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第二話
二年三ヶ月前の九月。
イタリアとフランスに跨がる西ヨーロッパ最高峰、モンブランを歩いて越えていたときだった。
よくある登山者の格好をしていたから入山の際に麓で怪しまれることはなかった。
夜中の一時頃だった。
白く分厚い氷に覆われた尾根の北西、フランスへと続く岩肌を無造作に下っていた。
一瞬、後頭部に何かが食い込むのを感じ、同時に意識が消えた。
それは二キロ後方からスナイパーが放った銃弾であった。
ダムダム弾であった。
あまりにも破壊力があるため戦場での使用は禁じられ、逆に戦場でさえなければ使用は可能ということで確実に対象物の動きを止めるため大物狩猟や外国の警察においては現在も多用されている必殺の弾丸である。
撃ったのはその世界では有名な年齢不詳の東洋系の殺し屋であった。
暗視スコープ越しに標的の頭部が粉々に吹き飛んだのを確認した。その場で依頼主に報告を済ませ、下山した。久々の大仕事であった。
相手は殺しても死なないと噂されていた。そんな人間がいるわけがない。ただ何人もの同業者が返り討ちに遭ったとは聞いていた。念のため、通常ではあり得ない二キロの距離からの狙撃であったが、結果はご覧の通りであった。
数日後、殺し屋はイタリア南部のカタンツァーロにあるホテルでモデル級の美女と一戦交えたあと、息も絶え絶えな女をベッドに残して素っ裸で夜景を見ていた。
何の前触れもなく背後に立った者がいた。殺し屋の後ろ蹴りが疾った。そもそも誰かの侵入を許す殺し屋ではない。連れ込んだ女? 考えるより先に体が反応したのだった──が。
殺し屋の視界は逆さまになった。
背後にいたそいつもまた全裸の男であった。
殺し屋の放った左後ろ蹴りは足首を男に掴まれそのまま宙吊りにされたのだ。
それは恐るべき業であったが、殺し屋はひるまず宙吊りと同時に目の前の勃起した陽物に右手の突きを打ち込んだ。難なく畳を突き抜ける四本の指はそれぞれあさっての方向に砕けて折れた。殺し屋の心は砕けなかった。チタン製のインプラントされた歯で男根に噛みついた。渾身の力で噛み千切る──はずだった。歯は一ミリも食い込んでいなかった。信じ難い硬度であった。生き物の一部とは思えなかった。
「男にしゃぶらせる趣味はねえよ」
その声が聞こえるや首に衝撃。男が無造作に右足で殺し屋の喉元に足刀を叩き込んだのだ。男の陰茎に掛かっていたボルトで固定されたチタンの歯がガムテープで引っぺがした臑毛のように抜け落ちた。
「もがぶごぉしゅ!」
ほとんどの歯がなくなり一瞬で老人のごとく皺皺にすぼまった口元からペンキのように鮮血を滴らせながら今度こそ驚愕の思いで殺し屋は相手の男を見た。
「!」
数日前にモンブランで射殺した男が、いた。殺し屋の瞳孔が錐で打った点のように小さくなった
そ、そ、そんな馬鹿なぁぁあぁぁあぁぁぁあっ!
「おまえ相当な腕だな、狙撃手としちゃあ。まさか二キロ離れたところから弾が飛んで来るとは思わなかったぜ。油断大敵ってやつだ。いい経験させてもらった。こいつはただの直感だがよ、おまえにやられたお蔭で次からは人工衛星から狙われてもかわせる気がするぜ」
微かに笑みを浮かべながらTは言った。
Tはこの殺し屋を殺さなかった。
殺すまでもなかった。
見逃されたものの、この殺し屋は狂ってしまった。
『となりのトトロ』の挿入歌『さんぽ』を声高らかに歌いながら、独りグリーンインフェルノを突き進むT。
途中見つけた毒ヘビ・毒ガエル・毒虫の類は片っ端から口に放り込んでいった。
そのために来たようなものだ。
ここまで来るまでに既に世界中で劇毒物・猛毒生物を摂取していた。
人間蠱毒になろうとしていた。
体内であらゆる毒を混ぜ合わせる。
そうして出来た究極の猛毒を自由自在に体のどこからでも出せるようにするのだ。
とは言え、四十センチを超す大ムカデやバナナスパイダーなどの巨大毒グモを生で食うのはさすがに気が引けた。
幸いなことにジャングルに踏み込んだ初日にアマゾン川でデンキウナギを十匹捕食していた。
当然生きたまま食った。
その際噂に聞く八〇〇ボルトの放電を味わった。
体が放電を覚えた。
デンキウナギを遙かに超える放電が可能になり、ムカデや毒グモは一瞬で焼き殺して食い、それらは芳ばしい香がした。
昼夜問わずマラリアを媒介する蚊が集ってくるが放っておいた。
Tにとまった蚊は即死していく。
Tの血中に猛毒が含まれているからではない。
他の毒を持つ生物と同様、Tの血中には毒はない。
そうではなくてそれはTの無意識下の生体防御反応のゆえであった。
蚊がTの皮膚にとまるとTの産毛が瞬時に針の硬さとなって伸び蚊を貫くのだった。
この能力はアフリカ縦断中に身につけたものだ。
どのみちTの体内でマラリア原虫が生きる余地はなかった。
Tの血中に流れる超人エキスがマラリア原虫であろうが狂犬病ウイルスであろうが宿主に牙を剥くあらゆるものを生かしてはおかないのだった。
夜になると襲ってくる、狂犬病を媒介する吸血コウモリも蚊と同様であった。
音もなくTの体に貼り付き、音もなく死体となって落ちた。
デンキウナギを食ってからは蚊や吸血コウモリがTの体に音たてず貼り付いた瞬間に高圧電流が生じそれらは即死するようにもなった。
無意識下の放電であった。
しかもこの放電現象は誰に対しても発動するのではなく、産毛の針化と同じくTに害をなそうとする存在に限られるのだった。
産毛が針となって刺し殺すか、放電によって殺すかはランダムであった。
Tの体内の毒についてもう少し説明しよう。
例えば毒ヘビの毒は消化液のひとつでしかない。
咬みつけば唾液が出る、その唾液に猛毒が含まれているだけなのだ。
だから毒ヘビが他の生き物を咬めば相手は毒ヘビの唾液に含まれる猛毒で死ぬが、同じ種類の毒ヘビ同士が咬み合っても効き目はない。
ではTの唾液にも猛毒が含まれているか、となるとそう単純な話ではない。
Tの意思次第、ということになる。
Tが相手を殺したければ相手を殺すだけの毒が、ちょっと弱らせたいと思うならその程度に弱らせる毒が、全く害を与える気がない場合、キスや性交の場合などには普通の人間と変わらないただの唾液となって分泌されるのである。
猛毒のフグと比較してどうか。
フグは肝臓に猛毒があることで有名だが、フグの中でもドクサバフグは全ての部位に猛毒があり絶対に食べられない魚である。
Tは血と筋肉、脂肪、皮膚には毒がないが、例外として筋肉で出来ている心臓には毒がある。
肺にもその他の内臓にも毒がある。
ただしT自身はそこまでは知らない。
誰かに自分の内臓を食われたことがないし、食われるはずもないのだからそれが当然だった。
Tには己の気分次第で唾液を毒と化せることがわかっていれば充分であった。
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