまで進んだところで一旦イギリスに飛び、今度は中東へ向かった。  ときには喧嘩屋、ときには傭兵、ときには殺し屋としての旅だった。  イスラエルを最後に旧ロシア圏へ戻り、ロシアを抜けてアメリカ大陸へ渡ったTは、北米、中米ときて現在は南米アマゾンを踏査中(とうさちゅう)なのだった。  強敵を(ほふ)りながらの道中であるのは言うまでもない。  もっとも強敵の名に値する相手には滅多にお目にかかれなかった。  敵を倒すことと並行して各国の軍、情報機関、傭兵会社、マフィアなどに貴重な知己(ちき)を得た。  さすがに世界は広い。  ここアマゾンの地に来るまでにTは一度殺されていた。
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