虹色バウムとキャンディーの雨

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虹色バウムとキャンディーの雨

夕暮れの街。生暖かく、妙に蒸し暑い空気に不快感を覚えながらも、足早に駅を目指す人の群れ。高層ビルが立ち並び、切りとられにごった空を見上げて、ぼくは小さくため息を吐いた。  黒く短い髪に、白目の無い真っ黒な目をしたぼくは、全身に黒い服を着て、人が作る波に流されていく。一見不気味で目立つ格好はしているが、群衆がぼくを目にとめる事はない。極端に他者への関心が薄くなってしまったのだろう。そういう世界になってしまったのだ。と、少しだけさみしく感じつつもぼくは割り切って生きている。  酸素を求めて深く息を吸うほどに汚れ、弱っていく肺。魚群のように目的地を目指して流れに沿って踏み出す足。人の理に縛られがんじがらめに繋がれたまま擦り減っていく精神。そのどれもがもう限界だと悲鳴をあげ、疲れきっているように思えた。  梅雨時と言われている割には雨が少なく、湿度は高い。だからといって夕立ちすら降らない異常気象に連日天気予報士は忙しそうに舌を動かしている。  だが、そんな些細な事は、ぼくには全く興味がない話しだ。異常気象は今に始まった事ではないし、○○年ぶりに。等と報道されている事から鑑みると、長い歴史の中では度々起こっている現象なのだ。大げさな報道は、無駄な混乱を生みだすだけだろうに。と、学習しない人間達を哀れに感じていた。  変わらない人類が変わるにはどうしたものか。そんな哲学的な事を考えながら歩いて行く。もうすぐ駅が見えてくるだろうか? そう思い定期乗車券でもだすか。とポケットに手を入れたところで、ふと、前方を歩く女性が目に付いた。流れに逆らうように歩いている女性は、長い黒髪をまとめる余裕もないのか、風に煽られたままにして、乱立するビルの陰に消えて行った。  流石にすれ違う人が彼女を見ていたが、彼女自身はそれに気付いていない。そして彼女を映したはずの人々は、姿が見えなくなった彼女に対して興味を失い、また群れの中に戻っていく。そんな彼女がどうしても気になってしまい、気付くと後を追いかけていた。  ビルの裏にたどり着くと、彼女はゴミ捨て場の陰に隠れるようにしてうずくまっていた。臭いもあるというのに気にならないのだろうか? そう思いはしたが、彼女は何も気にしていない様子だ。髪で隠れているから表情は分からないが、時折漏れる嗚咽から泣いている事は良く分かった。  こんな時。何て言えばいいんだろう?  興味本位でやってきたぼくには、無神経に何があったのかを訊ねる事も、無責任に話しを聞く事もできない。それは、ぼく自身が彼女を救う事なんて出来はしないとわかっているし、彼女の事を何も知らないからだ。中には、知らない人の方が話しやすいから。なんていう人もいるんだろうけど……。ぼくは、人を避けるように陰に隠れて声を出さずに泣いている彼女にかける言葉を持ち合わせていない。  それでも、来てしまったからには見捨てて無かった事にする。という事も出来ない。ここに来た時点で、自分勝手な感情のまま動いてしまったのだ。ぼくにしか出来ない事で彼女の心を安らげる事はできないだろうか?  悩みながら空を見上げる。薄汚れた空気のフィルターがかかった空は本来の色を失っていて、それは彼女の心のようだ。と、詩的な事を考えて苦笑する。ぼくにできる事は本当に少ない。たとえ魔法が使えても、万能ではなく人の心など救う事は出来ないのだ。  考え事をしながら無意識に人差し指をくるくると回してしまう。ぱちぱちと、明滅する光が目に入り、慌ててぼくは指先の動きを止めた。伺うように彼女を見て、背後の通りを見るが幸い誰にも気付かれなかった。その事に安堵して、また静かに彼女を見つめる。今度は、指先が動かないように気をつける。無意識で魔法を発動させました。なんて、洒落にならない。  魔法使い。  現代社会において、これほど異質な存在はないだろう。科学が発展し、魔というものはほとんど全て解明されている。そんな社会において魔法など不要に等しい  空が飛びたければ飛行機があるし、治癒魔法に頼らずとも大抵の病や怪我は治る。暗闇に明かりが欲しければ直ぐに手に入るし、遠くの人と会話をしたければスマホがある。そんな便利な世の中だが、確かにまだぼくらは存在している。  誰かの為に世界の理すら変えようと強く願い、いかなる代償も払うという覚悟をもった者。そして、その為の力を得た者を魔法使いと呼ぶ。力を得る条件はいまだに不明瞭だが、異なる世界を見る感性は最低限必要だ。それでも、そこに少しでも自分の為という考えが混ざれば、力を得る事は不可能となる。だが、魔法使いになると不思議と何の為に力を得たのか忘れてしまうのだ。  けれど、きっと最初の願いは叶ったはずだ。そうでなければ、淋し過ぎる。  力の代償が、きっかけとなった誰かの記憶。と言うのも寂しいものだが、皆その誰かが幸せになっている事だけを願っている。  ぼくら魔法使いは、ひっそりと、邪魔にならない程度に生息していて時代に合わせて進化もしている。人が暗闇を恐れなくなり、異の世界に敬意を示さなくなっていても、奇跡と呼ばれるものは存在するし、人外の力だってはたらく。魔法使いも目立たないだけで身近にいるのだ。……ぼくみたいに  それでも、奇跡を起こすかのように魔法を駆使して誰かを助けるなんて、ぼくにはとても出来ない。  ぼくが使える魔法のちんけなことと言ったら……。世界的に見ても、ぼくほどちんけな魔法使いはいないんじゃないかってほどだ。それでも、もしかしたら、目の前で顔も見せずに泣いている人を笑わせる事くらいは出来るかもしれない。  そんな思いを抱いて、彼女をじっと観察する。服装はシャツにスカートだろう。襟のところに可愛らしい花の刺繍が施されているようだ。少し幼く感じるデザインだから、若いだろう。と、勝手に推測する。抱えていて良く見えないが、鞄は年齢を問わずに人気のあるブランドみたいだし、靴はローヒール。もしかしたら、高いヒールの靴には慣れていないのかもしれない。  勝手に観察するのは申し訳ない気持ちになるが、これは魔法を使う為に仕方が無いのだ。イメージをしっかり抱かないと、きっと笑顔にする事はできない。服装は、それを知る為の手掛かりなのだ。 彼女は一向にぼくに気付く気配がないし、ぼくもどうするか決まっていない状態で彼女に声を掛けようとは思っていない。どうするか決まったらぼくの存在を伝えれば良い。それまでにする事といったら、関係のない人間がここを通りがかり、彼女の邪魔をすることがないようにすることくらいだ。そうときまれば行動は一つ。ぼくは宙に向かって左手の人差し指をくるりと円を書くように回す。それだけで、ここに通じている入口はぼんやりと靄がかかったようにぼやけていった。これで、誰かが立ち入る事はなくなったはずだ。  大昔は魔法陣を書いたり、長々と呪文を唱えたり、杖を使ったりと忙しかったようだが、今ではそんな古き良き魔法使いでいようとする人は少ない。呪文書を持ち歩くのが面倒だったり、杖を持ち歩く事で奇異な目で見られて迫害されるのを避けたりしてきたからだ。現代の魔法使いたちはかつて迫害された歴史から様々な事を学び、魔法そのものを目立たなくする事に成功した。代わりに、より強く、はっきりとイメージを脳に抱き、現実に影響をもたらす具現化の力に特化する事に成功したのだ。  陣も、詠唱も、杖も不要になったぼくたちは代わりに目を開いたままでも使いたい魔法がどう作用するかを脳に強くイメージする事ができる。映像と音声。時には匂いまで再現する想像力が魔法の源だ。強いイメージを抱く人ほど、魔法は強く発動する。 そういう知識は、各国に密かに存在しているアカデミーと称される学校のような場所で徹底的に叩きこまれる。イメージこそが魔法の源であり魔法そのものだと、アカデミーから一人前の称号を貰う頃には、誰だって断言できるようになっているのだ。 ぼくが使った魔法は、ここがぼくと彼女のふたりだけの空間になる。というもの。そこには誰も来ない。誰の邪魔も入らない。そんなイメージを強く抱くだけだ。しかし、ぼくはそれがどうも苦手だ。変に細かな事が気になって、いつもイメージに集中できない。 よって、中途半端な魔法になるか、周りがくだらない。と評するような魔法しか使いこなせないのだ。こんな半端なぼくだが、今回はうまくできたとほっとする。彼女の為に。その思いが強かったからか、いつもよりスムーズに魔法が使えた手ごたえがあった。  思い切り泣いたらいいさ。  泣いて、泣いて、顔をあげた時にぼくのとっておきを見せてあげよう。  誰もいないのに、声を殺して泣く、そんな彼女が何を抱えているのかなんて知らない。それでも、気になったのだから暫くは付き合おう。どうしても時間が掛かりすぎたら声をかけたらいいんだ。そう思い、黙って彼女の背中を見つめていた。 「……ど…、して……」  時折嗚咽交じりに聞こえる声は、彼女が泣く原因に対する言葉なのだろうか?  想像しかできないけれど、きっとそうなのだろう。静かな空間に時折声が響き、そしてまた静寂になる。彼女の声は小さすぎて拾いきれないけれど、それでいい。彼女自身が人に知られたくないと思うならば、それを聞くのは野暮と言うものだ。  どれくらいそうしていただろうか?  彼女が小さく鼻をすする音が聞こえた。泣きやんだのだろう。そして、弱さを隠してしまうのだろう。そうして擦り減っていく心はやはり、この薄汚れて色の曇った空のようだと思う。なにもできない。けれど、なにもせずに曇らせたままにしたいとも思わない。ぼくは彼女の背中にぼくの存在を示す為に影をつくる。彼女の背中がびくりと反応した。 「こんにちは。 具合でも悪い?」  怪しいものでしかないな。そう思いはするけど、他に何て声をかけたらいいのかも良く分からない。とりあえず、いる事を示して注意を向けて見ようと思ったのだ。それはあながち失敗ではなかったようで、緊張で固まった背中は、体調を案じる言葉に少し和らぎそしてゆっくりと立ち上がって振り向いた。 「あ……えと……、だ、だいじょうぶ、です。」  思ったより幼い顔立ちの彼女は、擦り過ぎたのか真っ赤に充血して腫れた目と、赤くなった鼻をごまかそうとするかのように俯きながらそう答えた。  嘘つき。泣いていたくせに。そう言いたくなる自分を抑えて、出来るだけ穏やかに見えるよう努めて笑みを浮かべる。もっとも、ぼくの笑顔なんてぼく自身が何年ぶりにつくったか分からないので、上手く出来ているかは分からないけど。 「そう?」 「は、はい。あの……、ありがとう……ござい、ます。」 「でも、疲れた顔をしているよ?」  会話を打ち切って逃げようとする彼女に向かって、思わず苦笑してしまう。丁寧で礼儀正しい彼女だが、どうやら嘘は下手なようだ。大丈夫ではないという証拠に、指摘されただけで目には涙が溜まっていく。  誰かに話して楽になりたい気持ちもあるが、話したところでどうにもならない。そんな思いが見え隠れする目は、ぼくと違って黒と茶色と白の三色で、とても綺麗だと思う。ぼくにはない色を目だけでもたくさん持っている彼女が、ほんの少し羨ましい。  しかし、今はそんな話しをしている場合ではない。そもそも、彼女にだってあまり時間は無いだろう。流れに逆らってここに来たとはいえ、帰宅する時間であっただろうことは人の動きからすぐにわかるし、空は少しずつ薄紫を孕んでいる。日が長くなったとはいえ、夜の訪れは意外と掛け足だ。 「……ほんとうに、だいじょうぶ、です」  泣きたいだろうに。彼女は薄く笑った。それは、ほんの少しだけぼくの心を絞めつける。どこかで見たような表情に胸が痛むのを感じた。 「何があったかは聞かないし、泣かないでとも言わないよ。それはどちらも酷く無責任で残酷だ。ぼくは君を知らないし、君はぼくを知らない。でもね……」 「笑顔にすることくらいは出来るんじゃないかと思うんだよ」 突拍子もないぼくの言葉に、彼女はどうやらぼくを不審者と認定したようだ。少しだけ後退した足を見て、気付かれないように小さく息を吐く。緊張を解こうとしたつもりが、初対面というのはなかなかうまくいかない。  こうなったら、事を先に進めたほうが早いだろう。ぼくはそう判断して逃げられないうちにと指でくるりと円を描いた。可愛らしい服装の彼女にぴったりの甘い物を。頭にすぐ浮かんだのは、さっき街で見かけた鮮やかなロリポップキャンディだ。 「どうぞ? お嬢さん」  空中から現れたロリポップキャンディ。それを差し出せば、おずおずと手を伸ばして受け取ってくれる。はねのけたり、叩きおとしたりしない。それはぼくにとってとてもありがたく嬉しいものだった。 「……手品?」  涙も引っ込んだのか、目を丸くして驚く彼女は、どこから出てきたのだろうかと首を傾げて手にしたキャンディを見つめている。  手品、か。そう思われるのは少し複雑だが、彼女に魔法であると説明するよりは、手品だと思って貰った方が受け入れて貰えるのかもしれない。そう思い直して、にっこりと笑みを深める努力をしたぼくは、胸に手をあてて仰々しく礼をする。彼女は彼女で、泣くのを忘れてしまったのか、ロリポップキャンディを持ったまま、ぱちぱちと拍手をしてくれていた。ほんの少し、表情が和らいでいる事が嬉しい。 「ねぇ、君、甘いものは好き?」  渡してからになってしまったが、そう訊ねると彼女は小さく頷く。先ほどよりも警戒心が薄れてるように感じるのは、彼女がぼくを手品師だと思っているからだろうか? なんでもいい。彼女の悲しみが和らぐなら、ぼくが何者かなんて本当に些細なことだ。 「……えっと、好き。です」 「良かった。それなら、君に取っておきを見せてあげよう。ちなみに、それはイチゴ味ね。君にあげるよ」 「ふふ……ありがとう。……お兄さんは、こんなところで手品の練習? それとも、大道芸の最中に邪魔してしまった……?」 「うーん……あえて理由をつけるなら練習。かな。お嬢さんに時間があるならすぐすむから見て行ってよ」  心配そうに揺らめく瞳。彼女の表情はころころと変わる。話しかけてまだそんなに時間が経っていないのに、これだけ表情が顔に出るならば素直な心を持っている子なのだろう。  ぼくの誘いに少し悩む素振りを見せている彼女は、少し考えてから小さく頷いた。  想像しか出来ないけれど、誰かに弱みを見せず耐えた彼女は強い人だ。けれど、泣いている姿は弱弱しく、今にも壊れてしまいそうだ。素直で綺麗な心は翳りで淀んでしまっている。それでも、こうしてぼくの酔狂に付き合ってくれる優しい人。  そんな君が曇ってしまうのは嫌だと思う。たまたま目に留まっただけ。行きずりにもならない関係だけれど、それでも……。 「君には笑顔が似合うと思ったんだ。ぼくの魔法で、君に笑顔が戻る事を」  女性が好きな物も分からない。君が好きな物もわからない。けれど、ぼくが宙に描く円には迷いが無い。  心に雨が降り注ぐなら、その憂鬱さを吹き飛ばすようなひとときを。曇り空の多い淀んだ外国の地にあるティータイムというひとときは、心を明るくさせる。そんな意味合いがあったはず。泣きやませる言葉も、寄り添う心も、君の話を聞いて解決させる力もないぼくには君の心が別のもので楽しくなるように考えるのが精々だ。  だからこそのとっておき。  同族にはファンタジックだとかロマンティストだとかバカにされる、しょうもない魔法だけれど、きっと君なら素直に喜んでくれるはず。  心の雨をキャンディに。曇る想いを虹に変えよう。  君の心にある雨なんて、食べてしまえば良いんだよ。憂いは虹がもたらす宝にかき消してもらえば良い。 「さぁ、上を見て」  誰も立ち寄らないビルの裏。その上にだけ金色の雲が掛かる。それに気付く人は君だけ。これは君だけのとっておき。だから、どうか目を逸らさないで。 「わぁ……。金色の雲だ。きれい……」 「まだまだこれからだよ」  笑いながら、くるり、くるりと指先を動かす。金色の雲は君の心に降る雨も、翳りもきっとどこかにやってくれる。その証拠に、君の目は雲を映して幼い子供のように輝き始めているのだから。  これから起こる事に期待している彼女の上で、金色の雲はふるりと震え、予想よりもはるかに勢い良く、キャンディの雨を降らせ始める。 「え……? わぁ! 飴が降ってきた……って、いたっ! 痛い痛い!」  バラバラと空から降ってくるロリポップキャンディは、彼女の頭をピンポイントで直撃していて、彼女は両手で頭を覆って傍若無人な雨から身を守ろうとしている。  おかしい。ぼくが想像したのはロリポップキャンディではなくて、普通のキャンディだ。子供に飴の絵を描いて。ってお題を出したら確実に描きそうなあれだ。それに、こんな勢い良く大量に降るのではなくて、パラパラと空から零れ落ちるように降ってくるはずなんだけど……。  首を傾げたまま考え込むぼくに気付く事もなく、彼女は痛い痛いと叫びながらも、逃げるわけでもなくキャンディの直撃を受けている。意外と根性もある子なのかもしれない。そんな事を思いながら、虹はどうしたんだろう? とふと思った。キャンディだけでなく、虹も掛かるようにしたはずなんだけど……。  もう一度指を動かそうとした時、金色の雲がふるふると震えながら、肥大化するのが目に入った。  なんだろう? よくわからないけど、危険な気がする。  彼女に危ないかも。と、声を掛けようとした時、それは空から落下してきた。  バフン!!  そんな音を実際に聞く事になるとは思わなかったけど、それは彼女の頭に直撃して見事なバランスで乗っかってきた。 「いたっ……! こ、今度はなに?」  そう言いながら、慎重に頭の上にある物に触れる。ゆっくりと頭からおろしたそれは、ご丁寧に袋にはいっているらしく、中身は七色の層をしたなにか。だった 「うん? なにこのおっきいの。……それに、やわらかい……?」  両手で抱えるサイズのそれを、ふにふにと潰さない程度に触っている彼女の言葉は、特に答えを求めているものではなさそうだ。上を見ると、まだ雲は震えていて、今度は片手におさまる程度の大きさになっている、謎の物体が大量に降ってきた。 「……痛くないけどなにこれ!? 私を狙ってるの!?」  先ほど降ってきたもので頭を覆う彼女はそう言いながら、地面に散らばっている飴やそれらを踏まないようにしつつも、避ける素振りを見せていた。  ぼくは得体のしれないそれを一つだけ掴むと、袋を破って中身を確かめる。  甘い香りと、やわらかい生地の焼き菓子。  七色の層で作られたそれは、バウムクーヘンだった。口に放り込むと蜜がしみだしてくる。砂糖の代わりに蜜を使って作られたそれは、どこか優しい味がした。 「……ふふっ……お菓子の雨…。痛いけど、かわい……やっぱり痛い! ふふ…っ、あはは! やだ~!」  彼女は声をあげて笑いながら、頭を覆っていた手を広げて降ってくるお菓子を取ろうとして手を伸ばしている。  無邪気な笑顔と嬉しそうな声に安心したぼくは、くるりと指を回した。とたんに震えていた雲は動きを止めて、ぽんっ。と、弾けるような音と共に姿を消した。彼女は空を見上げて雲の名残を惜しむような表情をしていた。 「これも……手品?」  彼女は目を輝かせてぼくの事を見る。その目にはさっきまであった暗さは無くて、明るく無邪気な子供のような光を抱いていた。 「お兄さんすごいね! あの雲も、これも全部お兄さんがやったの!? 練習なんてもったいないよ! これ、お客さん呼べるって!」  興奮している彼女の表情は明るくて、さっきまであった暗い気持ちもどこかに吹き飛んで行ったみたいだ。  よかった。  ぼくもその笑顔につられて自然に笑みが浮かぶ。 「こちらこそ、お姉さんに楽しんでもらえてよかったよ」 「ふふ、凄いものを見せてくれてありがとう! あ、でも、これもったいないね……」  彼女はさっきまでの笑顔を少し曇らせた。そして、地面に落ちているキャンディやバウムクーヘンを拾い集めていく。 「七色の焼き菓子なんて初めて見るし、せっかくだからこれは持って帰れたらな。なんて思ったんだけど、バッグに入りきらないの」  しょんぼりと肩を落とす彼女は、山のように降ってきたお菓子を全て持ち帰りたいとぼやいている。鞄に詰め込もうとする彼女に、ぼくは大きめの手下げ袋を手渡した。 「お姉さん、これ、離さないでね?」  念を押すと、彼女はこくこくと頷いて目を輝かせる。ぼくは得意げに笑うと地面に向かってくるりと指を回す。  もぞもぞ……とことこ……がさっ  地面に散らばった菓子達は雲と同じようにふるふると震えて、小さな手足をはやしていく。キャンディとバウムクーヘンがゆっくりと動いて交互に列を作ると、行進のように規則正しく、彼女が持つ袋に登っては中に落ちて行く。落ちた物は小さな音を立てると手足が無くなりただの菓子に戻っていく。 「え……? すごいっ……これも手品!? 自分で袋に入ってく! かわい~!」  きらきらと子供みたいに目を輝かせた彼女は、袋の底を掴んでよじ登る菓子を見て屈んだ。とたんに、苦労して登っていた菓子達は、袋にたどり着くと一気によじ登っていき、最初の整列はどこへやら。掛け足で袋に入っていく菓子達を彼女は嬉しそうに見ていて、生気の無かった顔は興奮して赤みがさし、満面の笑みを浮かべている。 「え~、どうやって歩いてるの!? 気になる! かわいい!」  騒ぐ彼女の持つ袋は膨れ上がっていて、もうすぐ満杯になるだろう。数個残っていた菓子も全て袋の中におさまると、彼女は雲の時と同じ表情で中を覗き込んだ。 「動画撮っておけばよかったぁ~」 「残念でした。でも、付き合ってくれた記念に、それはあげるよ」  心底残念そうにしょんぼりと呟く彼女に、袋を示しながらそう返すと、とたんにぱっと明るい表情を見せる。くるくると絶え間なく変わる表情は、ぼくに自然な笑顔をもたらしてくれる。 「いいの!?」 「いいよ。お姉さんの為に掛けた魔法だから」  笑いながら答えるぼくと、袋を交互に見た彼女は、とても大切なものを扱うようにぎゅっと袋を抱きしめた。 「ありがとう! 動画は撮り損ねちゃったけど、このお菓子を証拠にみんなに自慢しちゃおうかな」  大事そうに袋を覗きこみながら、嬉しそうに話す。何度見ても無くなるわけじゃないよ。安心させようと笑いかけると、彼女も笑い返してくれた。 「ねぇ、お兄さんこの辺で手品をやっているの? 今度友達も連れてきていい?」  見せてあげたいんだ。そう彼女は言って笑った。みんな喜んでくれる。と  そんな彼女の言葉には曖昧に笑ってごまかすと、彼女はそれをどう受け取ったのかそれ以上は何も言わずに地面に置いたままの鞄を手に取った。左手の袋には今にも零れそうなお菓子の山。仕事道具が入っているだろう鞄も重たいだろうに、右肩にそれをかけて、両手で巨大なバウムクーヘンを抱えた彼女はぼくに頭を下げた。 「本当にありがとう。お兄さんの手品のおかげで、元気でた」 「それはなにより。ほら、もう暗くなるから気をつけてね。変な人に声掛けられないようにさ」 「……お兄さんみたいな?」 「ぼくはただの通りすがり。変な人じゃないよ」  空を指して夜の訪れを告げるぼくに、彼女はすっかり元気になって軽口を叩いてくる。その元気があればもう大丈夫だろう。空はすっかり薄紫色になっていて、街は明るいネオンで彩られていく。くるり。くるり。人払いの魔法を解けば、一気に雑踏の騒音が耳に届くようになってきた。 「わ……、大変! このままだと帰宅ラッシュに巻き込まれちゃう!」  折角、早くに仕事を終わらせたのに! そう叫びながら彼女は人の波に乗って流れるように消えていく。ぼくはそれを見送ってから、空を見上げて首を傾げた。 「ぼくの掛けたかった魔法とは少し……、いや、かなり、違うんだけどな」  金色の雲から虹の橋がかかって、麓が彼女の足元にかかる。そこに宝箱でも。なんて、ロマンチックな魔法を掛けたはずなんたけど。  どこをどう間違ったら、七色のバウムクーヘンとロリポップキャンディになってしまったんだろう? 失敗の理由が分からないまま首を傾げたぼくは、薄紫の空に向かってくるり。くるり。数回指を回した。 「……みて! 雨も無いのに虹が出てる!」 「うわ! 虹じゃん!」  空に掛かった虹。それは、薄闇の空でも目立つように輪郭がきらきらと輝いている。他人に関心を失い、死んだような目で歩いている人々も、一斉に空を見上げ、瞳には驚きが浮かびきらりと光りを宿している。  空を見て、カメラを向ける人の顔に浮かぶ自然な笑顔を見ると、彼女だけではなくて、ここに歩いている人の心も明るく出来たのかな。なんてうぬぼれてしまいそうだ。  彼女にかけた魔法は失敗してしまったし、失敗も多いぼくのかける魔法はちんけだと皆にも笑われてしまうけれど、その魔法が彼女を笑顔にできた事がぼくは嬉しいと思う。それに…… 「ぼくだって、側に誰もいなかったら失敗しないんだよ」  指を回すまで消える事のない虹を見ながら、ぼくはぽつりと呟いて胸を張った。  彼女もこの人の波に流されながら空を見上げていたらいい。そうして、あの純粋な瞳に虹が映ったら、また輝かせながら笑うんだろう。無邪気に凄いとはしゃぎながら。今度はきちんと写真も撮れるだろう。  空が暗くなるまでビルの陰で人々が笑い、驚きながら虹を見ているのを眺めてからくるり。指を回す。とたんに虹は薄れていき、宵が訪れるのに合わせて静かに消えた。残念そうに空を見つめている人の中にするりと入り込んで、ゆっくりと動き出した人が作る波に乗ったぼくは思わず呟いていた。 「これだから、魔法使いはやめられないんだ」  誰かの笑顔。それが魔法使いであるぼくにとっての力なんだ。 ぼくはまたどこかで、くるりくるりと指を回す。名も知らぬ君に笑顔をもたらす魔法を掛ける為に。
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